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    <title>現地調査の目次</title>
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    <published>2010-06-01T01:12:31Z</published>
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    <summary>　【文書09】「釈尊伝の研究」を通して見えてきたブッダの真実−−釈尊教団は存在し...</summary>
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        　【文書09】「釈尊伝の研究」を通して見えてきたブッダの真実−−釈尊教団は存在したか−−

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　森　章司（東洋大学名誉教授）

　本稿は2010年5月8日（土）に、国立オリンピック記念青少年総合センターにおいて行われた、日本テーラワーダ仏教協会主催の「大ウェーサーカ祭」の記念講演として行った講演原稿を、同協会の許しを受けてアップしたものである。なお番号のついた「小見出し」のような形になっているものは、講演の際にスクリーンに映写するために作成したパワー・ポイントのための原稿である。


（1）「釈尊伝の研究」を通して見えてきたブッダの真実−−釈尊教団は存在したか−−森　章司（東洋大学名誉教授）＊背景にアジャンター第26窟仏涅槃像の写真

　ご紹介いただきました森でございます。よろしくお願いいたします。本日は今スクリーンに映っておりますように、「『釈尊伝の研究』を通して見えてきたブッダの真実−−釈尊教団は存在したか−−」というテーマでお話させていただきたいと思います。実はこの「釈尊伝の研究」というのは、「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」という具体的な研究を指しています。この研究の成果はインターネット上に公開しておりまして、この写真はそのトップページに掲げてあるものでございます。ここにはお釈迦さまはどのような方だったかお釈迦さまのサンガはどのようなものだったか仏弟子たちはどのような活動をしていたかお釈迦さまたちはどのような生活をされていたかという文章が書き込んでありますが、これがこの研究の目指しているところを簡単に表したものです。これをもっと縮めていいますと、単にお釈迦さまの生涯の事績を時系列にしたがって並べるだけではなく、体温の感じられるような、生き生きとしたお釈迦さまの姿を描いてみたいということでございます。（2）「モノグラフ」第16号の写真

　この写真は、この1月に出しました第16冊目の「研究報告書」でありまして、発行所が「中央学術研究所」となっておりますが、これはこの研究を援助して下さっている研究所の名前でございます。ちょっと読みとりにくいと思いますが、この報告書に掲載しました論文は、「サンガにおける紛争解決の調停と犯罪裁判」という論文と、「紛争解決法としての多数決とその理念」という論文と、「原始仏教聖典などに見る就学・結婚などの平均年齢」という3つの論文でありまして、お釈迦さまと仏弟子たちの生き生きとした活動状況を知るための具体的な研究テーマはこのような細部にまで及んでいるわけでございます。この研究は平成4年（1992年）に数人の研究者に手伝っていただいて始めたものでありまして、もうやがて20年になろうとしております。42.195キロのマラソンに譬えますと、今はいちばん苦しいといわれる30キロから35キロを越えたところではないかと思います。その過程におきまして、スマナサーラ長老にもお出まし頂きまして、シンポジウムを催したこともございます。したがってまだ終了したわけではないのですが、今日はこの20年になんなんとする研究で分かってきたことの一端をお話させていただきたいということでございます。

（3）お釈迦さまの誕生・成道・般涅槃の日テーラワーダ仏教ウェーサーカ月の満月の日日本仏教仏生会（潅仏会　花祭り）＝4月8日成道会＝12月8日涅槃会＝2月15日

　ところで今日は、ウェーサーカ祭の行事でございますので、本題に入ります前に、お釈迦さまの誕生日と、成道日、般涅槃の日にちについて少しばかりお話をさせていただきたいと思います。と申しますのは、テーラワーダ仏教では、お釈迦さまの誕生・成道・入滅はともにヴェーサーカ月の満月の日ということになっておりまして、ヴェーサーカ月は今の暦で5月頃に相当しますので、今ごろにお祝いをするわけでございます。ところが日本仏教ではスクリーンに出しましたように、誕生日は4月8日、成道日は12月8日、涅槃日は2月15日ということになっておりまして、誕生・成道・入滅は別の日になっております。もちろんこれは中国に伝わった伝承をもとにしているわけでございますが、簡単に結論のみを申し上げますと、もともとは中国の伝承でも、お釈迦さまの誕生・成道・入滅の日にちは同じ日でありまして、しかもヴェーサーカ月ということですから、テーラワーダ仏教の伝承となんら違いがありませんでした。ところがインドの伝統的な暦では1年を何の月から始めるかということで異なった伝承がありまして、1年はチャイトラ月の白分（新月の翌日から満月まで）から始まるとインド政府が決めたのは1957年のことですから、まだ最近のことです。それまではてんでんばらばらな暦を使っていたわけです。かてて加えて中国では時代によってさまざまな暦が使われておりまして、王朝が変るとその権威を誇示するために暦を変えたといわれるほどでありますから、時代によってヴェーサーカ月を何月と翻訳するかということで違いができてしまったというわけでございます。しかしだからといって、本来はすべて同じ日にお祝いを行うべきなのに、違う日に行うことになったというのはおかしいのですが、お祭りの多い方がお寺に来ていただく機会が多くなるという深慮遠謀があるのかも知れません。要するにさまざまな伝承をつまみ食いして使っているということになります。ただしテーラワーダ仏教の伝承ではヴェーサーカ月の満月の日、すなわち15日とするわけですが、中国の伝承では8日とするところに違いがあります。なぜこのような違いが生じたのかはわかりません。ただし中国には伝承の中の１つとして、不思議なことに般涅槃だけは15日とする伝承もありますので、涅槃会を2月15日とするのは、それをつまみ食いしたわけです。ちなみにお釈迦さまは80歳で入滅されたとされています。これは数え年齢で数えた80歳か、満年齢で数えた80歳かご存知でしょうか。実はこれは満年齢です。中国古代には年齢を満で数えるという習慣はありませんでしたが、インドにはこの習慣があったのです（数え年齢も行われていました）。しかしこの80歳と数えた誕生日はヴェーサーカ月ではなくアーサールハという月の満月の日です。アーサールハ月の満月の日というのは、お釈迦さまがお母様のマハーマーヤーのお腹の中に入られた時であります。お釈迦さまも菩提樹下で成道されるまでは、生まれ変わり、死に変りされていたわけでありまして、前の世に死んで今の世に生まれ変わるのは、母親のお腹の中に生まれるという形になるのですから、今世の始まりは受胎の時ということになるわけです。お釈迦さまの正確な伝記を書くためには、このように誕生日が何時で、年齢の数え方はどうであったかということは基礎的な知識になりますので、このような研究もいたしました。本日はウェーサーカのお祭りということにちなんで、参考のために申し上げさせていただきました。ということでお話させていただきたいことはたくさんあるのですが、今日はあまり一般には知られていない、また知られているとしても誤解の多い、「サンガ」についてお話をさせていただくことにしました。

（4）サンガ『広辞苑』そうぎゃ【僧伽】：［仏］（梵語saMgha　和合衆・衆と訳）仏教の修行者の集まり。仏教の教団。『岩波　仏教辞典』僧伽　そうぎゃ：サンスクリット語saMghaに相当する音写。〈衆〉〈和合衆〉と漢訳。原義は集団・集会。......　これが仏教に採用されて修行者の集まり、教団の称とされた。

　スクリーンには『広辞苑』と『岩波仏教辞典』の、サンガの音写語である「僧伽」の解説を紹介させていただきました。この解説の執筆者がどのような具体的なイメージをもってこのように解説しているかわかりませんが、これによるとサンガには、5人とか10人とかの修行者たちからなる「集団」という意味と、すべての修行者を統合した組織体である「教団」という意味の、2つの意味があると理解されているといってよいのではないかと思います。前者の修行者の集団は、１つのお寺で共同生活しているお坊さんたちの集団を想像すればよろしいでしょう。そしてもう１つの「教団」はバチカンを本部とするカトリック教団のようなものを想像すると分かりやすいと思います。今ここでは前者を仮に「仏弟子たちのサンガ」とよび、後者を「釈尊教団」とよぶことにしたいと思います。

（5）カトリック教団の組織ローマ教皇全世界で2,500教区（日本は16教区　東京・大阪・長崎は大教区）責任者は司教（大司教）小教区＝教会（日本は796　*2008年）責任者は司祭（神父）

　カトリックの教会組織は、スクリーンに映したようになっています。下のほうからいいますと、2008年の統計では日本には796の教会があるそうです。これを「小教区」といいまして、その責任者は司祭です。一般には神父さんとよばれています。そしてこの「小教区」を統括するのが「教区」でありまして、日本には16の教区があるそうです。歴史とか規模などで一部の教区は大教区とよばれまして、その責任者は司教もしくは大司教です。この教区は全世界で2,500くらいあるそうでございまして、そのすべてを統括するのは「ローマ教皇」です。日本では宗教法人として法人格を持っているのは教区でありまして、１つ１つの教会は法人格を持っておりません。したがって日常的な教会の管理・運営は教区の司教が行うことになりますが、しかしこれはローマ教皇から委任をされているわけでありまして、聖職者の任免や、神父さんの勤務地の移動や、教会財産の取得や処分、あるいは教会の設置や廃止のような重大な意思決定の権限はローマ教皇にあるわけでございます。中央集権的に上下関係がきちんと整備されたピラミッド型の秩序や組織をヒエラルヒーといいますが、このヒエラルヒーということばは、もともとはこの教会組織をさすことばでした。このようにカトリックの場合は、整然と目に見える形で教団というものが存在し、その具体的な姿がバチカンであるわけです。しかし仏教にはバチカンに相当するようなものはありません。仏教に世界の総本山というものがあるなどということも聴いたことはありません。それでは『広辞苑』や『岩波仏教辞典』がいう「教団」はどのようなものをイメージしているのでしょうか。

（6）現前僧伽と四方僧伽『仏教大辞典』小学館：（サンガの項）......出家者である比丘の集団（4人以上）を比丘サンガといい、比丘尼の集団を比丘尼サンガといって、これらがそれぞれ共同生活を営んでいた。これを現前サンガという。これに対してサンガのすべてを観念的に１つの集団としてとらえたものを四方サンガという。

　今スクリーンに出しましたのは、小学館から発行された『仏教大辞典』の（サンガ）の項の解説です。ここには、「......出家者である比丘の集団（4人以上）を比丘サンガといい、比丘尼の集団を比丘尼サンガといって、これらがそれぞれ共同生活を営んでいた。これを現前サンガという。これに対してサンガのすべてを観念的に１つの集団としてとらえたものを四方サンガという。」と解説しております。仏教学の世界にもはやり廃りがありまして、１つの新説が立てられてこれが一世を風靡したかと思うと、やがてそれが否定されていくということがございます。これは学問としては当然のことでしょう。今スクリーンに出しました「現前サンガ」ということばや、「四方サンガ」ということばもその１つではないかと思います。ともかくこのことばは、現時点ではスクリーンに出しましたように理解されていますが、しかしこれは誤りであり、やがてこのような解説は消えていくと思います。辞書に書いてあることをはっきりと間違っていると申し上げると支障があるのではないかと心配してくださる方もいらっしゃるかも知れませんが、それは大丈夫です。なぜならこれは私が書いた解説文で、それを書いた本人が間違いだといっているのですから、苦情がでる心配はありません。この辞典が出版されましたのは1988年のことで、「釈尊伝の研究」を始める4年前のことになります。したがいまして当時の私は学界の常識にしたがって執筆したわけですが、この研究をやっている過程で、これが誤りであると気がついたわけでございます。なぜこれが誤りであるかという理由を申し上げると、少なくとも1時間はかかりますから、今ここでは細かなことは申し上げません。しかし今の解説に書かれているような意味の「現前サンガ」という概念や、「四方サンガ」という概念は存在しない、ということだけは申し上げておきます。ただこの解説の「四方サンガ」のところで「四方サンガ」は観念的なものだというところは注目していただきたいと思います。現在の日本の仏教学界では、これが「教団」に相当すると考えられているといってよいでしょう。しかし本来「サンガ」というのは「組織的な集団」を意味しますから、「観念的」にしか存在しないなら「教団」は存在しないというべきでしょう。仏教聖典は三蔵と呼ばれますが、その中の１つに律蔵、パーリ語ではヴィナヤというものがあります。この中にはサンガの運営法が規則として定められています。しかしこのサンガは出家修行者としての5人とか10人の集団としてサンガ、ここでいう「仏弟子たちのサンガ」を指しておりまして「釈尊教団」をさすものではありません。また経蔵にも「サンガ」ということばはたくさん出てきますが、そのすべては「仏弟子たちのサンガ」を指しているといってよいでしょう。要するに三蔵の中には、「釈尊教団」なるものが存在したことを示す直接証拠は見いだせないといってよいと思います。しかし実はごくわずかですが、それが「釈尊教団」を意味するのではないかと推測できるようなサンガの用法が見いだされます。

