【1】本目録制作の目的
 本「釈尊年齢にしたがって配列した原始仏教聖典目録」は、立正佼成会の一機関である中央学術研究所の委託を受けて行ってきた「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」が、本年(2010年)の11月末をもって終了するにともない、その成果報告書の一部として制作されたものである。

【2】本目録制作の意図
 この研究は原始仏教聖典を基礎資料として釈尊の伝記を書き上げるということを最終目的としている。この目録はその準備段階として、これを文章にまとめれば自然に釈尊の伝記ができ上がるということをめざして、釈尊の年齢にそって原始仏教聖典を配列したものである。
 またわれわれはこの研究をさまざまな作業仮説を設けて進めてきたので、この目録はその編集を通じてその仮説が正しかったかどうかを検証するという意図をも併せ有している。この研究はほぼ完了したとはいうものの、なお細部の研究や総括・検証の作業が残されており、今後は「釈尊伝研究会」としてこれを継続して行うことになっているので、より完成度の高いものをつくるための作業の一環として制作されたということもできる。

【3】本目録全体の構成
 この目録は、この研究の成果として作り上げた別紙「釈尊および釈尊教団史年表」の年度ごとの事績を時間軸として、その時説かれた経あるいはその事績を回想している経にはどのようなものがあるかということを、経名とページ、その仏在処・説処、概要ならびに対応経を示したものである。したがって本「目録」は「第Ⅰ部 説時による目録」と「第Ⅱ部 回想・参考記事による目録」の2部構成となっている。第Ⅰ部は釈尊の生涯のどの時点において説かれた経にはどのようなものがあるかを示したものであり、第Ⅱ部は釈尊の生涯のどの時点の事績を回想している経にはどのようなものがあるかを示したものである。
 たとえば釈尊が80歳の誕生日を迎えられた時に、出家した日のことを回想された経があったとするならば、「80歳の誕生日」の経として配列したものが第Ⅰ部であり、「出家した日」の記事として配列したものが第Ⅱ部であるということになる。
 言うなれば「説時」とは、経蔵が「一時(ekaṃ samayaṃ)」と示し、律蔵が「その時(tena samayena)」と示す、この「一時」「その時」をさすことになる(1)。しかしながら原始仏教聖典自身は、この「一時」「その時」がいつの時点であるかを特定していないのが常であり、成道直後と入滅直前の事績にそれが明示されているのみである(2)。本研究の最終目的は、これらの「一時(ekaṃ samayaṃ)」あるいは「その時(tena samayena)」がいつの時点であるかを特定して、釈尊の生涯のすべての事績をカバーした伝記を執筆することにあるが、本「聖典目録」はその素材であり、また完璧な釈尊伝を作成するための検証作業であるということができる。

(1)原始仏教聖典は釈尊が入滅されたその年の雨安居に、摩訶迦葉をはじめとする仏弟子の主立った者500人が王舎城に集まって、釈尊の教えのうちの法(経)を阿難が説き、律をウパーリが説いたものを確認しあったものとされているから、理屈の上からいえばこれが「説時」であるともいいうる。しかし阿難もウパーリも、釈尊が在世中のいずれかの時点に説かれたことを復唱したのであり、ここにいう「説時」とはこの釈尊在世中のいずれかの時点を指すと理解されたい。
(2)原始仏教聖典はすべて釈尊の言行録といってよいのであるが、それらは日付の失われた日記帳のようなものであるから、釈尊がどのような事績を残されたのかは詳しくわかっているのに、それを時系列ないしは年齢にしたがって編集できないために、今まで釈尊の全生涯をカバーする伝記というものが存在しなかったのである。仏伝経典と称されるものがあるが、これは釈尊の成道直後(と入滅直前)の、生涯のほんの一瞬間の、ほんの一部の事績を記したものであることはしばしば指摘してきたところである。

