キーワード:

コーサンビー ゴーシタ長者 ゴーシタ園 ウデーナ王 サーマーヴァティー マーガンディヤー クッジュッタラー ボーディ王子 ピンドーラ・バーラドヴァージャ サーガタ 阿難 チャンナ 破僧


 本論文はパ・漢の原始仏教聖典を第1次資料とし、パーリのアッタカターや仏伝経典などを第2次資料として、これらからコーサンビーでの釈尊の事績や、コーサンビー出身のゴーシタ長者、ウデーナ王とその妃であったサーマーヴァティー、マーガンディヤー、あるいはサーマーヴァティーの侍女のクッジュッタラー、そしてウデーナ王の息子とされるボーディ王子などのコーサンビー王室に係わる人物や、コーサンビーと関係の深いピンドーラ・バーラドヴァージャやサーガタ、阿難、チャンナなどの比丘、さらにはコーサンビーの破僧などの事件に関する資料を網羅的に収集して、これらを分析することによってコーサンビーに仏教が何時頃、誰によってもたらされたか、コーサンビーの仏教の特質はどのようなものであったのかを考察したものである。
 ここに結論にあたる「コーサンビー仏教小史--まとめにかえて」の全文を紹介して、概要に代える。

 [0]以上の考察の結果を、コーサンビーの仏教小史としてまとめてみよう。コーサンビーに仏教が伝わるまでは、【論文16】に書いたことのまとめという意味にもなる。

 [1]釈尊は古代中国の暦で2月15日にブッダガヤーの菩提樹下で成道された。入胎から起算する年齢の数え方の満35歳と10ヶ月の日である。そして4月15日に満36歳となられた。そしてそのころから始まるその年の雨期はウルヴェーラーで過ごされ、その間に自分の悟った法を説かれることを決心されて、雨期明けにベナレス近郊のイシパタナ・鹿野苑に赴かれた。そこで釈尊は5人の共に修業した仲間を教化されるとともにヤサなどを弟子とされ、そこで満37歳の誕生日を迎えられて、成道後2回目の雨期を過ごされた。そして雨期が明けると弟子たちを諸国に教化に出され、自身はウルヴェーラーに帰られた。ウルヴェーラーにおいて力を持っていたウルヴェーラカッサパなど三迦葉を折伏するためである。
 こうして再びウルヴェーラーに帰られた釈尊は三迦葉とそ弟子1,000人を教化する間に第3回目の雨期を過ごされた。一方諸国に布教に出た弟子たちは釈尊の弟子となりたいという希望者が現れるたびに、ウルヴェーラーにおられる釈尊の元に帰っていたのであるが、このようなことを繰り返しているうちに疲れ果てた。釈尊は釈尊でそのためにウルヴェーラーを離れるわけにもいかず、行動の自由を奪われていたので、そこで釈尊は弟子たちが出先で三帰依を誓わせることによって自分たちが自分の弟子を取ることを許された。それまではすべて釈尊が「善来比丘具足戒」で自分の弟子とされていたのであるが、この「三帰具足戒」を許されたことによって、弟子たちのサンガの原形が形成されることになったわけである。これはウルヴェーラーに帰ってから7度の雨期を経過したころであって、釈尊成道10年、釈尊は45歳になられていたことになる。
 こうして釈尊はウルヴェーラないしはガヤー近辺において、いつ諸国から帰ってくるかもしれない弟子を待っている必要はなくなって、王舎城に移りビンビサーラ王や舎利弗・目連と250人の仲間たちを教化した。それはその年か明くる年、すなわち釈尊成道10年目か11年目のことであったであろう。このなかにピンドーラ・バーラドヴァージャが含まれていた。こうして経典によく出てくる釈尊を取り巻く1,250人の「仏を上首とする比丘サンガ」が形成されたわけである。
 このようにして釈尊のサンガは急成長することになったが、弟子たちに新しい弟子たちを取ることを委ねたために、出家させるにふさわしくない者を出家させたり、出家した者の中には出家者にあるまじき振る舞いをする者が現れたりした。そこで釈尊は和尚と弟子の制と、新規に出家具足戒を受けた者は10年間は師匠とともに生活しなければならないという制度を作られた。したがって先に舎利弗・目連とともに釈尊の弟子になったピンドーラは、釈尊成道20年目くらいまでは釈尊とともに生活していたはずである。
 こうしてサンガ形成の基礎的な準備が整い、和尚と弟子の制が制定されたすぐ後に、三帰具足戒が廃止されて、白四羯磨具足戒が制定されることになった。この時正式なサンガが形成された。これは王舎城で第10、11、12回目の雨期を過ごされた後のことで、釈尊は48歳になられていた。
 このように釈尊は、成道後の12年余は王舎城を中心に活動されていたのであって、仏弟子たちは諸国に布教に出ていたけれども、新規の出家希望者が出るとそのつど釈尊の元に帰っていたのであるから、諸国に仏教が根を下ろすということはなかった。おそらく諸国に布教に出た弟子たちが、その地に根を下ろして布教活動を開始するようになったのは、三帰具足戒が許され、さらに白四羯磨具足戒法が制定されて、正式なサンガが成立したおそらく成道12、3年目のことであったであろう。
 したがってこのころまでは、舎衛城においてさえも仏教は行われておらず、たまたま王舎城に商用に来ていた給孤独長者が仏が世間に現れたことを知ることになり、初めて釈尊を舎衛城に招待することになったことが契機となった。釈尊はこの招待を舎衛城に精舎を建てることを条件にそれを受けられ、こうして釈尊は初めて舎衛城を訪問されることになるが、それは成道14年目のことである。とはいうものの、その頃のコーサラ王波斯匿はいまだ仏教に理解をもっていたわけではなかったから、これを機に一気に仏教がコーサラ国に定着したというわけではなかった。