（7）阿難尊者（アーナンダ）とお釈迦さまの問答「世尊が比丘サンガに関して何かを語られない間は般涅槃されることはないだろうと考えて、心安らかになりました」「阿難よ、比丘サンガは私に何を期待しているのか」提婆達多（デーヴァダッタ）とお釈迦さまの問答「世尊は歳をとられました。比丘サンガを自分に付嘱してください、自分がブッダとなって比丘サンガを指導しましょう」「舎利弗・目連にすら比丘サンガを付嘱しない。いわんや唾を食う卑しい者においてをや」

　それが今スクリーンにでている、アーナンダやデーヴァダッタとお釈迦さまの間に交わされたことばの中に含まれるサンガです。アーナンダのことばは『涅槃経（マハー・パリニッバーナ　スッタンタ）』に残されているもので、お釈迦さまがヴェーサーリーで80歳の誕生日を迎えられた時に重い病気にかかられますが、その時のことばです。アーナンダはサンガの行く末を心配したわけですが、このサンガは「釈尊教団」のことでしょう。またデーヴァダッタのことばはお釈迦さまにサンガを譲れと要求したときのものです。このサンガもやっぱり「釈尊教団」のことでしょう。「仏弟子たちのサンガ」なら、デーヴァダッタはもうとっくの昔から、ヴァッジ族の若い比丘を中心とする自分のサンガを持っていたからです。しかもデーヴァダッタはみずからが「仏になる」とまでいっているのですから、これは「釈尊教団」のようなものでなければなりません。もし観念的なものなら、それを「譲れ」ということばは使われないでしょう。譲れるものは物質とか組織であって、観念は譲れません。「指導する」ということばもそうで、組織体なら指導できるけれども、観念的なものは指導できません。このようにここで使われているサンガということばがは、「教団」を意味すると思われます。そしてまた別に、「釈尊教団」が存在していなければならなかったと考えられる状況証拠があります。

（8）釈尊教団が存在した状況証拠具足戒（釈尊教団のメンバーとなる任命権）波羅夷罪（釈尊教団から追放する免職権）それが具足戒であり、波羅夷罪です。パーリ語でいいますとウパサンパダーであり、パーラージカです。具足戒は一人前のお坊さんとしての資格を授与することで、波羅夷罪は盗みや殺人などの重罪を犯した者からお坊さんとしての資格を剥奪することです。そしてこれらは１つ１つの「仏弟子たちのサンガ」が行います。しかし1つ1つの「仏弟子たちのサンガ」が行うとしても、それが全世界の仏教において公認されたものでなければ意味がありません。例えば私が日本テーラワーダ仏教協会のサンガで具足戒を授けられたのに、タイのお寺に行ったら比丘として認めてもらえなかったというのでは、はなはだ困ることになります。あるいは私が波羅夷罪を犯して日本テーラワーダ仏教協会のサンガから比丘としての資格を剥奪されたのに、スリランカに行けば比丘として認められるというのでは、これもはなはだ不都合です。このように考えると、カトリック教会のように形ははっきりとはしていないけれども、「釈尊教団」というものが存在すると考えざるを得ません。言葉を換えていえば、あるお寺で具足戒を与えることは、「釈尊教団」の一員になる資格を与えることを意味し、あるお寺で１人の比丘を波羅夷罪の処分をすることは、「釈尊教団」から追放することを意味しなければならないということです。とはいいながら「釈尊教団」という形は見えませんから、やっぱりこれは抽象的・観念的なものだったのでしょうか。しかし私はそうは考えません。

（9）「釈尊教団」の組織レギュラー・チェーン店的な組織ではなく＝イトーヨーカドーフランチャイズ・チェーン店的な組織＝セブンイレブン

　ちょっとあまりに下世話すぎて表現が悪いのですが、それにあまりに具体的すぎてもし差し障りがあればお許しいただきたいのですが、私は「釈尊教団」はフランチャイズ・チェーン店のような組織と考えています。これに対する組織がレギュラー・チェーン店的な組織です。具体的な例を挙げるとセブンイレブン的な組織と、イトーヨーカドー的な組織ということになります。イトーヨーカドーの店舗は全国各地にいくつもあり、私が住んでいる埼玉県の草加市にも草加店と新田店という2店舗があります。しかしイトーヨーカドーはレギュラー・チェーン店ですから、あくまでも「株式会社イトーヨーカドー」の支店で、運営の面ではかなりの部分は各地の支店に任されているとしても、最終的には資金調達やその建物・施設の設置、人材の配置、商品の購入・管理などはすべて本部の責任のもとで行われており、もちろん独立採算的な会計制度は持っているでしょうが、最終的には利益も損失も本部で一括して「決算報告書」が作成されます。したがって各地のイトーヨーカドーの店長や主立ったスタッフは、本社で採用されて各地の支店に派遣されるのですから、時々転勤があるし、支店の開設や閉鎖は本部で決定されます。最近各地のデパートが閉鎖されて話題になっておりますが、これも本社が決めることです。要するにカトリック教団はイトーヨーカドーのような組織体なのです。しかしセブンイレブンはフランチャイズ・チェーン店でありまして、全国にあるセブンイレブンの店舗は、もともとはそれぞれが独立した小売商店です。したがって土地や店舗、設備・備品は小売店主のものであり、資金も人事も商品の購入・管理なども一切は小売店の責任のもとに行われ、利益も損失もまた小売店のものということになります。しかし加盟料（ロイヤリティ）を払って、商品はセブンイレブン系統の仕入れルートによって仕入れ、ディスプレイや商品の管理などについてのノウハウを本部であるセブンイレブン・ジャパンから提供してもらっていますので、全国どこに行っても、セブンイレブンにはあの7とローマ字のiをかたどったロゴマークの看板が掲げられています。しかしセブンイレブンはもともとは個人商店なのですから、全国に散在するすべてのセブンイレブンの店舗や人材を統括管理するような組織は存在しません。「釈尊教団」を構成する１つ１つの「仏弟子たちのサンガ」も、個人商店であるセブンイレブンのように自主的に運営されておりました。「仏弟子たちのサンガ」が持っていた権利は次のようなものです。

（10）「仏弟子たちのサンガ」に与えられていた権利行政人事権　固定資産の所有権・運営権司法裁判権処罰権

　カトリック教団では、人事権も固定資産の所有権も、裁判権も処罰権も、すべてローマの教皇庁が握っていますが、「釈尊の教団」ではすべて「仏弟子たちのサンガ」に移譲されておりました。「釈尊教団」がフランチャイズ・チェーン店方式の緩やかな組織体であるという証拠です。しかし立法権はお釈迦さまが握っていらっしゃいました。亡くなった時に、小さな戒は廃止してよいと遺言されましたが、仏弟子たちはどんな小さな戒も廃止せず、どんな小さな戒も制定しないでいこうと決議しましたので、お釈迦さまが定められたそのままが現在まで伝わっています。このように「仏弟子たちのサンガ」は、立法権を除く行政権と司法権を有する、自主的に運営される集団であったということができます。しかしながらこれらが「釈尊教団」として１つにまとまるためには、セブンイレブンの１つ１つの店舗が本部に支払うロイヤリティのようなものと、本部が１つ１つのセブンイレブンに提供するノウハウといったようなものがなければなりません。

（11）釈尊教団を統一するもの三宝帰依法と律（私たちに残されたものでいえば経蔵と律蔵）＊すべての戒条は「最初の犯行者で、戒が制定されるまでは無罪」

　それは言うまでもなく、三宝帰依とお釈迦さまの説かれた「法」と「律」です。「三宝帰依」は１つ１つのサンガや一人一人の修行者が本部に支払うロイヤリティであり、「法」と「律」は本部から提供されるノウハウといってよいでしょう。「法」と「律」は、現在の私たちに残されたものでいえば「経蔵」と「律蔵」に相当します。しかしこれが単に理念に終わってしまったら組織化はできません。具体的であって、しかも実効性のあるものでなければなりません。「法」はどちらかといえばぼんやりしたものですから、そういう意味では本部から提供されるノウハウは「律」であったといってよいでしょう。「律」は違反すると罰則がある「法律」ですから、きわめて具体的なものです。しかも「律」の条文には、どの条文にも必ず「最初の犯行者で、戒が制定されるまでは無罪」ということばがつけられています。「律」ははじめから体系的に整備されたものではなく、犯罪が行われたたびごとにお釈迦さまがそれに応じて定められたものです。ですからその条文が作られるきっかけを作った最初の犯行者は、その時点では条文がありませんから、無罪ということになるわけです。しかしいったん「殺人を行ったものは波羅夷罪に処す」という条文が作られたら、無条件に波羅夷罪となり、罪を逃れることはできません。そんな条文があることは知らなかったという理由は通用しないわけです。要するにすべての出家修行者は昨日定められた律の条文をも含めて、すべてを知っていなければならないという前提なのです。例えば現代の日本でも、日常的に法律や法令は改廃されています。そこで今は、国会で成立した法律は、直ちにインターネット上で公示され、誰でも知ることができるようになっています。インターネットが発達するまでは、速やかに「官報」というものが発行されて、国民のすべてが知らなかったといわせないようなシステムになっておりました。しかし今から2,500年前のインドでこのようなことが可能だったのでしょうか。「律の条文が定められた以後は無条件に罪である」といわれても、定められた条文を知りうる手段を持っていなければ、法律はあってもなきが如きことになって、「釈尊教団」といってもしょせん観念的なものになってしまいます。ところが驚くべきことに、本部が提供するノウハウが全国の修行者に速やかに届けられる、そのシステムが構築されていたのです。昨日定められた法律が、今日インドの隅々にまで届くということはさすがに無理であったと思いますが、しかし去年定められた法律は、今年にはインドのすみずみにまで届いていたのではないかと思います。

（12）釈尊教団を統一するシステム布薩　月2回（法と）律を確認する会雨安居　雨期の3あるいは4ヶ月合宿して法と律を深く学ぶ自恣　雨期合宿の修了試験遊行（諸仏の常法）　雨安居の前後にお釈迦さまに会って法と律に関する教えを受ける