【4】本目録に収録した文献の種類
 本「目録」は「原始仏教聖典目録」を標題としているが、これには大きく分ければ3種類の文献が含まれている。
 1つは「原始仏教聖典(以後A文献と呼ぶ)」であり、これには主にパーリ語で書かれた「経蔵」(パーリ語のDīgha-Nikāyaなど5ニカーヤと、漢訳の長阿含経など4阿含・別訳雑阿含ならびに法顕訳「大般涅槃経」などの単経、サンスクリットのMahāparinirvāṇa-sūtra)と「律蔵」(パーリ語のVinayaと漢訳の四分律・五分律・十誦律・摩訶僧祇律・根本有部律)などが含まれている。ただし釈尊がどこで、誰に説かれたのかが明示されていない、したがって「説時」を想定しにくいDhammapadaSuttanipāta、仏説ではないTheragāthā, Therīgāthā, Apadānaや仏説とは見なしがたいItivuttaka, Buddhavaṃsaなどは除外している。ただしこれらにも本目録で取り上げた釈尊自身や釈尊教団に関するさまざまな事績が記されている場合は「参考経」として利用した。
 2つめは「後期の原始仏教聖典(以後B文献と呼ぶ)」であり、これには主にパーリ語で書かれたNidānakathāなどの経蔵・律蔵に対する注釈書や、漢訳された「修行本起経」などの仏伝経典や経蔵・律蔵に対する注釈書、ならびに論蔵などが含まれている。
 3つめは「後世の釈迦仏教文献(以後C文献と呼ぶ)」であり、これには主に東南アジアや中国において釈尊の生涯に関して記述されたJinakālamālīなどや「釈迦譜」などが含まれている。
 したがってこの「目録」には「原始仏教聖典」以外の文献も含まれていることになるが、あえてこれに「原始仏教聖典」の名を冠したのは、「後期の原始仏教聖典」はもちろん「後世の釈迦仏教文献」も、すべて「原始仏教聖典」をよりどころとして、これを注釈ないしは解釈するという立場で成立したものであるからである。

【5】本目録に採録した聖典の単位
 以上において「経」と呼んできたものは、実際にはわれわれが上記の研究を行うためにコンピュータの中に蓄積してきた「釈尊伝データ」と呼んでいるもののデータ1件づつをいう。
 「釈尊伝データ」は次のような原則のもとに作られている。「A文献」のうちの経蔵については、原則として1つの経が1データである。ただし『涅槃経』のような長い経で、時間的には長期にまたがり、空間的には1ヶ所に限定できないものは、主に釈尊がおられる場所を単位としていくつかに分割している。その要領は「モノグラフ」第2号、4号、5号、8号、15号に掲載した「仏在処・説処一覧」の凡例を参照願いたい。
 また「A文献」のうちの律蔵の経分別については、原則として1つの条文が1データであるが、その条文の制定の因縁に複数のエピソードがあったり、判例の部分にも複数のエピソードが含まれているような場合には、そのエピソードごとに作られている。犍度分については、それぞれの犍度を単位とするのではなく、原則として1つのエピソードを単位としてデータが作られている。
 「B文献」「C文献」は原則として釈尊の事績ごとにデータが作られている。たとえば『過去現在因果経』などの仏伝経典にはたくさんの釈尊の事績が記述されており、たとえば事績の数が50であったとすれば、1つの『過去現在因果経』が50のデータに分割されていることになる。ただし事績は細分するのではなく、あるまとまりを1つとして考えている。これについては「モノグラフ」第3号に掲載した「仏伝諸経典および仏伝関係諸資料のエピソード別出典要覧」を参照願いたい。

