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摩訶迦葉伝 マハーカッサパ バッダー・カピラーニー 原始仏教 涅槃 第一結集 阿難  トゥッラナンダー比丘尼 頭陀行 半座を分ける 入定伝説


 本論文はパ・漢の原始仏教聖典と注釈書文献に記される摩訶迦葉の記事のすべてを収集して、摩訶迦葉の伝記を明らかにしようとしたものである。その結論のみを記すれば次のようになる。
 摩訶迦葉はKapila(別名をNigrodhaという。いずれもパーリ語)を父として、Sumanadevī(パーリ語。中国伝承には「香志」とされる)を母として、マガダ国の王舎城の近くの町の裕福な婆羅門階級の家に生れた。
 後に妻となったBhaddā Kapilānīは、父を摩訶迦葉と同じくKapilaといい、母をSucīmatīといった。Madda国Sāgalā市在住の婆羅門の家庭に育った。
 二人とも宗教心に富んでいたので必ずしも結婚を希望しなかったが、両親の懇望に応じて結婚した。摩訶迦葉は20歳、バッダーは16歳であった。子供ができると、彼らは町の近くの静かな林の中にāśramaを作って林住(梵行)生活に入った。摩訶迦葉が30歳くらいになったころであった。āśramaの生活は一応は出家とされるが、しかし完全に家との関係が断絶していたわけではなかった。子供はまだ幼かったが、実際的な養育は里親に任せ、彼らはāśramaに住してその成育を見守った。その期間は12年間であった。
 そしてその後に摩訶迦葉はその頃生れかけていた四住期(これもサンスクリット語ではāśramaという)という生活階梯にしたがって遊行生活に入った。これは妻と別れての生活である。摩訶迦葉が42歳のころのことであった。
 ちょうどその頃釈尊も出家されてUruvelāにやって来られた。釈尊と摩訶迦葉はこのころに出会い、肝胆相照らすところとなって、もし阿羅漢になったら互いに師となり弟子となろうと約束しあった。釈尊はこの時29歳であったから、摩訶迦葉は13歳ほど年長であったことになる。
 林住期から遊行期に進んで以来、摩訶迦葉は隠遁的な遊行生活をしていて、釈尊が成道されたことも、マガダを中心に活動されていることも知らなかった。しかしやがて王舎城を中心に釈尊のサンガが形成され、活発に活動されていることを知ることとなった。釈尊も摩訶迦葉の消息を知るに及んで、わざわざ王舎城から多子塔のところに赴かれて、久しぶりの再会を果たされた。そして以前の約束にしたがって、摩訶迦葉は「あなたが師、私が弟子」と宣言して釈尊の弟子となった。このような経歴が「もと外道」と呼ばれる原因となったのである。
 この摩訶迦葉の帰仏は、おそらく白四羯磨具足戒法が制定された後のことで、釈尊が成道されてから10数年が経過していたと考えられる。したがって釈尊は50歳前後になっておられたが、摩訶迦葉はすでに60歳を越えていたのではないかと思われる。原始仏教聖典に登場する摩訶迦葉がすでに老齢に達しているのはそのためである。摩訶迦葉は釈尊の弟子にはなったもののサンガの生活にはなじめず、以前と同じような頭陀行の生活を続けた。そこで後に摩訶迦葉は頭陀行第一と称されるようになった。
 しかし頭陀行は一人で林の中に住み、あるいは一人で遊行する生活であるがゆえに、摩訶迦葉の存在は阿難など釈尊の教化活動の比較的後期に弟子となり、サンガの生活しか知らない比丘たちには知られなかった。そこで釈尊は半座を分けるなどのパフォーマンスをして、摩訶迦葉が自分と同等の存在であって、決して軽視してはならないことを知らせる必要があった。
 いわば摩訶迦葉は古いタイプの仏道修行者の代表であり、阿難は新しいタイプの仏弟子の代表者であって、そこでこの間に多少の軋轢が生じることになった。頭陀行そのものがすでにサンガ生活が常態化していた一般の比丘たちには仏教と異質なものに映るようになっていた。四依法さえも具足戒を受ける前に誦されることが禁止されていたのであり、提婆達多が提案した五事が拒否されたのは当然であった。
 また頭陀行を墨守するような古いタイプの修行者である摩訶迦葉には、女性を出家させるということには承服できないものがあった。そこで摩訶迦葉はその仲介の労をとった阿難にはよい感情を持っていなかったし、逆に摩訶迦葉は比丘尼たちからは敬遠される傾向にあった。その傾向の象徴的存在がThullanandā比丘尼であった。
 このようにして、釈尊の晩年になって摩訶迦葉の存在が教団に知られるようになった。その頃はまだ舎利弗も目連も存命であったが、彼らも摩訶迦葉には一目をおいていた。その彼らが釈尊に先立って亡くなってからは、摩訶迦葉の地位はいやおうもなく高まった。
 釈尊は満80歳の誕生日を、Vesālīの近郊の竹林村で雨安居に入ろうとするときに迎えられたが、その時大病を患われた。いったんは持ちこたえられたものの、その衰えは誰の目にも明らかであった。これが雨安居を終えて次の目的地であるクシナーラーに向かうとき3ヶ月後に入滅すると宣言されたというエピソードになった。阿難は釈尊の意のあるところを汲んで、その時王舎城にいた摩訶迦葉に至急クシナーラーに赴かれるようにというメッセージを送った。
 知らせを受けた摩訶迦葉はクシナーラーに急いだが、摩訶迦葉はそのときすでに93歳くらいとなっていた。そのうえ王舎城からの道のりは、ヴェーサーリーからの道のりの倍ほどもあり、そこでついに釈尊の入滅には間にあわなかった。
 こうして葬儀は釈尊の入滅後7日目にやっと執り行われたが、こうした流れの中で摩訶迦葉が釈尊の残された法と律の結集を主催することになった。