　そのシステムが、今スクリーンに出しました布薩と雨安居と自恣と遊行です。皆さんはテーラワーダ仏教のお坊さま方の日常もご覧になっているでしょうから、先刻ご承知のことと思いますが、布薩は月に2回主に律を確認する会です。もし新たに制定されたり、あるいは廃止されたりした条文があれば、この時に確認するわけです。雨安居は雨期の3ヶ月あるいは4ヶ月の間合宿して法と律を深く学ぶ機会といってよいと思います。自恣はその最後に行われる雨期合宿の修了試験とでもいってよいでしょう。これらはすべての出家修行者は必ず行うべしと戒律で定められた義務ですから、これによって法と律はすべての修行者に徹底されることになります。遊行は戒律で定められた義務ではありませんが、「諸仏の常法」とされています。雨安居の前後、特に雨安居明けにお釈迦さまのところに行って法と律に関する教えを受けるという習慣です。このときに新しく制定された律の情報などを仕入れるわけです。もちろん遊行の途中には各地のサンガに立ちよって情報交換します。このように遊行も「釈尊教団」を１つに統一させるための非常に重要なシステムとして機能していたということができますが、当時の交通事情からすると、これを義務化することはできなかったのでしょう。しかも全国からお坊さんが集まると、おそらく何千人、何万人になったでしょうから、これを受け入れるのは並大抵のことではありません。これも義務化することができなかった理由でしょう。このように「釈尊教団」は緩やかな組織ではありましたが、それを統一するロイヤリティーに相当するものも、本部から提供してもらうノウハウも、それを実現するシステムも備えていました。私たちの目に見えているのは１つ１つの「仏弟子たちのサンガ」でありますが、その背後にお釈迦さまの法と律を中心とする、全世界のすべてのサンガが網の目のようにつながりあっていたということになります。もちろんロイヤリティである三宝帰依は、仏教徒であることの条件のアルファでありオメガであって、出家する時にこれを誓うことから始まり、集会が行われる都度にこれが唱えられるのですから、これが徹底されないはずはありません。このように１つ１つの「仏弟子たちのサンガ」は、三宝帰依と律の規定を守るという原理と、それを実効性あらしめるシステムが有効に働くことによって「釈尊教団」は形成されていたのです。お釈迦さまの在世中は、セブンイレブン・ジャパンに相当する本部はもちろんお釈迦さまご自身でしたので、「釈尊教団」の形はまだ見えやすかったのですが、お釈迦さまが入滅されて以降は、さらにこれが見えにくくなりました。しかしそれが具体的に姿を現した瞬間がありました。それが結集（サンギーティ）です。

（13）「釈尊教団」が姿を現した瞬間お釈迦さまの遺言で行われた王舎城の第1結集（500結集）法と律に疑義が生じて行われたヴェーサーリーの第2結集（700結集）仏教の伝統を守るために行われたアソーカ王時代の第３結集（1000結集）

　お釈迦さまの亡くなる直前の様子を伝えた『涅槃経』は、お釈迦さまのサンガへの遺言を集めたお経といってよいと思います。その遺言の１つに「阿難よ、あなたは師の教えは終わった、もはやわれらの師はいないと思うかも知れない。しかし阿難よ、このように見てはならない。あなたたちのために私が説き、制した「法」と「律」が、私の死後のあなたたちの師である」ということばがあります。今も申し上げましたとおり、「釈尊教団」はお釈迦さまの説かれる法と律によって１つにまとめられていました。お釈迦さまの生存中は、何か疑問があれば本部であるお釈迦さまに確認すればそれでよかったのですが、亡くなってしまった後には確認できません。そこでお釈迦さまはこれからは「釈尊教団」の本部は自分ではなく、自分が説いた「法」と「律」だぞと遺言されたのです。摩訶迦葉はこの遺言にしたがって、お釈迦さまが亡くなってすぐに全国の有力な直弟子たちを集めて、これからの「釈尊教団」がよりどころとして行くべき「法」と「律」はこれこれであると、「釈尊教団」の権威の下にその編集を行ったのです。しかし「釈尊教団」は緩やかな組織体であったために、この結集に参加しなかった有力な弟子ができてしまいました。それがプラーナでありまして、プラーナは一時は、「結集をしたことはよい。しかし自分は自分が釈尊の面前において受けた「法」と「律」を保持していく」と嫌みを言ったと伝えられています。また第2結集は、仏滅後100年後にヴェーサーリーというところで、律の解釈をめぐって紛争が起こった時に開かれました。そしてそれからさらに135年くらい後に仏教の伝統に乱れが生じ、布薩が行われなくなったので、アソーカ王の時代に第３回めの結集が行われました。「釈尊教団」がよりどころとする法と律に解釈の食い違いができると、「釈尊教団」を１つにまとめることができなくなりますから、このような問題が起こった時には結集を行い、「釈尊教団」としての意思を統一をしたわけです。ちなみに大乗仏教のお寺やお坊さんはこの「法」と「律」をよりどころとしておりませんので、「釈尊教団」の一員ではありません。また特に日本仏教のお坊さんは、「律」にしたがって具足戒を受けているわけではありませんので、釈迦仏教から言えばお坊さんでさえありません。しかし中国や韓国のお坊さんは、よりどころとする「法」は違っても「律」は同じ系統のものによって具足戒を受けていますから、「釈尊教団」の一員としては認められなくとも、お坊さんとしては認められてよいでしょう。

（14）なぜ「釈尊教団」は緩やかな組織だったのか縁起という世界観＝絶対で唯一なるものを認めないサンガや個人に自主性を認めた

　少々余談になりますが、キリスト教が中央集権的なヒエラルヒーのきちんとした組織であったのに、仏教が非常に緩やかな組織になったのにも理由があります。キリスト教は神が絶対唯一の価値で、イエス・キリストはその預言者ですから、聖書は絶対です。したがって上意下達的な組織となり、異端が極端に廃されます。しかし仏教の世界観の基本は縁起ですから、むしろ唯一絶対なるものを認めません。そこでサンガや個人にも自主性が認められ、個性が尊重されるわけで、このような世界観を基礎とする組織が中央集権的なものになるはずはありません。宗教裁判のようなものも起こりえないわけです。

（15）仏教学者が描く最初期の修行者像と真実樹下に住み−−僧院においてただ１人で遍歴し−−集団の定住生活をし糞掃衣を着て−−こざっぱりした衣を着て乞食を常とする−−食堂での食事やお呼ばれもする

　以上のようにお釈迦さま時代の仏教の修行者たちは、それぞれがいずれかの「仏弟子たちのサンガ」に属していると同時に、「釈尊教団」という大きな組織にも属していました。僧院が建てられたのも、布薩や自恣や雨安居を行うために必要な施設だったからでありまして、もちろん近くの園林に出て、静かに１人で瞑想することも勧められましたが、基本は僧院での集団生活でした。また旅に出ることもありましたが、それはお釈迦さまに会ったり、よき師を求めたり、情報を交換したりという目的を持った旅でありまして、一処不定の目的地を持たない遍歴ではありませんでした。原則としては一ヶ所に定住しておりました。ところが多くの仏教学者はスクリーンに赤字で書きましたように、最初期の仏教の修行者は樹下に住み、ただ１人で遍歴し、糞掃衣を着て、乞食を常とする生活をしていたと主張しています。しかしもしお釈迦さまの教えが、学者のいうようなものを目指していたとするなら、仏教徒たるべき最低の要件に「サンガに帰依する」ということは入ってこなかったはずです。また、そもそも樹下に住み、ただ１人で遍歴し、糞掃衣を着て、乞食を常するというような修行方法は、お釈迦さまが捨てられた「苦行」に属します。「中道」こそ覚りに至る道であると確信されたお釈迦さまがこのような生活法を勧められるはずはありません。したがって提婆達多がこのような生活法を規定化することを提案した時に、お釈迦さまはこれを拒否されたのです。また、もしサンガの生活が基本でなかったなら、サンガとして行うべき布薩や自恣を出家修行者が１人の漏れもなく行うべき定例行事として定められなかったでしょう。そしてもしこのような制度がなかったら「釈尊教団」というまとまりは成立しなかったはずです。仏教学者が最初期の仏教の修行者像として描くイメージは、ただ１人深山幽谷に住んで、人々とは接触しない、仙人のような独覚（縁覚）でありまして、それはお釈迦さまが目指したものではありませんでした。そもそも仏教学者たちは、現在まで残されたパーリ語で書かれた経蔵や律蔵を信用しないという傾向があります。これらは後世の仏教徒がねつ造したもので、お釈迦さまの教えではないとでもいいたいようです。しかし私は布薩や雨安居や自恣や遊行は、お釈迦さまの教えを忠実に全世界の修行者に行き渡らせるための制度として定められたものであり、入滅後に行われた結集もお釈迦さまの遺言によって、お釈迦さまの教えを「釈尊教団」の心柱に据えるという意図のもとに行われたとするなら、現在に残されている聖典こそお釈迦さまの教えを忠実に伝えていると考えなければならないと思います。

（16）ゴータマ・ブッダの直弟子というべきテーラワーダ仏教ブッダと直弟子たちの教えと生活と修行のありさま＝テーラワーダ仏教のお坊さまを見よ

　そしてこれらの聖典がお釈迦さまの教えを忠実に伝えるものであるならば、現在のテーラワーダ仏教は聖典に書かれていることを忠実に実行しているわけでありますから、テーラワーダ仏教こそお釈迦さまの教えとその修行方法をそのまま伝えている、まさしくゴータマ・ブッダ直系の仏教であるといえると思います。換言すれば、お釈迦さまやその弟子たちの教えと生活と修行のありさまを知りたいなら、テーラワーダ仏教のお坊さまを見よということになります。日本テーラワーダ仏教協会の教えに従っている皆さんは、まさしくゴータマ・ブッダの直弟子ということになります。これからも私の「釈尊伝の研究」は続きます。スマナサーラ長老を初めてとして、日本テーラワーダ仏教協会の皆様方には、ぜひとも引き続きこの研究にご支援をたまわりたいということをお願いいたしまして、私のお話を終わらせていただきたいと思います。ご静聴ありがとうございました。 
        <![CDATA[<div><br /></div>［目次］&nbsp;<div>（1）「釈尊伝の研究」を通して見えてきたブッダの真実&nbsp;</div><div>（2）「モノグラフ」第16号&nbsp;</div><div>（3）お釈迦さまの誕生・成道・般涅槃の日&nbsp;</div><div>（4）サンガ&nbsp;</div><div>（5）カトリック教団の組織&nbsp;</div><div>（6）現前僧伽と四方僧伽&nbsp;</div><div>（7）阿難尊者（アーナンダ）・提婆達多（デーヴァダッタ）とお釈迦さまの問答&nbsp;</div><div>（8）釈尊教団が存在した状況証拠&nbsp;</div><div>（9）「釈尊教団」の組織&nbsp;</div><div>（10）「仏弟子たちのサンガ」に与えられていた権利&nbsp;</div><div>（11）釈尊教団を統一するもの</div><div>（12）釈尊教団を統一するシステム&nbsp;</div><div>（13）「釈尊教団」が姿を現した瞬間</div><div>（14）なぜ「釈尊教団」は緩やかな組織だったのか</div><div>（15）仏教学者が描く最初期の修行者像と真実</div><div>（16）ゴータマ・ブッダの直弟子というべきテーラワーダ仏教</div>]]>
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    <title>現地調査の概要</title>
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    <published>2010-06-01T01:08:49Z</published>
    <updated>2010-06-01T01:36:41Z</updated>

    <summary><![CDATA[［本講演の概要］&nbsp;　本講演がお釈迦さまの誕生・成道・般涅槃のお祝いをす...]]></summary>
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        <name>釈尊伝</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.sakya-muni.jp/">
        <![CDATA[<div><br /></div>［本講演の概要］<div>&nbsp;　本講演がお釈迦さまの誕生・成道・般涅槃のお祝いをするウェーサーカ祭にちなんでのものであったことから、これらの日にちについてのテーラワーダ仏教の伝承と日本仏教の伝承が異なっている理由をお話しした後に本題に入る。</div><div>&nbsp;　「釈尊教団は存在したか」という副題に表されているように、サンガ特にすべての仏教の出家修行者と各地に散在するすべての出家修行者の集団を統括するような「釈尊教団」とでも呼ぶべきサンガが存在し、それがどのようなものであったかを述べたものであり、これを通してテーラワーダ仏教の特質を考えようとしたものである。 </div>]]>
        
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    <title>日本テーラワーダ仏教協会</title>
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    <published>2010-02-26T06:15:57Z</published>
    <updated>2010-02-26T06:22:12Z</updated>

    <summary>釈尊の説かれたテーラワーダ仏教を学び、伝えるために活動している『日本テーラワーダ...</summary>
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        <name>釈尊伝</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.sakya-muni.jp/">
        <![CDATA[<p>釈尊の説かれたテーラワーダ仏教を学び、伝えるために活動している『日本テーラワーダ仏教協会』のサイトです。<br /><a href="http://www.j-theravada.net/">
http://www.j-theravada.net/</a></p>]]>
        