【6】「第Ⅰ部 説時による目録」の構成

(1)第Ⅰ部の「説時による目録」は、釈尊の何歳=成道何年の事績項目のもとに[当該経][同時経][からまで経(実際には54.301〜60.501経という形で表示)][以後経]という順序に示してある。これらは「A文献」については以下のような意味である。
 なお本目録では釈尊の事績を54.301とか60.501という数字で整理している。整数部分は出胎を誕生とする釈尊の満年齢を表し、小数点第1位の「0.1」「0.2」「0.3」「0.4」「0.5」はそれぞれ「雨安居前」「雨安居中」「雨安居後」「この年」「この頃」、そして小数点第2位以下はその期間中の事績の順序を表す。たとえば'54.301'は釈尊54歳の雨安居後の第1番目の事績を表し、'60.501'は釈尊60歳前後の第1番目の事績を表す。事績にこのような番号をふった理由については、「釈尊および釈尊教団史年表」の凡例(4)ならびに(6)を参照されたい。
 ①[当該経]というのは、その経に書かれている事績がそのまま説時を表す場合であって、たとえば「ある時世尊はバーラーナシーの近郊の仙人堕処鹿野苑におられた。その時世尊は5人の比丘たちに対して中道と四諦の教えを説かれた」というような場合である。われわれは初転法輪は釈尊36歳=成道2年の雨安居前のことであったと考えているから、この経は釈尊35歳の雨安居前の事績番号では36.101「[釈尊]仙人堕処鹿野苑において5比丘に初めて法輪を転じる」の「当該経」ということになる。経蔵と律蔵にはこの初転法輪を描く経がいくつもあるから、もちろんそのすべてが[当該経]である。しかしもし入滅のありさまを描く経の中でこの初転法輪の場面を振り返っているとするならば、その経自身は入滅を表す[当該経]になるが、初転法輪を振り返る部分は36.101「[釈尊]仙人堕処鹿野苑において5比丘に初めて法輪を転じる」の[回想経]となる。
 ②[同時経]というのは、もしこの釈尊36歳=成道2年の、仙人堕処鹿野苑を仏在処とする経において、中道や四諦ではなくたとえば四念処を説かれている経典があるとすれば、それは「36.101[釈尊]仙人堕処鹿野苑において5比丘に初めて法輪を転じる」の[同時経]となる。もちろんこのような経がいくつもあり、しかもこれが初転法輪の時点の教えであることが明白であるならば、初転法輪の場面にこの四念処を説かれたという事績が加わり、「36.101[釈尊]仙人堕処鹿野苑において5比丘に初めて法輪を転じる」とは別に、「36.102[釈尊]仙人堕処鹿野苑において5比丘に対して四念処を説く」という事績を設けることになるが、このような新たな事績を設けるほどの事績ではないと判断した場合に36.101の[同時経]とした。
 ③「からまで経」というのは、その経典の説時を特定することはできないが、いくつかの情報をもとにして、たとえば釈尊48歳から、77歳までの間と判断されるような場合である。たとえばその経が祇園精舎を舞台とし、そこには舎利弗と目連が登場する以外に、特段の年代を想定する情報が含まれないような場合である。われわれは祇園精舎が給孤独長者によって寄進されたのは釈尊48歳=成道14年であって、年表では「48.103[給孤独長者]成道後初めて舎衛城を訪れた釈尊に祇園精舎を寄進する」と処理しており、また舎利弗・目連が釈尊に先立って入滅したのは釈尊が77歳=成道43年の時で、「77.501[舎利弗・目連]入滅する」と処理しているので、この経は「48.103[給孤独長者]成道後初めて舎衛城を訪れた釈尊に祇園精舎を寄進する」から、「77.501[舎利弗・目連]入滅する」まで経になるわけである。
そしてこのような経は「から」に相当する釈尊48歳のところに収録し、[48.103〜77.501経]と示している。そしてその後に77.501がどのような事績であるかがわかるように「<以前経>[舎利弗・目連]入滅する。」と記しておいた。
