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釈迦族 釈迦族滅亡伝承 コーサラ国 波斯匿王 ヴィドゥーダバ 毘瑠璃王 メーダルンパ


 本稿は釈迦族滅亡伝承について調査し、もしあったとするならばそれは何年のことであったのかを考察したものである。
 この結論を紹介すると次のようになる。
 
 釈尊の最晩年に、釈迦国とコーサラ国の間に武力衝突があったことは事実として認めてよいであろう。それは波斯匿王の死後のことであり、また釈尊が入滅される数年前のことであった。したがって波斯匿王は釈尊の入滅よりも若干早くに亡くなったことになり、波斯匿王は釈尊と「私も80歳、世尊も80歳」という会話を交したことになっているが、それは概数であって、しかもおそらく入胎を誕生日とする年齢であったであろう。入胎を誕生とする年齢は出胎を誕生とする年齢に1歳ないしは2歳を加算したものとなる。メーダルンパで波斯匿王が釈尊とこの会話を交わしたのは、釈尊は77歳(入胎を誕生とする年令では78歳)=成道43回目の雨安居を舎衛城で過ごされるその前のことであった。
 そしてこの雨安居の後に、波斯匿王が崩御したからか、もしくは家臣の策略によってかによってヴィドゥーダバ(毘瑠璃)がコーサラの王位を継承した。もし後者のケースであったとしたなら、ヴィドゥーダバが王位を継承したときには波斯匿は生きていたことになるが、いずれにしても波斯匿王の死とヴィドゥーダバの即位はほぼ同時で、それほど時日は隔たっていなかったであろう。
 釈迦国とコーサラ国の間の武力衝突は、ヴィドゥーダバ即位の直後のことであった。上記のように考えると、波斯匿王の死とヴィドゥーダバの即位は釈尊77歳=成道43年の雨安居後のことであったとしてよいのではなかろうか。そしてその直後にヴィドゥーダバと釈迦族の間に武力衝突が起った。Bigandetは釈迦族の滅亡はブッダ成道後44年の雨安居前のことであったとしている。
 しかしその武力衝突はそれほど大規模なものではなかった。釈迦国はすでに長い間コーサラ国の属国であって、おそらくコーサラ王から自治権を与えられていたのであろう。現代風にいえばコーサラ国の釈迦自治区であったわけである。しかしヴィドゥーダバがコーサラ王になって、それまで波斯匿王との間に築かれていた信頼関係がなくなり、ヴィドゥーダバは釈迦国に与えていた自治権を剥奪するという動きに出たのではなかろうか。そこで釈迦族からこれに反発する動きが出て武力衝突が起った。仏教としては、このような事態を引き起こしたヴィドゥーダバはまことにけしからぬ人物であって、そこでヴィドゥーダバの出自を卑しめその狂暴さを強調する伝承が生まれ、そのけっか釈迦族は滅亡したとされるに至ったのであろう。