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    <title>本論文の概要</title>
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    <published>2010-02-09T23:30:32Z</published>
    <updated>2010-05-18T05:26:47Z</updated>

    <summary>　本稿は【論文20】「サンガにおける紛争の調停と犯罪裁判」の姉妹篇であって、この...</summary>
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        <name>釈尊伝</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.sakya-muni.jp/">
        <![CDATA[<p>　本稿は【論文20】「サンガにおける紛争の調停と犯罪裁判」の姉妹篇であって、この論文が扱った7つの紛争調停法・犯罪裁判法のなかの1つである、教義教学に関する論争（諍論諍事）の調停法である「多人語ヴィナヤ（yebhuyyasikā）」の行い方とその理念を考察したものである。<br />
　この「多人語ヴィナヤ」は一般的には「多数決」と現代語訳され、サンガが民主的・平等に運営されていたという通説の最大の根拠となっている。しかしながらそれはまさしく誤解であって、「多人語ヴィナヤ」はサンガのリーダーの考えに同調する者たちが多数を占めるように、根回し・談合は愚か、票数を操作するなどの不正行為までが行われ、もしこれが失敗してサンガのリーダーの意思に反する結果になったときには、投票そのものが無効にされなければならないというものなのである。<br />
　したがって「多人語ヴィナヤ」はサンガの意思を民主的・平等に多数によって決定するために行われるのではなく、サンガに紛争が起こったときに、そのリーダーが自分の考えに同調する者が多数になるような工作をしたうえで投票し、自分の考えに同調する者が多数を占めたということをよりどころにして、紛争を解決しようとする方法なのである。<br />
　なぜこのような不正行為まがいの調停法が許されるかといえば、サンガはサンガのリーダーの強いリーダーシップのもとに運営されるべきものであって、したがってもしこのサンガに紛争が起こったら、リーダーのとる立場が常に正義（dharma, dhamma）であるという前提のもとに、サンガのリーダーの考えるところにしたがって調停されなければならないからである。<br />
　本稿はこのような「多人語ヴィナヤ」が実際にどのように行われ、それはどのような理念に基づいていたものであるかを考察したものである。 </p>]]>
        
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    <title>本論文の概要</title>
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    <published>2010-02-09T23:30:14Z</published>
    <updated>2010-05-18T05:26:05Z</updated>

    <summary>　筆者はかねてから「律蔵」は「経蔵」とは異なった、仏教独自の法理念に基づいた法律...</summary>
    <author>
        <name>釈尊伝</name>
        
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        <category term="1-20論文20" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.sakya-muni.jp/">
        <![CDATA[<p>　筆者はかねてから「律蔵」は「経蔵」とは異なった、仏教独自の法理念に基づいた法律文書であると主張してきた。法律であれば公法に分類される行政法、刑法、刑事・民事訴訟法が含まれるともに、私法に分類される民法が含まれなければならない。<br />
　ところで「公法」とは国家機関や行政機関がかかわるもので、刑法が公法に分類されるのは、刑事犯罪が発生すれば、告訴・告発のあるなしにかかわらず、警察などの行政機関が私人に対して法的に優越する意思をもって動き始めなければならない領域を法的に定めたものであるからである。また民事訴訟法や刑事訴訟法が公法に分類されるのは、裁判所などの国家機関が行う裁判の手続き・形式を定めたものだからであり、行政法が公法であるのは説明するを要しないであろう。一方の民法が私法に分類されるのは、財産の所有権やその譲渡・相続などは原則として私人間で処理されるべきであり、これに関する規則を定めたものであるからである。<br />
　しからばもし「律蔵」が法律文書であるとするなら、律蔵のどこが上記の刑法や民法や訴訟法に相当するのであろうか。まず、仏教における行政機関はサンガであって、したがってこのサンガが法的に、私人に対して優先的に係わるべきことが定められた規則が公法であり、比丘・比丘尼が個人的に処理すべき事項について定められた規則が私法であるとすることができる。そして『パーリ律』によって具体的にいえば、サンガのさまざまな運営規則を定めた「犍度分」中に収められる「大犍度（受戒犍度）」「布薩犍度」「入雨安居犍度」「自恣犍度」「チャンパー犍度」「コーサンビー犍度」「別住犍度」「集犍度」「破僧犍度」「遮説戒犍度」などは「行政法」に相当し、「経分別」中の波羅夷罪や僧残罪のように、その処罰にサンガが係わり、もし犯して隠そうとする者があればサンガに告発しなければならない重罪の規定は「刑法」に、この告発や裁判の手続きを定めた「犍度分」中に収められている「羯磨犍度」や「滅諍犍度」などは「刑事訴訟法」「民事訴訟法」に相当し、「経分別」中の原則として個人としての上座比丘などに懺悔すれば許され、サンガに対して告発する道が設けられていない捨堕以下の軽罪や、個人ないしは法人としてのサンガの所有物を規定した「犍度分」中の「皮革犍度」「薬犍度」「衣犍度」「小事犍度」「臥坐具犍度」などは「民法」に相当する。私法にはこの外に商法も含まれるが、出家者には経済行為・生産行為は禁止されているから、「律蔵」にはこれに相当するものはない。<br />
　本稿はこの中の「刑事訴訟法」ないしは「民事訴訟法」に相当する「滅諍犍度」と「羯磨犍度」を中心に、「律蔵」独自の法体系と法理念をも追求しながら、筆者の用語にもとづいていえば諍論諍事・告発諍事・犯罪諍事・羯磨諍事の4種に分類されるサンガの中の紛争・犯罪をどのように調停し、どのように裁判するかを定めた7つの紛争調停法・犯罪裁判法すなわち、「現前ヴィナヤ」「憶念ヴィナヤ」「不癡ヴィナヤ」「自言治ヴィナヤ」「多人語ヴィナヤ」「覓罪相ヴィナヤ」「草覆地ヴィナヤ」が、実際にどのように行われるべきかということを考察したものである。ただしこのうちの「多人語ヴィナヤ」の詳細は次の<a href="http://www.sakya-muni.jp/monograph/84no16/1-2121/">【論文21】</a>に譲られている。<br />
　</p>]]>
        
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    <title>本論文の概要</title>
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    <published>2010-02-09T23:23:26Z</published>
    <updated>2010-05-18T05:24:51Z</updated>

    <summary> 　本稿はかつて研究分担者であった中島克久が担当して、原始仏教聖典やその注釈書、...</summary>
    <author>
        <name>釈尊伝</name>
        
    </author>
    
        <category term="1-22論文22" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.sakya-muni.jp/">
        <![CDATA[ 　本稿はかつて研究分担者であった中島克久が担当して、原始仏教聖典やその注釈書、本縁部経典などの後期原始仏教聖典などから、就学や結婚などのライフステージの年齢記事を収集し整理した3つの「資料集」すなわち&nbsp;<blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">【資料集1-1】原始仏教聖典に見られる年齢記事一覧［Ⅰ］─"Jātaka-aṭṭhakathā"篇─（本「モノグラフ」第１号所収　1997.7）&nbsp;<br />【資料集1-2】原始仏教聖典に見られる年齢記事一覧［Ⅱ］（本「モノグラフ」第６号所収　2002.10）&nbsp;<br />【資料集６】本縁部経典に見られる年齢記事一覧（本「モノグラフ」第10号所収　2005.4）</blockquote>&nbsp;に収められている資料をデータとして、これらを統計的に処理し、加えて同じく中島が担当した&nbsp;<blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">【資料集4】「古典インド法典類の年齢記事資料─幼児期の浄法（<i>saṃskāra</i>）と住期（<i>āśrama</i>）を中心に─」（本「モノグラフ」9号　2004.5）&nbsp;</blockquote><div>を参考にして、釈尊時代のインド人の、階層別・男女別の、目次に掲げたようなライフステージの平均的かつ標準的な年齢を導き出そうとしたものである。</div><div>&nbsp;　そのまとめを以下に掲げ、概要に代える。</div><div><br /></div><div>&nbsp;　以上、就学、学業の修了、遊学、就業、結婚、立太子（副王位）、即位、隠棲、老耄、死没などの各ライフステージの平均年齢ないしは最頻値を、原始仏教聖典（A文献）と後期原始仏教聖典（B文献）を材料にして資料を収集した資料集「原始仏教聖典に見られる年齢記事一覧」「本縁部経典に見られる年齢記事一覧」「古典インド法典類の年齢記事資料」などをもとに、主に統計的な分析を施しながら、若干の考察を加えて、われわれの研究の基準とすべき標準的な年齢を求めてきた。その結果のみを示すと次のようになる。&nbsp;</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">就学年齢　階級に関係なく8歳（男）<br />学業の修了年齢　16歳（男）　※成人年齢に相当する。&nbsp;<br />遊学年齢　16歳（男）　※基礎的な学業の修了が16歳であったことを裏付ける&nbsp;<br />就業年齢　16歳（男）　※基礎的な学業の修了が16歳であったことと、結婚年齢が16歳であるのと対応する。&nbsp;<br />結婚年齢　16歳（男・女）　※ただし女子に関しては初潮以前の幼児婚もひろく行われていた。&nbsp;<br />立太子（副王位）年齢　16歳（男）
即位年齢　16歳（男）　※ただし王位につく資格を有する年齢という意味である。<br />隠棲年齢　16歳（男子）　※仙人への道に入るという意味である。&nbsp;<br />老耄年齢　80歳　※成人に達して以降の平均余命はかなり高かった。&nbsp;<br />死没年齢　120歳　※説話的にモディファイされた年齢であって、幼少年期の死亡も多かった。</blockquote><div>&nbsp;　ただし「はじめに」にも書いたように、原始仏教聖典ならびに後期原始仏教聖典に記載されている年齢記事が絶望的と言いうるほどに乏しいため、必然的に考察の対象とすべき資料数が少なくなった。したがって統計的な処理をするという所期の目的は十全にはたっせられなかったと反省しなければならない。</div><div>&nbsp;　しかしながら学業の修了年齢も、遊学年齢も、就業年齢も、結婚年齢も、立太子年齢も、即位年齢も、隠棲年齢も、すべてが16歳であるということは、当時の社会においては16歳が成人年齢であったことを示し、この年齢がその後の人生の進路を決定する非常に重要なポイントになる、ということはいえるであろう。</div><div><br /></div><div>&nbsp;　なお本稿は、以前に中島が草稿としてまとめていた資料集「ライフステージ年齢資料の整理と平均および最頻値──原始仏典、<i>Jātaka-aṭṭhakathā</i>、本縁部経典より収集された男女別・ライフステージ年齢表──」をもとにして、森が考察部分を加えて論文として編成しなおしたものである。</div>]]>
        
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    <title>まとめ</title>
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    <published>2010-02-09T04:40:36Z</published>
    <updated>2010-05-14T04:21:23Z</updated>

    <summary>　まとめ以上、就学、学業の修了、遊学、就業、結婚、立太子（副王位）、即位、隠棲、...</summary>
    <author>
        <name>釈尊伝</name>
        