 ④[以後経]というのは、たとえばその経が祇園精舎を舞台とする以外の他の有用な情報を含んでいない場合は、その経は「48.103[給孤独長者]成道後初めて舎衛城を訪れた釈尊に祇園精舎を寄進する」の以後経となる。その経は祇園精舎が建設されてから、釈尊が入滅されるまでのいずれかの時点の経ということを意味する。
 ⑤なお理屈の上からは[以前経]という概念もありうる。たとえばその経にはマガダのビンビサーラ王が登場する以外に有用な情報を含んでいないような場合であって、われわれは阿闍世がビンビサーラから王位を奪ったのは釈尊72歳=成道38年の時であって、年表では「72.306[阿闍世=22〜26歳]マガダ国の王となる」と処理しているから、この経は釈尊72歳の[以前経]であることになる。しかし経には原則として仏在処が示され、たとえばそれが王舎城の竹林精舎や舎衛城の祇園精舎である場合には、竹林精舎が寄進された「44.101[ビンビサーラ王]竹林園を「仏を上首とする比丘サンガ」に寄進する」や「48.103[給孤独長者]成道後初めて舎衛城を訪れた釈尊に祇園精舎を寄進する」の以後経であることになるから、したがって以前情報を含んでいる経はすべて「からまで経」になるので[以前経]に相当する経は存在しない。
(2)ただし以上の概念は「B文献」や「C文献」にはあてはまらない。これらの文献は先述したように、「A文献」を注釈ないしは解釈するという立場で制作されたものであって、客観的にいえば「仏説」ではないから「説時」という概念は成り立たないからである。たとい形式上は「仏説」という形をとっているとしても、釈尊がある時点で「原始仏教聖典」に記されている事績を振り返るということになるのであるから、いわばすべてが釈尊が自身の事績を語る回想経ということになる。
 しかしながら「説時」を基準に配列した「目録」の第Ⅰ部にこれらを含めたのは、「B文献」や「B文献」が、原始仏教聖典の内容をどのように解釈し、再構成し、あるいは脚色したかということを知るためには、「A文献」と並記した方が分かりやすいと考えたからである。
 そこで「B文献」や「C文献」は原則としてすべて[当該経]ないしは[同時経]として扱っており、[からまで経]や[以後経]、それに第Ⅱ部に収録すべき[回想経]はない。ただしヴィパッシン仏などの過去仏の事績やアビダルマ文献などの事績項目を解釈するものなどは[参考経]とした。
 そこで釈尊が成道される以前の事績には「A文献」がないにかかわらず、「B文献」や「C文献」が挙げられるという奇妙な形となった。原始仏教聖典の「経」は仏説であるから、すべては釈尊が成道されて以降に説かれたことになって、すべては回想経となるに拘わらず、「B文献」や「C文献」はこれらも「当該経」「同時経」として扱ったがためである。
 なおたとえば釈尊が提婆達多と妻を取り合ったという嫁取りのような神話は後世に創作された説話であるから年表には反映していない。このようなものは「15.502[釈尊]ラーフラの母(5歳)と結婚」の同時経として扱った。
 以上のように[当該経][同時経]の概念は、「A文献」と「B文献」「C文献」において違いがあるが、これを無視してこの両者を並記した。それらはその事績を主題とするか、あるいは同時ないしは同時期の事績を主題とするという点では共通するからである。むしろ上記のような概念つけは、この「目録」を編集するわれわれ自身の作業規範というべきものであって、でき上がったものを素直に見ていただければ、それほどの違和感はないはずである。
(3)最後に「不明経」を掲げた。これらはそのデータのなかに、例えば教えの内容のみで、それが「どこ」で「誰」に説かれたというような「説時」を推定すべき情報が含まれていないものである。