 [2]したがってこのころはまだコーサンビーにも仏教は伝わっていなかった。しかしやがてコーサンビーの長者たちが、コーサラ随一の長者であった給孤独が新しい宗教に熱心であるということを聞いて、おそらく商用のついでにでも釈尊の説法を聞くことになった。心服した3人の長者たちはコーサンビーに精舎を作るからと釈尊を招待し、ここに初めて釈尊はコーサンビーに足を踏み入れられることになった。おそらく舎衛城に仏教が伝わってから8年くらい経過した、仏成道22年くらいのことで、釈尊57歳のころであった。
 そしてそのときコーサンビーの王室にも仏教信者が生まれることになった。それがウデーナ王の王妃であったサーマーヴァティーとヴァースラダッターであり、サーマーヴァティーの侍女であったクッジュッタラーであった。その時後にバッガ国の王子となるボーディは母親であるヴァースラダッターのお腹の中にいた。もちろんウデーナ王も仏教に触れる機会はあったが、未だ仏教に理解をもつに至らなかった。
 この時にはピンドーラは10年の共住弟子時代を終わって、一人前の比丘になっていたが、「仏を上首とする比丘サンガ」の一員としてコーサンビーにやって来た。そしてある日ウデーナ王に会うことになるが、むしろウデーナ王から迫害を受けた。
 また釈尊から秘書室長的な役割を与えられていた阿難は、釈尊が意識的に自分の代理をさせたということもあって、コーサンビーの人々から絶大なる信頼を得ることになった。

 [3]王がこのような姿勢であったにも拘わらず、コーサンビーでは商人階級を中心に、王室の一部を取り込んで、仏教は着実に発浸透していった。こうしたときに釈尊は再びこの地方に遊行されることになった。最初の訪問から3年くらい後の釈尊60歳のころのことである。
 その中にかつて釈尊の侍者を勤めたことのあるサーガタが含まれており、サーガタはコーサンビーを首都とするヴァンサ国の隣国であったチェーティ国ないしはバンガ国において毒龍を退治することになった。ここはサーガタの母親の出身地であったということもあって彼はここにおいて外道の折伏に力を発揮したのかも知れない。
 そしてこのころには頑なであったウデーナ王の心も仏教に傾き始めていた。あるいはそのままコーサンビーに残ったピンドーラの教化の努力があったのかもしれない。こうしてこの時には、釈尊の一行はウデーナ王にも歓迎されることになったが、王はついに釈尊と親交を結ぶには至らなかった。

 [4]このようにして仏教はコーサンビーにおいて徐々に定着し、仏成道35年、釈尊が70歳になられるころには、隆盛期を迎えることになった。釈尊と共に育ち、釈尊が出家するときに従者として共に城を出たチャンナは、このころコーサンビーで力を持つようになっていて、大きな精舎を建てたり、忠告に耳を貸さないなどの横柄な態度をとるようになっていた。
 その時たまたま釈尊は3回目のコーサンビーの訪問をされていたが、チャンナの扇動に乗ったのであろうか、コーサンビーのサンガに紛争が持ち上がった。ほんの些細な律の規定をめぐる争いであったが、仏教の教えの本質からははずれて、形式的に処理をしようとする既成化が各地のサンガに起こっていたのである。そしてコーサンビーには増上慢のチャンナがいたせいであろう、釈尊の仲裁があったにも拘わらず、「これは私たちのことですから、釈尊は嘴を入れないで下さい」という調子で、ついに破僧がなされるに至った。
 釈尊は愛想を尽かされて舎衛城に帰ってしまわれたので、コーサンビーの在家信者たちは怒って比丘たちに日々の供養をしなくなった。糧道を断たれてしまった比丘たちは困って、釈尊の後を追いかけ、舎衛城に至って和解した。