    </author>
    
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.sakya-muni.jp/">
        　まとめ以上、就学、学業の修了、遊学、就業、結婚、立太子（副王位）、即位、隠棲、老耄、死没などの各ライフステージの平均年齢ないしは最頻値を、原始仏教聖典（A 文献）と後期原始仏教聖典（B 文献）を材料にして資料を収集した資料集「原始仏教聖典に見られる年齢記事一覧」「本縁部経典に見られる年齢記事一覧」「古典インド法典類の年齢記事資料」などをもとに、主に統計的な分析を施しながら、若干の考察を加えて、われわれの研究の基準とすべき標準的な年齢を求めてきた。その結果のみを示すと次のようになる。就学年齢　階級に関係なく8 歳（男）学業の修了年齢　16 歳（男）　※成人年齢に相当する。遊学年齢　16 歳（男）　※基礎的な学業の修了が16 歳であったことを裏付ける就業年齢　16 歳（男）　※基礎的な学業の修了が16 歳であったことと、結婚年齢16歳であるのと対応する。結婚年齢　16 歳（男・女）　※ただし女子に関しては初潮以前の幼児婚もひろく行われていた。立太子（副王位）年齢　16 歳（男）即位年齢　16 歳（男）　※ただし王位につく資格を有する年齢という意味である。隠棲年齢　16 歳（男子）　※仙人への道に入るという意味である。老耄年齢　80 歳　※成人に達して以降の平均余命はかなり高かった。死没年齢　120 歳　※説話的にモディファイされた年齢であって、幼少年期の死亡も多かった。ただし「はじめに」にも書いたように、原始仏教聖典ならびに後期原始仏教聖典に記載されている年齢記事が絶望的と言いうるほどに乏しいため、必然的に考察の対象とすべき資料数が少なくなった。したがって統計的な処理をするという所期の目的は十全にはたっせられなかったと反省しなければならない。しかしながら学業の修了年齢も、遊学年齢も、就業年齢も、結婚年齢も、立太子年齢も、即位年齢も、隠棲年齢も、すべてが16 歳であるということは、当時の社会においては16 歳が成人年齢であったことを示し、この年齢がその後の人生の進路を決定する非常に重要なポイントになる、ということはいえるであろう。＊本稿は中島が草稿としてまとめてあった資料集「ライフステージ年齢資料の整理と平均および最頻値──原始仏典、JAtaka-aTThakathA、本縁部経典より収集された男女別・ライフステージ年齢表──」をもとにして、森が考察部分を加えて論文として編成しなおしたものである。

        
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    <title>【11】死没年齢</title>
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    <published>2010-02-09T04:40:04Z</published>
    <updated>2010-05-18T05:32:59Z</updated>

    <summary>　【11】死没年齢［0］これも自覚的、意識的になしうるライフステージではないが、...</summary>
    <author>
        <name>釈尊伝</name>
        
    </author>
    
        <category term="1-22論文22" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.sakya-muni.jp/">
        　【11】死没年齢［0］これも自覚的、意識的になしうるライフステージではないが、前項と同様の理由によって調査項目とした。［1］原始仏教聖典において年齢をともなった死亡記事には以下のようなものがある。［1-1］原始仏教聖典（Ａ文献）の死没年齢記事を紹介する。〈1〉イシダーシー（IsidAsI）の過去世/不明（女性でもなく、男性でもなく；nF evamahiLA na puriso ）/シュードラ/30 歳（1）TherIgAthA（pp.166~167）vs.442~443：〔過去世〕それから〔わたし、イシダーシーは〕......婢の家に（dAsiyA ghare）生れ、女性でも男性でもなかった（nF evamahiLA na puriso）。30 歳の時に死に（tiMsativassamhi mato）、車夫の家（sAkaTikakula）に娘として生まれた。（1）本「モノグラフ」6 号、【資料集1-2】に「死没」資料として落ちていたものを補った。〈2〉釈尊❶　/男/クシャトリヤ/79歳白法祖訳「仏般泥　経」（大正01　p.172 下）：年亦自至七十有九。惟斷生死迴流之淵。思惟深觀。從四天王。上至不想入。從不想轉還身中。自惟身中四大惡露。無一可珍。北首枕手猗右脇臥。屈膝累脚。便般泥曰。失訳「般泥　経」（大正01　p.188 中）：......自我爲聖師。年至七十九。......〈3〉釈尊❷　/男/クシャトリヤ/80歳MN.016MahAparinibbAna-s.（vol.Ⅱ　pp.100~156）：〈4〉釈尊❸　/男/クシャトリヤ/80歳『増一阿含』026-009（大正02　p.640 上）：釋迦文佛不久在世年向八十。然今世尊不久當取涅槃。〈5〉（波斯匿王の母）/女/クシャトリヤ/100 歳『増一阿含』026-007（大正02　p.638 上）：時大臣便作是念。此波斯匿王母。年向百歳今日命終。設當聞者王甚愁憂。不能飮食而得重病。我今當設方便。〈6〉（父）/男/バラモン/100 歳『増一阿含』041-002（大正02　744 下）：我頻七日中七男兒死。皆勇猛高才智慧難及。近六日之中。十二作使人無常。能堪作使無有懈怠。近五日已來。四兄弟無常。多諸妓術無事不閑。近四日已來父母命終。年向百歳捨我去世。近三日已來二婦復死。......〈7〉（母）/女/バラモン/100 歳『増一阿含』041-002（大正02　744 下）：同上〈8〉ブラフマーユ（BrahmAyu）/男/バラモン/120 歳MN.091BrahmAyu-s.（vol.Ⅱ　pp.133~146）：その時ミティラー（MithilA）にブラフマーユ婆羅門が住んでいた。年老い（ jiNNa ） 年長け（ vuddha ） 高齢（mahallaka）にして、晩年（addhagata）である老衰に達し（vayo anuppatta）、生れて120 歳（vIsaMvassasatiko jAtiyA）であり、......ブラフマーユ婆羅門は釈尊の三十二相を調べた後、随順説を聞き、......（p.146）釈尊が去られて間もなく亡くなった《老熟/死没》。〈9〉（波斯匿王の祖母）/女/クシャトリヤ/120 歳（1）SN.003-003-002（vol.Ⅰ　p.096）：世尊よ、わが（Pasenadi 王）祖母は年老い、年長け高齢にして、晩年である老衰に達し、生れて120 歳である。ayyakA mebhante kAlakatA jiNNA vuDDhA mahallikA addhagatA vayo anuppattAvIsa-vassa-satikA jAtiyA. ※波斯匿王は祖母が馬宝で死を逃れられるならば馬宝を、善き村または国で死を逃れられるならばこれらを与えるので、祖母を死なせないようにと世尊に頼む。しかし世尊は一切の衆生は死法であり、死を終わりとし、死を越え得ないものであると説く。波斯匿王の祖母は120 歳で死没したとしてとった。（1）中村元訳『ブッダ　神々との対話』（岩波文庫　2001 年〔1986 年〕）の注に、「長寿の人に言及する場合に「百二十歳まで生きた」という表現は古ウパニシャッド以来見られる一種の定型句である。必ずしも実際に百二十歳まで生きたというわけではないらしい」（p.333）とある。〈10〉須跋❶　（Subhadra）/男/バラモン/120歳MahAparinirvANasUtra（pp.366~382）：〈11〉須跋❷　/男/バラモン/120歳『長阿含』002「遊行経」（大正01　p.025 上）：須跋『雑阿含』979（大正02　p.253 下）：須跋陀羅『別訳雑阿含』110（大正02　p.413 上）：須跋陀羅白法祖訳「仏般泥　経」（大正01　pp.164 下~172 下）：須抜失訳「般泥　経」（大正01　pp.180 上~188 下）：須跋法顕訳「大般涅槃経」（大正01　pp.203 中~204 中）：須跋陀羅〈12〉一梵志/男/バラモン/120 歳『長阿含』007「弊宿経」（大正01　p.046 中）：昔者此斯波醯村有一梵志。耆舊長宿年百二十。彼有二妻。一先有子。一始有娠。時彼梵志未久命終《死没》。〈13〉一婆羅門/男/バラモン/120 歳『四分律』「（比丘尼）波逸提070」（大正22　p.737 上）：往昔有一婆羅門。年百二十形體羸痩。此婆羅門婦端政無比多生男女。此婆羅門繋心其婦及諸男女。初不捨離。以此愛着情篤遂至命終。［10-2］後期原始仏教聖典（Ｂ文献）の死没年齢〈1〉一男/男/不明/１歳『衆経撰雑譬喩』37（大正04　p.540 上）：昔有一人兩婦。大婦無兒。小婦生一男。端正可愛。其婿甚喜。大婦心内嫉之。外　愛念劇於親子。兒年一歳許。家中皆知大婦愛重之無復疑心。大婦以針刺兒　上令沒皮肉。兒得病啼呼不復乳哺。家中大小皆不知所以。七日便死。〈2〉一長者子/男/ヴァイシャ（長者児）/４歳『雑譬喩経』道略集10（大正04　p.525 上）：長者兒始年三歳。便持布施爲作弟子。至四歳乳母抱詣師所住寺。寺在山上累石作道。乳母抱兒不堅失手落地。頭側石上腦出而死。〈3〉一長者子/男/ヴァイシャ（長者子）/5.5 歳（５歳・６歳）『雑宝蔵経』47（大正04　p.469 上）：昔佛在世。於一長者子。年五六歳。相師占之。福徳具足。唯有短壽命《死没関連》。將至外道六師所。望求長壽。瞋彼六師都無有能與長壽法。將至佛所。白佛言。此子短壽。唯願世尊。與其長壽。佛言。無有是法能與長壽。重白佛言。願示方便。佛時教言。汝到城門下。見人出者。爲之作禮。入者亦禮。時有一鬼神。化作婆羅門身。欲來入城。小兒向禮。鬼呪願言。使汝長壽。此鬼乃是殺小兒鬼。但鬼神之法。不得二語。以許長壽。更不得殺。以其如是謙忍恭敬。得延壽命。〈4〉一小児/男/不明（牧人）/７歳①　７歳《就業》⇒②　７歳《死没》『六度集経』66（大正03　p.035 中）：有一小兒厥年七歳。城外牧牛。遙聞比丘誦説經聲。即尋音往詣精舍中。禮比丘已却坐一面。聽其經言。時説色本聞之即解。兒大歡喜經句絶已。便問比丘。比丘應答不可兒意。是時小兒反爲解説。其義甚妙。昔所希聞。比丘聞之。歡喜甚悦。怪此小兒。乃有智慧非是凡人。時兒即去。還至牛所。所牧牛犢散走入山。兒尋其迹追逐求索。爾時値虎害此小兒。小兒命終《死没》。魂神即轉。〈5〉一男/男/バラモン/７歳『中本起経』10（大正04　p.159 下）：是時國内。有婆羅門。居富多寶。老無兒子。祷祠盡力。未後生男。其年七歳。得病便亡《死没》。〈6〉一男/男/バラモン/７歳『法句譬喩経』（大正04　p.597 中）：昔有婆羅門。年少出家學道。至年六十不能得道。婆羅門法六十不得道。然後歸家娶婦爲居。生得一男端正可愛。至年七歳書學聰了《就学》。才辯出口有踰人之操。卒得重病一宿命終《死没》。〈7〉一長者子/男/ヴァイシャ（長者子）/７歳『義足経』06（大正04　p.178 下）：佛便入城。城中時有一梵志死。壽年百二十死。復有一長者子。年七歳亦死。兩家倶送喪。皆持五綵幡。諸女弱皆被髮。親屬啼哭悲涙。......〈8〉一長者子/男/ヴァイシャ（長者子）/7.5 歳（７歳・８歳）『雑譬喩経』失訳24（大正04　p.508 中）：昔王舍城中人民多豐饒。九品異居不相雜錯。別有一億里。有一億財者。便入中。時有居士。規欲居中便行治生。苦身節用廣諸方計。數十年中九十萬數未滿一億。得病甚篤自知不濟。有一子年七八歳。囑語其妻曰。吾子小大。付與財物令廣治生。使足滿一億。必居其中。全吾生存之願矣。言竟終亡。喪送事畢。將子入示其寶物。父有遺教。須汝長大具一十萬足滿一億。居億里中。子報母言。何必須大便可付我早共居之。母即付之。於是童子以財物珍寶。供養三尊施與貧乏者。半年之中財物盡了。其母愁惱怪子所作。童子未幾身得重病遂便喪亡。其母既失物子又幼喪。憂愁憶之。......〈9〉一男/男/バラモン/12 歳『大方便仏報恩経』（大正03　p.151 中）：爾時毘舍離國有一婆羅門。執著邪見貪著我慢。舍利弗大目　連往到其家。説法慰喩而不信受。執著邪論。其家大富財寶無量。家無有子。一旦崩亡財賄沒官。思惟是已。奉祠諸山及諸樹神。過九十日其婦便覺有娠。月滿生男。其兒端正人相具足。父母愛念衆人宗敬。至年十二。共諸等侶出外遊觀。道逢醉象馳犇踐踏。即便命終《死没》。〈10〉一梵志女/女/バラモン/14.5 歳（14 歳・15 歳）『法句譬喩経』（大正04　p.576 上）：昔佛在舍衞國祇樹給孤獨園。爲諸弟子説法。時有梵志女。年十四五。端正聰辯。父甚憐愛。卒得重病即便喪亡《死没》。〈11〉（あるバラモンの息子）/男/バラモン/15.5 歳（15 歳・16 歳）JAtaka449MaTTakuNDali-j.（vol.Ⅳ　p.059）：ある婆羅門の子息〔主分〕１人の有力な婆羅門の子が15・16 歳（paJcadasasoLasavassa）で病気に取りつかれて死に天上界に生まれた《死没》。〈12〉（梵志長者の子）/男/バラモン/20 歳『法句譬喩経』（大正04　p.605 下）：有一梵志長者居在路側財富無數。正有一子其年二十。新爲娶婦未滿七日。夫婦相敬言語相順。......有一　樹高大華好。婦欲得華無人與取。夫知婦意欲得　華。即便上樹正取一華。復欲得一展轉上樹乃至細枝。枝折墮地傷中即死《死没》。〈13〉釈尊/男/クシャトリヤ/80 歳（1）『仏本行集経』（大正03　p.671 中）：阿難。我今多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。住世八十歳。爲利益故。（1）釈尊の80 歳入滅資料はたくさんある。また79 歳とするものなどもあるがすべて省略する。「モノグラフ」第1 号に掲載した【論文3】「釈尊の出家・成道・入滅年齢と誕生・出家・成道・入滅の月・日」p.115 以下を参照されたい。〈14〉一婆羅門/男/バラモン/80 歳『法句譬喩経』（大正04　p.586 上）：昔佛在舍衞國。時城中有婆羅門。年向八十財富無數。爲人頑闇慳貪難化。不識道徳不計無常。更作好舍。......老翁於後自授屋椽。椽墮打頭即時命過《死没》。〈15〉波斯匿の母❶　（大夫人）/女/クシャトリヤ/90歳『法句譬喩経』（大正04　p.575 下）：時國王波斯匿大夫人。年過九十卒得重病。諧藥望差遂便喪亡《死没》。〈16〉喬答彌/女/クシャトリヤ/120 歳（1）『根本有部律』「雑事」（大正24　p.248 下）：大世主喬答彌等壽百二十歳。身無老相如。十六歳童女。......是故　芻若他　時不應言長壽。若故言者得越法罪。（1）MahApajApatI GotamI の死亡記事については、「モノグラフ」第10 号に掲載した【論文10】「MahApajApatI GotamI の生涯と比丘尼サンガの形成」p.068 以下を参照されたい。〈17〉菩薩の母/女/バラモン/120 歳JAtaka061AsAtamanta-j.（vol.Ⅰ　p.285）：菩薩は青年の母親の意図をくみ、120歳（vIsaMvassasatika）になる自身の母親を教材にして、女というものが淫らで卑しいものであることを教えて、出家を促した。この日、菩薩の母親は120 歳で亡くなった《死没》。〈18〉アシタ仙/男/バラモン/120 歳（1）『過去現在因果経』（大正03　p.627 中）：〔阿私陀仙人〕今年壽。已百二十不久命終《死没関連》。（1）『異出菩薩本起経』（大正03　p.618 上）では「年百餘歳」とあり、【資料集6】には収めたが本資料集では計算上、除外した。〈19〉一梵志/男/バラモン/120 歳『義足経』06（大正04　p.178 下）：佛便入城。城中時有一梵志死。壽年百二十死《死没》。復有一長者子。年七歳亦死。兩家倶送喪。皆持五綵幡。諸女弱皆被髮。親屬啼哭悲涙。......〈20〉波斯匿の母❷　/女/クシャトリヤ/120歳『出曜経』（大正04　p.621 上）：時國王波斯匿母年過百二十卒得重病。非醫藥所療神祇不能救。不經日夜遂便命終《死没》（1）。（1）上記の外に次のような資料も存する。ただし同列には扱えないので参考として掲げておく。①　一給使/男/不明（給使）/（11 歳+数年）『法句譬喩経』（大正04　p.606 中）：有一給使其年十一常爲王使。忠信奉法不失威儀。謙卑忍辱精進一心學誦經偈。知時先起已　香火。數年之中精進如是不以爲勞。卒得重病遂致無常。②　一女/女/不明/１~14歳『衆経撰雑譬喩』37（大正04　p.540 上）：昔有一人兩婦。大婦無兒。小婦生一男。端正可愛。其婿甚喜。大婦心内嫉之。外　愛念劇於親子。兒年一歳許。家中皆知大婦愛重之無復疑心。大婦以針刺兒　上令沒皮肉。兒得病啼呼不復乳哺。家中大小皆不知所以。七日便死。大婦亦復啼哭。小婦摧念啼哭晝夜不息。不復飮食垂命。後便知爲大婦所傷。便欲報讐。行詣塔寺問諸比丘。大徳。欲求心中所願。當修何功徳。諸比丘答言。欲求所願者。當受持八關齋。所求如意。即從比丘受八戒齋便去。却後七日便死。轉身來生大婦。爲女端正。大婦愛之。年一歳死《死没》。大婦端坐不食。悲咽摧感劇於小婦。如是七返。或二年《死没》或三年《死没》。或四五年《死没》。或六七年《死没》。後轉端正倍勝於前。最後年十四已許人。垂當出門即夜便卒死《死没》。大婦啼哭憂惱。なお本資料は子を殺された母の復讐劇であり、同じ苦しみを味わわせるためにその婦の子として生れては幾度も死んでみせる。本「モノグラフ」10 号（p.261）では「死没」資料として取り上げ、注を付したように、①　１歳、②　２歳、③　３歳、④　４，５歳、⑤　６，７歳、⑥　14歳の合計６回の死没記事を含むが、「死没」資料というよりは、母子が共依存する、子が成人するまでの世代（1 歳~14 歳）を示す資料として解して、ここではカウントから削除し参考に止めた。［2］上記を統計的に分析してみる。［2-1］死没年齢のA 文献・B 文献資料を度数分布表にしてみると以下のようになる。《死没年齢》年齢Ａ．原　始　仏　典Ｂ．後　期　仏　典総計パーリ漢　訳JAtaka,ApadAna本縁部・根本有部律男女男女男女男女1 1 14 1 15.5 　1(1) 17 4 47.5 　1(2) 112 1 114.5 1 115.5 1 120 1 130 1 179 1 180 1 1 2 490 1 1100 1 2 3120 2 1 3 1 2 2 11平　均最頻値_ 120総　計3 2 6 2 1 1 14 4 33（1）死没年齢を５歳６歳とする〈3〉の資料である。下のヒストグラムでは５歳、６歳のグラフにそれぞれ0.5 度数を加算した。（2）死没年齢を７歳８歳とする〈8〉の資料である。下のヒストグラムでは７歳、８歳のグラフにそれぞれ0.5 度数を加算した。［2-2］上記、（1）（2）の注を考慮して、ヒストグラムで修正を加えると次のようになる。死没年齢0246810121 5 10 15 20 25 30 35 40 45 50 55 60 65 70 75 80 85 90 95 100 105 110 115 120年齢［2-3］A 文献（13 件）、B 文献（20 件）の男女を合わせた死没年齢の最頻値は120 歳（度数11〔相対度数33.33〕）である。文献別ではA 文献は120 歳（度数６〔相対度数46.15〕）、B 文献では120 歳（度数５〔相対度数25.00〕）である。またヒストグラムでは男女を分けて示さなかった。平均を出せば、A 文献は83.8 歳、B 文献は47.9 歳、A 文献・B 文献を合わせた平均は68.0 歳である。［3］上記をもとに若干の考察を加える。少数の資料をもとにした統計であるが、ヒストグラムにおいては、死没年齢の山は20 歳以前の幼年期・若年期の死亡と、80 歳以降の老年期の死亡に分かれ、35 歳から75 歳までの中間期の死亡資料は１つもないというきわめて不自然な形となっている。おそらく幼年期・若年期の死亡記事は当時の医学の未発達による、幼・少年期の死亡が多かった事実を反映したものであろう。これに対する死亡年齢の最頻値が示す120 歳は、説話的にモディファイされたものであって、現実を表したものであったとは考えられない。医学の発達した現代にあっても、このようなことはあり得ないからである。またA 文献の平均値の83.8 歳も、B 文献の平均値の68.0 歳も現実的な数字でないことは明らかである。これは多くの120 歳で死亡したという資料を含めて平均値であるからである。したがってこれらが当時の平均寿命を表すとも読めないわけである。まったくの推測であるが、当時の平均寿命は男女ともに40 歳を上回ることはなかったのではなかろうか。しかしながら前項に書いたように、成人期に達して以降の平均余命は、かなり高かったのではないかと想像される。 
        