(4)聖典名はパーリ文献はすべてPAli Text Society(PTS)本、漢訳文献はすべて大正新脩大蔵経であり、ページは該当データの頭のページを示してある。1つの経の中に複数の事績が含まれる場合もすべて当該データの頭のページを示してあるので注意されたい。
 以上の他に用いた文献も多いが、ここではその一々を記すことは省略する。「モノグラフ」に記した論文あるいは資料集をご参照願いたい。ホームページ(http://www.sakya-muni.jp/)の検索機能をお使いいただけば、容易に見いだされるはずである。
(5)聖典名の前に※を付したものは、この聖典の中に矛盾情報が含まれるということを示す。たとえばDN.16 Mahāparinibbāna-s.には舎利弗が登場する。それは釈尊が王舎城から最後の雨安居を過ごされたヴェーサーリーの近郊の竹林村に行かれる途中のナーランダーのパーヴァリカ・アンバ林でのことであって、われわれはこれを釈尊78歳の雨安居後のことであったと考えている。しかるにわれわれは年表において舎利弗と目連はその前年の釈尊の77歳頃に入滅したとしているから、明らかにその時点では舎利弗は死んでいなければならず、この時点に登場するのは矛盾ということになる。
 われわれが舎利弗・目連が釈尊77歳の時に入滅したと考えたのは、この他の漢訳やサンスクリットの『涅槃経』にはこの場面では舎利弗は登場せず、ここに舎利弗が登場するのは特異な伝承であって、逆に漢訳聖典やパーリの注釈書には舎利弗・目連は釈尊の入滅前に死亡したという伝承があるからであって、こちらの方を採用したからである。
 このような矛盾が生じる原因は大きく分けて次の2つのケースが考えられる。1つは舎利弗の死のように、聖典自身の中に異伝承が含まれ、そのいずれかを採用すると他には矛盾が生じるというケースである。そしてもう1つは、われわれの釈尊や釈尊教団史にかかわる事績の年次想定に誤りがあるというケースである。もちろん矛盾がある場合は、その原因を追及して、できるだけ解決することが必要であるが、現時点ではこれを精細に行う余裕がないので、とりあえず現時点でのわれわれの考えを「聖典概要」の後に※を付して示しておいた。
(6)「A文献」の聖典名の後にはその聖典の「仏在処」と「仏説処」を示した。
「仏在処」とは経蔵では「如是我聞。一時仏在羅閲祇耆旧童子菴婆園中」とか'Evaṃ me sutaṃ. Ekaṃ samayaṃ Bhagavā Rājagahe viharati Jīvakassa komārabhaccassa Ambavane'とする下線を施した部分に相当し、同じく律蔵が「爾時世尊遊羅閲城耆闍崛山中」とか'Tena samayena Buddho Bhagavā Rājagahe viharati Gijjhakūṭe pabbate'とする下線を施した部分に相当する。またこの仏在処の国名・地名が記されているものは、その経に釈尊が登場することをも意味する。
 しかし長い聖典で釈尊が経のはじめにおられるところから住処を移動される場合は、当然のことながら「如是我聞。一時仏在○○」などとは示されない。そこでこのような場合の釈尊がおられる場所を「説処」とした。詳しくは「仏在処・説処一覧」の凡例をご覧いただきたい。
 なお経の中には釈尊が登場しないものがあり、この場合は仏在処は記されない。しかし仏弟子たちの住処は記されるので、この場合は説処に相当する部分に( )でくくって示した。
 また「B文献」「C文献」は仏説ではないから客観的にいえば「仏在処」「説処」はないはずであるが、Jātakaのaṭṭhakathāなどには「この本生物語は仏が舎衛城の近くの祇園精舎におられた時に話されたものである」などとしてそれが示されているし、他の経典でも釈尊の所在が示されていることがあり、その場合には「仏在処」として処理している。
(7)「聖典概要」はその経のあらましである。

