〈年齢別記事一覧〉

1.sattavassa, sattavassika(7歳)     
2.dāraka(子供)
3.aṭṭhavassa(8歳)
4.kumāra, kumāraka, kumārikā(童子、童女)
5.pañcadasavassa(15 歳)
6.soḷasavassa(16 歳)         
7.viññūtā, viññūbhāva(分別のつく年 齢)
8.paṭhamavaya(年頃)
9.vayappatta(成年に達した)
10.māṇava(青年婆羅門)
11.vuddhippatta(長じて)
12.vīsaṃ(20 歳)
13.paripuṇṇavassa(具足戒を受けるのに十分な年頃)
14.dahara(若い)
15.paṇṇuvīsaṃ(25 歳)
16.ūnatiṃsaṃ(29 歳)
17.phalita(白 髪)             
18.saṭṭhivassa(60 歳)
19.mahallaka, mahallikā(高齢の)
20.vassasata, vassasatika(100 歳)
21.vīsaṃvassasatika(120 歳)

 
〈項目別記事一覧〉

1.就学
2.遊学
3.学業の修了
4.就業
5.結婚関連
6.副王位
7.即位関連
8.隠棲
9.出家
10.沙弥
11.預流果
12.不還果
13.阿羅漢果
14.長老のように
15.寿命
16.死亡

キーワード:

就学 結婚 引退 ライフステージ 標準年齢 平均年齢 Jātaka


本資料集は次のような意図のもとに作成された。
 原始仏教聖典は説話化が施された釈尊の言行録である。言行録であるから釈尊や仏弟子たちの行跡は記されているのであるが、それが「歴史書」ではなく説話的に潤色されているので、これを材料として釈尊の生涯や仏弟子たちの生涯を再構築しようとする場合、さまざまな困難に遭遇する。「歴史書」でないが故に年 代や年齢がきちんと記録されていない、「説話」的に潤色されているが故にパターン化がなされている、さらには編集意図にしたがってモディファイされている、などである。そしてそれは単に表現のレヴェルに止まらず、聖典の編集者たちのイメージそのものになっているということもできるであろう。
 そこでこれらから歴史的記事を読み取ろうとする場合には、彼ら聖典編集者たちが持っていたであろうイメージはどういうものであったかを把握しておかなければならない。年齢に関して言えば、彼らは例えば婆羅門階級の男子であれば、何歳くらいに学業を始め、何歳くらいに学習を終えて、何歳くらいに結婚して、 何歳くらいに引退すると考えていたかということである。
 舎衞城に東園鹿子母講堂(Pubbārāma  Migāramātupāsāda)を建てたVisākhā MigāramātāはAṅga国のBhaddiya市 のDhanañjayaという長者の娘で、7歳の時Bhaddiya市 にやってきた釈尊に会い、預流果を得たとされるが、後にKosala国のSāketaに移り住み、Migāra長者の子Puṇṇavaḍḍhanaと結婚した。雨浴衣・客比丘の 食・ 遠行比丘の食・病比丘の食・看病比丘の食・病薬・常粥・比丘尼のための水浴衣の制が作られたのは、このMigāramātāの求めに応じてであったし、また雨安居中であるからと舎衞城の比丘たちが出家させなかったのにちなんで、雨安居中であろうと出家させるべきとの規定が作られたのは、この Migāramātāの孫が出家しようとしたときであるとされている。さらには律蔵の「不定」が作られる因縁となった「可信の優婆夷」もこの人であった。
 このようにMigāramātāは釈尊教団にとって多大な影響力を有していた女性であったと考えられるが、残念ながらMigāramātāが東園鹿子母 講堂を寄進したのは釈尊の成道何年のことで、不定や雨浴衣などの規定が制定されたのはいつころのことかといったことは記録されていない。しかし雨安居中で あろうと、出家させるべきとの規定が作られたのはMigāramātāの孫が出家しようとした時とされるし、仏教僧伽に僧院を寄進できるのは Migāramātāがまだ家計の実権を握っていた時分のことであろうから、もし聖典編集者たちが商家の主婦に孫ができるのは何歳くらいで、家庭にあって家計の実権を把握しているのは何歳くらいまでであったとイメージしていたかということを知ることができたとしたら、東園鹿子母講堂の建設年や、不定などの制定年を推測する一助にすることができるであろう。
 このように年代や年齢の記録されない説話化された「原始仏教聖典」を読み解くためには、想像力をたくましくする必要があるのであるが、しかしその想像力 が恣意的であってはならないのはいうまでもない。そこで原始仏教聖典の編集者たちが持っていたイメージがどのようなものであったのかを把握することが非常 に重要になってくる。編集者たちが有していたであろう就学や結婚や引退など、各ライフステージの「標準年齢」や「平均年齢」が判明すれば、たいへん役に立つであろうということである。
 あるいはそれはあくまでもイメージであって、人それぞれの個別事情があったはずであるという反論もありうるであろう。しかしもしこのような個別事情がイメージよりも強固で、優先していたとするならば、もう少し多くの年代や年齢の記述が残されたはずである。しかし実際にはそうではなく、稀に年齢が記載される場合も、非常にパターン化しているのであって、例えばこのMigāramātāが7歳の時に釈尊に会って預流果を得たという「7歳」も例外ではない。このように、これによって知りえる情報は、必ずしも個別の歴史的事実ではないのであるが、【論文1】に研究代表者が書かれている通り、この研究でわれわれが 当面の課題としているものは、原始仏教聖典の編集者たちが持っていたであろう<釈尊伝イメージ>や<釈尊教団形成史イメージ>の再構築なのであるから、むしろこのような「通念」や「常識」というべきものの方が重要であるともいえるわけである。
 本「資料集」はそのために、原始仏教聖典において年齢が明示されている記事や、あるいは「成年に達した」などとぼんやりとではあるが、一定の年齢を指し示す記事を調査したものである。
 なお本資料集は本来この研究の主材料とするべきパ・漢の原始仏教聖典(経蔵・律蔵)を調査対象とすべきであるが、手始めに"Jātaka- aṭṭkathā "を対象として作成してみた。次号の「モノグラフ」において、第2集として原始仏教聖典を対象とした資料集を掲載する予定である。
 本資料集は「年齢別記事一覧」と「項目別記事一覧」の2部構成になっている。前者は年齢記事を年齢別に示したものであり、後者は年齢記事を目次から知ら れるような項目に分けて示したものである。