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    <title>【10】老耄年齢</title>
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    <published>2010-02-09T04:39:40Z</published>
    <updated>2010-05-14T04:58:19Z</updated>

    <summary>　【10】老耄年齢［0］自覚的になしうるものではないから、ライフステージと呼ぶこ...</summary>
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        <name>釈尊伝</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.sakya-muni.jp/">
        　【10】老耄年齢［0］自覚的になしうるものではないから、ライフステージと呼ぶことは不適切であるが、原始仏教聖典に登場する人物の個人史を考えるときには必要な項目であるので、これも調査しておく。［1］年齢を記して老耄したことを記す資料には次のようなものがある。［1-1］原始仏教聖典（Ａ文献）の老熟年齢記事を紹介する。〈1〉後世の人民/男/不明（後世人民）/30 歳『増一阿含』052-009（大正02　p.830 上）：〔波斯匿〕王夢見大樹生華。後世人民多逢驅役。心焦意惱常有愁怖。年滿三十頭髮皓白《老熟》。〈2〉当来世の人/男/不明（当来世の人）/30 歳『五分律』「雑法」（大正22　p.172 下）：〔迦葉〕佛言。此十一夢乃爲當來不爲今也。夢中小樹生華者。於當來世有佛。出於百歳人中。名釋迦牟尼如來應供等正覺。爾時人年三十便已頭白《老熟》。夢見華即成果者。爾時二十歳人便已生兒。〈3〉釈尊/男/クシャトリヤ（仏）/80 歳MN.016MahAparinibbAna-s. （ vol. Ⅱ　pp.100~156）： 阿難よ、我は今、年老い（jiNNa）年長け（vuddha）高齢（mahallaka）にして、晩年（addhagata）である老衰に達し（vayo anuppatta）、我が齢は80 歳（AsItiko vayo）である。......第４禅より起ち、釈尊は直に般涅槃に入られた《老熟/死没》。SN.047-009（vol.Ⅴ　p.153）：阿難よ、我は今、年老い（jiNNa）年長け（vuddha）高齢（ mahallaka ） にして、晩年（ addhagata ） である老衰に達し（ vayoanuppatta）、我が齢は80 歳（AsItiko vayo）である《老熟》。〈4〉ある人（purisa）/男/不明（一般）/80 歳（80 歳90 歳100 歳）MN.012MahAsIhanAda-s.（vol.Ⅰ　p.082）：舎利弗よ、ある沙門ある婆羅門はこのような見解を抱く。「もし人若く、青年にして、漆黒の髪をもち、吉祥の若さを備え、青年期においてあれば（paThamena vayasA）、最上の智慧弁才に達するであろう。しかし、もし人、年老い（jiNNa）年長け（vuddha）高齢（mahallaka）にして、晩年（addhagata）である老衰に達し（vayo anuppatta）、生れてから80歳（asItika）、90 歳（navutika）、もしくは100 歳（vassa-satika）にも到るならば、彼の智慧弁才は衰退する《老熟》」と。しかしそれは認められない。我は今、年老い年長け高齢にして、晩年である老衰に達し、我が齢は80 歳（asItika）である《老熟》。ここに我の四声聞（cattAro sAvakA）は次のごとくあるべし。100 歳を寿命とし（vassasatAyuka）、100 歳を生き（vassasatajIvin）、最上の行動、最上の気力、最上の智慧弁才に達すべし。〈5〉ある女人/女/クシャトリヤ・バラモン・ヴァイシャ/80 歳（80 歳90 歳100 歳）MN.013MahAdukkhakkhandha-s.（vol.Ⅰ　p.088）：比丘達よ、色の患（AdInava）とは何か。たとえばここにかの女（姉妹, 　bhaginI ） の、後に生れて80 歳（asItika）、90 歳（navutika）、もしくは100 歳（vassasatika）に至り、年老い、

