10月研究会報告 森 章司(2014.10.30)

2014.10.30

 10月29日(水)に第26回「釈尊伝研究会」を行いました。場所はいつものとおり中央学術研究所の会議室をお借りしました。今回は森章司の【研究ノート10】「Dīghanikāya『戒蘊篇』とその相応漢訳経典の説示年代の推定」を中心に議論しました。

 これはDīghanikāyaの1つ1つの経とその対応漢訳経典の説時を推定しようとするものです。前回(9月)にDN.001 Brahmajāla-s.からDN.008 Kassapasīhanāda-s.を提示したものの、時間不足で宿題となっていたので、今回はこれを検討するとともに、新たに提示したDN.015 Mahānidāna-s.も議論しました。
 この作業を通じて、仏在処や登場人物などの有意の情報が盛り込まれているパ・漢併せて12,000ほどのデータ(経蔵・律蔵)の1つ1つは驚くほど密接に関連しあっており、これらをジグソー・パズルのピースに喩えると、1つ1つが納まるべきところに納まって、完成すると立派な1枚の絵になるであろうという確信を得つつあります。これは原始仏教聖典に記述されていることはけっして絵空事ではないということを示すでしょう。

 このほかに本澤綱夫から「大林重閣講堂」についての報告がありました。
 重閣講堂はもともとはヴェーサーリーにあった公会堂のような公共施設で、竹林精舎や祇園精舎が建設される前からあったようです。これが後に仏教の施設になったようですが、それがいつごろのことであったのか今のところ不明です。
 またパーリでは常に「大林重閣講堂」と表わされ、大林と呼ばれる林の中にあったとされますが、漢訳では「獮猴池側重閣講堂」などというように獮猴池という池のそばにあったとされています。この建物がどのような風景の中に建っていたのかも興味をそそられますが、これもわかりません。
 なおヴェーサーリーというのはヴァッジ国の首都です。われわれはこの町の仏教史も書きたいのですが、この町を仏在処・説処とするたくさんのデータがありながら、実ははっきりしたイメージが浮かび上がってきません。王舎城のビンビサーラ王や阿闍世王、舎衛城の給孤独長者や波斯匿王などという有力な外護者がいないからです。このようなことがヴェーサーリーの仏教の性格を表わしているのかもしれません。