【7】「第Ⅱ部 回想・参考記事による目録」の構成

(1)第Ⅱ部の「回想・参考記事による目録」は釈尊の何歳=成道何年の事績名の後に[回想経][参考経]という順序に示してある。
 これらは「A文献」については以下のような意味である。
①[回想経]というのは、釈尊がある時点で過去の事績を回想して話されるものである。
②[参考経]というのは、釈尊の事績ではなくたとえばヴィパッシン仏などの過去仏の事績や、TheragātāApadānaなど仏弟子の説いたもので「仏説」の形をとらないが項目となっている事績に関連するものである。
(2)上述のように「B文献」や「C文献」には回想経はない。[参考経]については「A文献」と異ならない。
(3)その他の事項はすべて第Ⅰ部にのっとっている。

【8】本目録作成のための便宜的措置
 「説時」を決定する際にいくつかの便宜的処理を施している。あまりにも便宜的すぎるという批判がありうることは十分予想しているが、現時点ではやむを得ない措置であった。

(1)仏在処によってその経の「説時」を判断しなければならないようなとき、対応する複数の経典において仏在処が異なる場合がある。登場人物も内容も相似しているのに、これらを別の経として扱うことは不適切であると考えて、いずれかの仏在処を採用した。その際、祇園精舎とか竹林精舎などは、仏在処が不明な時に仮に舎衛城や竹林精舎とするという聖典自身の伝承があるので、もしこのような一般的な仏在処でない場所が含まれている場合には、この場所を仏在処とした。
(2)われわれは研究によって釈尊はそれほど遊行に明け暮れられたわけではなく、むしろ1年のうちで遊行期間はわずか3ヶ月くらいであったと考えている。しかも1日の移動距離はわずか1由旬(約11.5km)ほどであったから、1年にたとえば王舎城から舎衛城に移動するのがせいぜいのところであって、この間を往復するようなことはなかったであろう。もちろんそれでも生涯の中では舎衛城や王舎城などはしばしば訪れられたであろうが、しかし仏教中国の圏外にある地方の都市や村には何度も訪れられるということはなかったと考え、それらの都市や村を仏在処とする経はすべて同一時点のものであると考えた。
(3)パーリのSN.とAN.には仏在処が示されない経が数多く存在する。しかし漢訳の雑阿含や増一阿含はすべての経に仏在処が示されている。おそらくパーリ聖典でも仏説の経である限り仏在処が示されるべきところが、何らかの原則のもとに省略されたのであろう。おそらく舎衛城の祇樹給孤独園が仏在処であるものが省略されたか、あるいは仏在処が省略されている一連の経の最初に記された場所がそれであろう。しかしもし前者であるならばわざわざ仏在処を舎衛城の祇樹給孤独園と明示するものがあるのが不思議であるし、もし後者であったとするならば、王舎城の竹林園を仏在処とすると考えられる経の中に、その時1人の天がジェータ林を輝かせて世尊の前に現れたというような記述があったり、王舎城を仏在処とする一連の経の中に、その時舎利弗はバーラーナシーにいたなどという場合があるのが理にあわない。このように仏在処が記述されない経をどのように処理するかという問題が残されているが、一応ここでは後者を採用した。そしてもしこれによって矛盾が生じる場合には矛盾経として指摘しておいた。
(4)実は仏在処が明示されない経が他にも存する。それは釈尊が登場しない経であって、釈尊が登場しないのであるから仏在処が示されないのは当然であり、この場合は漢訳の経典も同じである。釈尊のおられない場所での仏弟子たちの行動が経として残されたということもありうるであろうが、しかし建前として「仏説」である原始経典に釈尊が登場しないのは、通常の経としては原則外といわなければならない。そこで本目録ではこのような経はすべて釈尊入滅後の経として処理した。釈尊の入滅後に行われた結集記事も原始聖典の中に組み込まれているのであるから、このようなこともありうると考えたからである。しかしこのように処理すると、釈尊入滅後の経に釈尊の入滅前に死亡したと考えられている舎利弗が登場するという経が存在するから矛盾となる。このような場合も目録においては「矛盾経」として指摘しておいた。

【9】おことわり
 本「目録」はわれわれが研究のために蓄積してきた「釈尊データ」をそのまま利用している。したがって完成度という点において欠ける次のようないくつかの事項が生じている。ご寛恕いただきたい。

(1)経の中には短い文章の中にたくさんの釈尊の事績が簡単に記されているものがある。このような場合は事績に応じて細分すべきであるが、もとのデータが分割されていないためどれか1つの事績に代表させた。「目録」には経の概要も合わせ示したので、この概要をお読みいただければ、当該データの中にどのような事績が含まれているかはお分かりいただけるはずである。
 ただしそれが[回想経]あるいは[参考経]扱いとなる場合は、1つのデータをその事績の数だけ複製して、それぞれの事績の項目下に収めた。要するに1つのデータを何度も使い回すような形となったわけであり、同じ「聖典概要」が何度も現れるのはこのためである。
 換言すれば、「第Ⅰ部」に掲げた経は元のデータ数と一致し、1つの経が複数のの項目に掲げられることはないが、「第Ⅱ部」においてはデータを複製したため、「第Ⅱ部」に掲げた経数は元データ数よりも多くなっているということになる。
(2)この目録は我々がデータを蓄積し、分析するために用いているデータ処理ソフトであるFileMaker社のFileMaker Pro 9に書き込まれたデータから必要項目を選び出して、バーチャルなテキストを作り出し、これをそのままプリントしたものである(このソフトではバーチャルなテキストをワープロなどのテキストとして書き出すことができないため)。このソフトと通常用いるワープロソフトとの間には、例えばパーリ語やサンスクリット語に用いられる特殊符号の付いた文字や特殊な漢字にはフォントの互換性がないため、データの段階ではそれを修正していない。したがってプリントされた聖典名や聖典概要には文字化けした文字が含まれている。また不体裁な余白が多いこともここに由来している。
(3)このデータはわれわれが研究するためにさまざまな工夫を行っている。たとえば漢訳聖典では人名や国名などの固有名詞はさまざまに翻訳されるので、どのような翻訳語であろうと1人の人物あるいは1つの国名が簡単に検索できるように、それぞれに4桁の番号を与えている。目録にはこのような番号は不必要であるが、われわれがデータとして用いる場合にはこれは必要であるので、これがこのまま残っている。
(4)本データは長年月にわたって複数の者が入力したものである。そこで特に「聖典概要」の部分においては叙述に精粗の違いがあり、また用語や文体がばらばらで不統一である。本来ならこれを統一する努力をするべきであるが、時間の制約があってこれもこのまま残されている。

以上