垂木のように曲がり（gopAnasivaGkaM）、......皺が寄り、身体に斑点が生じたかの女を見るならば、いかに思うか。かつて微妙端麗なるかの女は失せて、患があらわれたと思うであろう。これが色の患である《老熟》。〈6〉コーラヴヤ（Koravya）/男/クシャトリヤ（王）/80 歳MN.082RaTThapAla-s. （ vol.Ⅱ　p.069 ） ： コーラヴヤ王は尊者ラッタパーラ（RaTThapAla）の問いを肯定して言った、「我は20 歳（vIsativassuddesika）もしくは25 歳（paNNuvIsati-vassuddesika）の時、象にても馬にても車にても弓にても刀にても能く行ない、股力あり、腕力あって、戦場の往来者（saGgAmAvacara）であった《男盛り・働き盛り》」と。......コーラヴヤ王は尊者ラッタパーラ（RaTThapAla）の問いを否定し言った、「我は今、年老い（jiNNa）年長け（vuddha）高齢（mahallaka）にして、晩年（addhagata）である老衰に達し（vayo anuppatta）、我が齢は80 歳（AsItiko vayo）である《老熟》」と。〈7〉人（manussa）/男/不明（一般）/80 歳（80 歳90 歳100 歳）MN.130DevadUta-s.（vol.Ⅲ　p.180）：閻魔王（Yamo rAjan）が言った、「おい、汝、男子（purisa）よ、人中において（manussesu）、女、もしくは男の生れて80 歳（asItika）、90 歳（navutika）、もしくは100 歳（vassasatika）となり、年老い、垂木のように曲がり（gopAnasivaGkaM）、......を見ずや《老熟》」と。〈8〉一長老/男/不明（一般）/80 歳（80 歳90 歳100 歳）AN.002-004-007（vol.Ⅰ　p.068）：マハーカッチャーナ（MahAkaccAna）はカンダラーヤナ（KaNDarAyana ） 婆羅門に言った。「婆羅門よ、かの釈尊は老地（vuddha-bhUmi）と壮地（dahara-bhUmi）とを明らかにされた。婆羅門よ、年長け（vuddha）、生れて80 歳（asItika）、90 歳（navutika）、もしくは100 歳（vassasatika）であっても、諸欲を受用し、欲望の中に住み、欲の熱悩に焼かれ、欲の尋思に食い尽くされ、欲を求めることに熱心であるならば《男盛り・働き盛り》、実に彼は無知な長老と呼称される。婆羅門よ、年若く（dahara）、漆黒の髪をもち、吉祥の若さを備え、青年期であっても（paThamena vayasA）、諸欲を受用せず、欲望の中に住まず、欲の熱悩に焼かれず、欲の尋思に食い尽くされず、欲を求めることに熱心でないならば《老熟》、実に彼は智者の長老と呼称される。」〈9〉釈尊/男/クシャトリヤ（仏）/80 歳『中阿含』213「法荘厳経」（大正01　p.797 中）：復次世尊。我亦國王。世尊亦法王。我亦刹利。世尊亦刹利。我亦拘薩羅。世尊亦拘薩羅。我年八十。世尊亦八十。『増一阿含』026-006（大正02　p.637 上）：今日如來年已衰微年過八十。『増一阿含』041-005（大正02　p.746 中）：吾今年老以向八十。然如來不久當取滅度（1）。（1）参考資料に次のようなものがある。『増一阿含』048-003（大正02　p.789 上）：爾時世尊告迦葉曰。吾今年已衰耗。年向八十餘。〈10〉波斯匿/男/クシャトリヤ（王）/80 歳『中阿含』213「法荘厳経」（大正01　p.797 中）：復次世尊。我亦國王。世尊亦法王。我亦刹利。世尊亦刹利。我亦拘薩羅。世尊亦拘薩羅。我年八十。世尊亦八十。

〈11〉一耆年/男/不明（一般）/80 歳（80 歳90 歳）『雑阿含』547（大正02　p.141 下）：若有耆年。八十九十髮白齒落《老熟》。成就年少法者。此非宿士。雖復年少年二十五。色白髮黒。盛壯美滿。而彼成就耆年法者。爲宿士數。梵志問言。云何名爲八十九十髮白齒落。而復成就年少之法。年二十五膚白髮黒盛壯美色。爲宿士數。〈12〉一士夫/男/バラモン（外道）/80 歳（80 歳90 歳）『雑阿含』975（大正02　p.252 上）：此諸外道論議。説應不應合不合。於聖法律如小兒戲。譬如士夫年八九十。髮白齒落作小兒戲。團治泥土作象作馬種種形類。〈13〉一老人/男/不明（一般）/80 歳『別訳雑阿含』209（大正02　p.451 下）：我佛法中。童男童女。共相聚會。歡娯燕會。隨意舞戲。是名相應。譬如有人。年過八十。頭白面皺。牙齒墮落。然猶歌舞。作木牛馬。作於琵琶箜篌箏笛。亦作小車及　鞠戲。如斯老人。作如是事。名不相應。〈14〉一老人/男/不明（一般）/80 歳（80 歳90 歳）『増一阿含』019-009（大正02　p.595 下）：迦遮延曰。正使婆羅門。年在八十九十《老熟》。彼人不止婬欲作諸惡行。是謂婆羅門雖可言老。今在壯地。婆羅門曰。何者年壯住在老地。迦遮延曰。婆羅門。若有比丘年在二十。或三十四十五十。彼亦不習婬欲。亦不作惡行。是謂婆羅門年壯在老地。〈15〉一女人/女/クシャトリヤ・バラモン・ヴァイシャ/80 歳（80 歳90 歳100 歳）『増一阿含』021-009（大正02　p.605 中）：云何爲色大患。復次若後見彼女人。年八十九十乃至百歳顏色變異。年過少壯牙齒缺落頭髮皓白。身體垢界皮緩面皺脊僂呻吟身如故車。形體戰掉扶杖而行。云何比丘。初見妙色後復變易《老熟》。豈非是大患乎。〈16〉一老翁/男/不明/80 歳（80 歳90 歳）『僧祇律』「雑誦跋渠法」（大正22　p.418 上）：爾時諸比丘度八十九十人出家。頭白背僂脊屈隱現。諸根不禁。或小便時大便漏出。進止須人。不能自起。若於房中温室中。洗脚處經行處。短氣連　洟唾流迸　。汚僧淨地。爲世人所譏。云何沙門釋子度此老翁頭白背僂　嗽振動。起止須人。出家之人宜應康健。坐禪誦經修習諸業。此壞敗人何道之有。復有人言。汝不知耶沙門釋子出家無父。養此老翁當作父想。復有人言。此諸沙門唯二種人不度。一者死人。二者不欲出家。若不度者。衆不増長。諸比丘以是因縁。往白世尊。佛言。喚是比丘來。來已佛具問上事。汝實爾不答言。實爾。佛言。從今日後太老不應與出家。〈17〉ある人（purisa）/男/不明（一般）/90 歳（80 歳90 歳100 歳）MN.012MahAsIhanAda-s.（vol.Ⅰ　p.082）：〈4〉参照〈18〉ある女人/女/クシャトリヤ・バラモン・ヴァイシャ/90 歳（80 歳90 歳100 歳）MN.013MahAdukkhakkhandha-s.（vol.Ⅰ　p.088）：〈5〉参照〈19〉人（manussa）/男/不明（一般）/90 歳（80 歳90 歳100 歳）MN.130DevadUta-s.（vol.Ⅲ　p.180）：〈7〉参照〈20〉一長老/男/不明（一般）/90 歳（80 歳90 歳100 歳）

AN. 002-004-007（vol.Ⅰ　p.068）：〈8〉参照〈21〉一耆年/男/耆年の人/90 歳（80 歳・90 歳）『雑阿含』547（大正02　p.141 下）：〈11〉参照〈22〉一士夫/男/バラモン（外道）/90 歳（80 歳90 歳）『雑阿含』975（大正02　p.252 上）：〈12〉参照〈23〉一老翁/男/不明/90 歳（80 歳90 歳）『僧祇律』「雑誦跋渠法」（大正22　p.418 上）：爾時諸比丘度八十九十人出家。......〈24〉一老人/男/老地の人/90 歳（80 歳90 歳）『増一阿含』019-009（大正02　p.595 下）：〈14〉参照〈25〉一女人/女/クシャトリヤ・バラモン・ヴァイシャ/90 歳（80 歳90 歳100 歳）『増一阿含』021-009（大正02　p.605 中）：年八十九十乃至百歳顏色變異《老熟》。〈26〉ある人（purisa）/男/不明（一般）/100 歳（80 歳90 歳100 歳）MN.012MahAsIhanAda-s.（vol.Ⅰ　p.082）：〈4〉参照〈27〉ある女人/女/クシャトリヤ・バラモン・ヴァイシャ/100 歳（80 歳90 歳100 歳）MN.013MahAduk-khakkhandha-s.（vol.Ⅰ　p.088）：〈5〉参照〈28〉人（manussa）/男/不明（一般）/100 歳（80 歳90 歳100 歳）MN.130DevadUta-s.（vol.Ⅲ　p.180）：〈7〉参照〈29〉一長老/男/不明（一般）/100 歳（80 歳90 歳100 歳）AN.002-004-007（vol.Ⅰ　p.068）：〈8〉参照〈30〉一女人/女/クシャトリヤ・バラモン・ヴァイシャ/100 歳（80 歳90 歳100 歳）『増一阿含』021-009（大正02　p.605 中）：年八十九十乃至百歳顏色變異《老熟》。〈31〉BrahmAyu/男/バラモン/120 歳MN.091BrahmAyu-s.（vol.Ⅱ　p.133）：その時ミティラー（MithilA）にブラフマーユ婆羅門が住んでいた。年老い（jiNNa）年長け（vuddha）高齢（mahallaka）にして、晩年（addhagata）である老衰に達し（vayo anuppatto）、生れて120 歳（vIsaMvassasatiko jAtiyA）であり、字彙と儀軌（nighaNDukeTubha）を含む、語源論（akkharappabheda）を含む古伝説（itihAsa）を第５とするヴェーダに通達し（ tiNNaM vedAnaM pAragU ）、聖句の通暁者（ padaka ） にして文典家（veyyAkaraNa）であり、世間論（lokAyata）及び大人相（mahApurisalakkhaNa）において完全であった。......ブラフマーユ婆羅門は釈尊の三十二相を調べた後、随順説を聞き、......釈尊が去られて間もなく亡くなった《老衰/死亡》。〈32〉Pasenadi 王の祖母（AyyakA）/女/王の祖母/120 歳SN.003-003-002（vol.Ⅰ　p.096）：（パセーナディ王）「我が祖母（AyyakA）は年老い（jiNNa）年長け（vuddha）高齢（mahallikA）にして、晩年（addhagata）である老衰に達し（vayo-anuppatta）《老熟》、生れて120 歳（vIsa-vassa-satikAjAtiyA）にして命終した《死没》。〈33〉２老人/男/バラモン/120 歳AN.003-006-051（vol.Ⅰ　p.155）：時に２人の婆羅門いた。年老い（jiNNa）年長