 [5]釈尊の最後のコーサンビー訪問は初めての訪問から20年くらいたった後の、成道42年、釈尊が77歳になられたころであった。この訪問の主目的は、バッガ国の王子であるボーディ王子の招待によるものであったかも知れない。そしてこの時にもコーサンビーを訪問されたであろうが、あまり大きな事績は知られない。しかしコーサンビーにはいまだにチャンナが居座っていて、あるいは専横的な振るまいがなされていたのかも知れない。釈尊はそれが入滅の時まで気にかかっておられたのであろうか、入滅に際しての遺言のような形でチャンナを梵壇にかけることを命じられた。

 [6]釈尊は入滅にあたって、自分のなき後は、「あなたたちのために私が説き、制した法と律が、あなたたちの師である」と遺言された。そこで釈尊入滅の年の雨期に王舎城に代表的な仏弟子500人が集まって、雨安居を住しながら、仏教の指標とするべき法と律を確認する結集が行われた。その最後に議長を務めていた摩訶迦葉は、その遺言と同時に「チャンナに梵壇をなせ」という遺言があることを阿難から聞いて、阿難にコーサンビーに赴いて梵壇を行うことを命じた。阿難とチャンナとは師弟関係にあり、また阿難はコーサンビーの人々からの信頼が厚く、チャンナにも対抗しえるということがあったからであろう。
 あるいはこのような因縁があったから、釈尊入滅後のコーサンビーの仏教は阿難を中心として回っていったかもしれない。釈尊が登場されない、阿難が主人公の経がいくつも存するからである。

 [7]コーサンビーは東インドと西インドをつなぐ、そして北インドと南インドを結ぶ、東西・南北の交易路の中継地点にあり、当時のインドを代表する大都会であった。したがってこの地に仏教が根づくについても商人階級の功績が大きかった。
 とはいうものの、仏教の中心地はガンジス河の中流域に拡がるヒンドスタン平野にあり、釈尊の活動地という面からは中心からややはずれるという位置にあった。だからここには、マガダやコーサラやヴァッジといった仏教中国の中心地に位置する仏教とはやや異なった雰囲気が醸成されていたかも知れない。提婆達多が勢力を持った王舎城は、釈尊がビンビサーラ王を味方につけて、提婆達多の悪巧みを破門のような形で決着をつけることができたが、コーサンビーでは王室がそれほど強い後押しをしないということもあって、コーサンビーの仏教は好ましからぬ方向に進みつつあったのかもしれない。それを象徴するのが破僧事件であり、チャンナの存在であった。
 このような傾向は釈尊が入滅されようとするときまで続き、釈尊も心を痛められていたのであろう。最後の最後に解決したように見えるが、それにはこの地で勢力を持っていた商人階級の支持がなければならなかった。コーサンビーの破僧事件が、住民のサンガへの不協力によって解決したという伝承がこれを象徴的に物語る。しかしながらこの破僧やチャンナの梵壇によって、コーサンビーには異端の町という不幸なイメージがつきまとうことになった。
 コーサンビーに残されたアショーカ王の法勅は
「天愛(アショーカ王の別名)はコーサンビーにおける大官に指示する。......和合が命じられた。
  ......僧伽においては認められない。比丘あるいは比丘尼にして僧伽を破るものは、白衣を着せしめて、住処(精舎)でない所に、住せしめなければならない。」 (塚本啓祥『アショーカ王碑文』、レグレス文庫、1976.1)
という破僧に関係するものであって、これに類するものはサーンチーにもサールナートにも存するが、コーサンビーにこれがあるのは、上記のような背景があったからではないかと推測させる。

 [8]このようにコーサンビーの仏教は独自の性格をもって発展した。その後も仏教が盛んであったことは、数多くの碑銘によって知られるし、大乗仏教が起こったときにはそれももたらされたであろう。しかし法顕や玄奘が訪れたときには、すでに荒廃が始まっており、そこでは小乗仏教が行われていたとされている。そして今日では畑のなかにその遺跡しか存在しないが、その遺跡の大きさによってかつての隆盛が忍ばれる。