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雨安居 雨安居地 アッタカター 僧伽羅刹所集経 八大霊塔名号経 マンクラ山 摩拘羅山


 本論は、釈尊の成道から涅槃に至る45回の雨安居の場所とその年次をリストとして伝える雨安居地伝承の資料的価値を確定することを目的として、いままでに発表してきた先行の論文および資料【論文5】【論文7】【資料集5】【論文12】を総括し、多少資料を補足して最終的な結論を求めたものである。
まず各種の雨安居地伝承を概観した。パーリのアッタカター、北伝の『僧伽羅刹所集経』と『十二遊経』などは釈尊の雨安居の場所と年次を伝える。『八大霊塔名号経』と『プトンの仏教史』は年次を伝えず、雨安居の場所と、順不同でそこにおける雨安居の回数のみを伝える。年次を伝える伝承と回数のみを伝える伝承とでは、おそらく前者が後者に先行する。
つづいて以下の目的のために資料整理を行った。【論文5】において抽出した記事は地名別にまとめられたものであるが、対応経ごとに整理されていなかったために厳密な考察に不向きであった。そのため【資料集5】において、扱う資料範囲を拡大した上で、さらに対応経が一目瞭然となるようにまとめたが、これをもう一度地名別に整理することで、つづく考察の便に供した。
雨安居地伝承を原始仏教聖典中の釈尊の雨安居の記述と比較した場合、以下のような矛盾点が見出される。原始仏教聖典において釈尊が雨安居を過ごしたとされる地名の中には、雨安居地伝承に挙がらないものがあり、それはパーリ資料と漢訳資料が共通して挙げるヴィデーハ、パーリ資料と漢訳資料の一部が一致して挙げる釈迦国のヴェーダンニャとサーマ村、チャンパー、パーリ資料のみが挙げるイッチャーナンガラ、アヌピヤー、漢訳資料のみが挙げる釈迦国のメーダルンパ、シラーヴァティー、アーマラキー林、デーヴァダハやパーヴァー、アンダカヴィンダ、摩鳩羅無種山である。
雨安居地伝承において雨安居地とされながら、原始仏教聖典中にその地で釈尊が雨安居をしたという記事が見出されないものもあり、それはマンクラ山(Maṅkulapabbata)、チャーリヤ山(Cāliyapabbata)、ナーラー・バラモン村(Nālā brāhmaṇagāma)、アーラヴィー(Āḷavī)である。
また原始仏教聖典に記される釈尊の雨安居記事を、雨安居地伝承が示す年代にあてはめると矛盾が生じるケースがある。たとえば雨安居地伝承によればヴェーサーリーの雨安居は第5年の一回であるが、原始仏教聖典において釈尊がヴェーサーリーで雨安居した時の事績を第5年に位置付けると諸々の不整合が生じる。
その他、伝承としてそれほど古くは遡れない釈尊の三十三天における雨安居を挙げること、後半の雨安居をすべて舎衛城とすることなど、種々の事情により、端的に言って雨安居地伝承は信頼できないと帰結される。
なお結論部において、明確には結論できないものの、雨安居地伝承はある特定の部派によって作り出され、他部派はそれを後から採用したという仮説の検証を試みた。