け（vuddha）高齢（mahallaka）にして、晩年（addhagata）である老衰に達し（vayo-anuppattA）《老熟》、生れて120 歳（vIsaMvassasatikA jAtiyA）であった。......しかし、未だ徳を為さず（akatakalyANa）、善を為さず（akatakusala）、恐怖からの避難所を作らず（akatabhIruttANa）、......。〈34〉一梵志/男/バラモン/120 歳『中阿含』157「黄蘆園経」（大正01　p.679 中）：爾時　蘭若梵志年耆宿老。壽將欲過命埀至盡。年百二十　杖而行。......我今自歸於佛法及比丘衆。唯願世尊受我爲優婆塞從今日始終身自歸乃至命盡。〈35〉那拘羅/男/ヴァイシャ/120 歳『雑阿含』107（大正02　p.033 上）：爾時有那拘羅長者。百二十歳。年耆根熟。羸劣苦病。而欲覲見世尊及先所宗重知識比丘。來詣佛所。〈36〉商主/男/バラモン（外道出家）/120 歳『雑阿含』978（大正02　p.253 上）：爾時那羅聚落有商主外道出家。百二十歳。年耆根熟。爲那羅聚落諸沙門婆羅門長者居士。尊重供養。如阿羅漢。......佛告商主外道出家。汝今可得於正法律。修行梵行。出家受具足。成比丘分。如是出家已。思惟乃至心善解脱。得阿羅漢〈37〉梵摩/男/バラモン/126 歳『中阿含』161「梵摩経」（大正01　p.689 中）（1）：此彌薩羅（MithilA）國所有梵志居士者。梵志梵摩於彼最第一。謂壽命故。梵志梵摩極大長老。壽命具足年百二十六。（1）【資料集1-2】p.166 およびp.253 ではp.161 中としているがp.689 中の誤りである。〈38〉薄倶羅/男/不明/160 歳『根本有部律』「薬事」（大正24　p.082 下）：我年百六十不曾身有病《老熟関連》［1-2］後期原始仏教聖典（Ｂ文献）の老熟年齢記事を紹介する。〈1〉ある比丘/男/不明/60 歳（比喩）JAtaka491MahAmora-j.（vol.Ⅳ　p.342）：〔主分〕「辟支佛は手を挙げて頭に觸つた。すると、家居の標は消え失せて、出家の標が現われた。彼は60 歳（saTThivassa）の長老のように（１）衣を著て、８つの必需品を持って、『御身は私の偉大な救主であつた』と孔雀王に合掌を爲し......」（１）ここでは６０歳といっているが、一方の〈6〉の用例では100 歳の長老のようにといい（378DarImukha-j. vol.Ⅲ　p.238）、こちらは法臘のことを指しているとも考えられる。〈2〉一梵志/男/バラモン/60 歳『六度集経』11（大正03　p.006 中）：〔波耶王〕遁邁入山坐一樹下。有梵志來。其年六十。問王曰。彼仁國王萬福無恙乎。答曰。彼王已喪命矣。梵志聞之頓地哀慟。王問之曰。汝哀何甚重乎。答曰。吾聞彼王仁逮群生潤如帝釋。故馳歸命。而彼凋喪。吾老窮矣《老熟》（1）。（1）参考資料に次のようなものがある。『大荘厳論経』70（71）（大正04　p.339 中）では、「一老婆羅門」とあるのみで、年齢を示さず。また『雑譬喩経』道略集34（大正04　p.530 上）ではただ「婆羅門」、『大智度論』（大正25　p.146 中）では「遠

国婆羅門」、『大唐西域記』（大正51　p.883 上）では「貧婆羅門」。〈3〉一老父/男/ヴァイシャ（？）/60 歳『雑宝蔵経』16（大正04　p.456 中）：當知往昔波羅　國。有不善法。流行於世。父年六十。與著敷屡。使守門戸。爾時有兄弟二人。兄語弟言。汝與父敷屡。使令守門《老熟》。屋中唯一敷屡。小弟便截半與父。而白父言。大兄與父。非我所與。大兄教父使守門。兄語弟言。何不盡與敷屡。截半與之。弟答言。適有一敷屡。不截半與。後更何處得。兄問言。更欲與誰。弟言。豈可得不留與兄耶。兄言。何以與我。弟言。汝當年老。汝子亦當安汝置於門中。兄聞此語驚愕曰。我亦當如是耶。弟言。誰當代兄。便語兄言。如此惡法。宜共除捨。兄弟相將。共至輔相所。以此言論。向輔相説。輔相答言實爾。我等亦共有老。輔相啓王。王可此語。宣令國界。孝養父母。斷先非法。不聽更爾〈4〉釈尊/男/クシャトリヤ（仏）/80 歳『根本有部律』「雑事」（大正24　p.238 中）：復次世尊我是　薩羅王。佛亦住　薩羅。我生刹帝利種。佛亦刹帝利種。我已年事高邁。壽過八十。世尊亦爾壽過八十《老熟》。我是灌頂刹帝利王。世尊亦是無上法王。〈5〉波斯匿/男/クシャトリヤ（王）/80 歳『根本有部律』「雑事」（大正24　p.238 中）：復次世尊我是　薩羅王。佛亦住　薩羅。我生刹帝利種。佛亦刹帝利種。我已年事高邁。壽過八十。世尊亦爾壽過八十《老熟》。我是灌頂刹帝利王。世尊亦是無上法王。〈6〉ダリームカ/男/バラモン（司祭官の子）/100 歳（比喩）JAtaka378DarImukha-j.（vol.Ⅲ　p.238）：〔主分〕ダリームカは面前に一葉の枯葉がひらりと落ちて来るのを見て、諸行無常を悟り、三宝印を覚得し、辟支仏の境地に悟入した。その瞬間、彼の居士の相は滅して、直ちに八要具を具足し、行住坐臥の威相を成じて100 歳（vassasatika）の長老のようになり、神通力によって虚空を飛翔し、雪山中のナンダムーラ岩窟に去った。〈7〉寿命/100 歳（1）JAtaka498Citta-SambhUta-j.（vol.Ⅳ　p.390）：〔主分〕この世に於ける人間の命寿／実に10 の10 年／然もその極限に到らざるに／あたかも切られし蘆のごとく萎むなり。（1）「人寿100 歳」とする資料は【資料集1-2】pp.267~268、【資料集6】pp.266~267 参照。〈8〉寿命/100 歳JAtaka537MahAsutasoma-j.（vol.Ⅴ　p.456）：〔主分〕聖者は聖者と相い結ぶべく／智慧者は智慧者と相い結ばなむ／吾が無病の100 歳を見よ／この第１の恵与を吾は授くべし（1）。（1）対応経に次がある。阿夷/男/道人/100 余歳『異出菩薩本起経』（大正03　p.618 上）：國中有大道人。年百餘歳。大工相人。字爲阿夷。寧可倶行相太子。......太子有三十二相。神光表現。道人即垂泣而悲。......道人曰。昨日天地振動。正爲太子。我傷年老《老熟》。今我當去世《死没関連》。恨不

待此人。恨不聞是人經戒。以故悲泣。〈9〉福増/男/ヴァイシャ/100 歳『菩薩本生鬘論』（大正03　p.343 下）：佛在世時。王舍城中有一長者。名曰福増。年過百歳齒衰力屈《老熟》。家中大小無不生厭。聞説出家心生歡喜。功徳無量譬喩不及。出家之利。高於須彌。深於巨海。廣於虚空。所以然者。由出家故方得成佛。三世諸佛未有不因捨家出家成佛者也。是時長者來詣佛所欲求出家。値佛遊化。即便往至舍利弗所。見其熟老不爲攝受。......時彼長者即出寺外發聲大哭。於是世尊從後而至。種種誨喩令其心悦。即語目連。收其出家與受其戒。『賢愚経』23（大正04　p.376 下）：爾時世尊。在王舍城迦蘭陀竹園。時王舍城。有一長者。名尸利　提（秦言福増）其年百歳。聞出家功徳如是無量。便自思惟。我今何不於佛法中出家修道。即辭妻子奴婢大小。我欲出家。其人老耄《老熟》。家中大小。莫不厭　。輕賎其言。無從用者。聞欲出家。咸各喜言。......《比丘》......《阿羅漢》......。〈10〉寿命/120 歳JAtaka155Gagga-j.（vol.Ⅱ　p.015）：〔主分〕ガッガよ、100 年生き／更に又20 年生きよ／怪鬼我を喰うことなかれ／汝〔ガッガ〕よ、生くること100 年なれ。〈11〉須跋陀羅/男/比丘/120 歳『大方便仏報恩経』（大正03　p.137 上）：瞿曇沙門、徒衆無尊卑、五百弟子各稱第一。......極老須跋陀羅年百二十《老熟/出家》亦入其中。［2］上記を統計的に分析すると次のようになる。［2-1］老耄年齢のA 文献・B 文献資料を度数分布表にしてみると以下のようになる。　《老耄年齢》年齢Ａ．原　始　仏　典Ｂ．後　期　仏　典総計パーリ漢　訳JAtaka,ApadAna本縁部・根本有部律男女男女男女男女30 2 260 1 2 380 5 1 7 1 2 1690 3 1 4 1 9100 3 1 1 3 1 9120 3 1 3 1 １ 1 9126 1 1160 1 1平　均95 97.5 90.3 90 96 120 83.3 94.3

最頻値80 _ 80 _ 100 _ _ 80総　計14 4 18 3 5 1 6 50［2-2］上記の表をヒストグラムで表すと次のようになる。老熟年齢02468101214161830 35 40 45 50 55 60 65 70 75 80 85 90 95 100 105 110 115 120 125 130 135 140 145 150 155 160年齢［2-3］A 文献（39 件）、B 文献（11 件）の男女を合わせた老耄年齢の最頻値は80 歳（度数16〔相対度数32.00〕）である。文献別ではA 文献は80 歳（度数14〔相対度数35.90〕）、B 文献では100 歳（度数３〔相対度数25.00〕）である。またヒストグラムでは男女を分けて示さなかった。平均を出せば、A 文献は89.6 歳、B 文献は91.7 歳、A 文献・B 文献を合わせた平均は94.3 歳である。なお30 歳とするA 文献の〈1〉と〈2〉は、夢の中に現れた後世の人々のありさまであるからこれを除外すると、A 文献の平均は96.1 歳となるり、A 文献・B 文献を合わせた平均は97.0 歳となる。［3］上記資料にもとづいて若干の考察を加える。［3-1］上記資料における「老い」は、「高齢」「晩年」「衰微」「髪白歯落」「背が曲がる」などと表現されるから、今でいえば後期高齢者のイメージであろう。上記の統計的処理による老耄の平均年齢は90 歳を超えるが、これは実年齢というよりも、「80 歳、90 歳、100 歳の老人にもなって」というように譬喩的に使われる用例が多いからであって、現実的に理解すれば、老耄イメージは最頻値の80 歳であったといってよいのではなかろうか。当時は次項で紹介するように幼少期において死亡することが多く、平均寿命はおそらくは30歳代であったであろうが、成人に達してからの平均余命はかなり高く、60 代はかくしゃくとしていたのであろう。そうして70 代に入り、80 歳に近づく頃から老耄年齢というイメージがあったのではなかろうか。A 文献の〈3〉資料は釈尊が80 歳の誕生日（1）を迎えられたときの感慨を表したものであるが、それが一般的なものであったのであろう。（1）入胎から数えたものであって、これが80 歳の誕生日の感慨であったことは、「モノグラフ」

第1 号に掲載した【論文3】「釈尊の出家・成道・入滅年齢と誕生・出家・成道・入滅の月・日」を参照されたい。

        
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    <title>【9】隠棲年齢</title>
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    <summary>　【9】隠棲年齢［0］本項では隠棲年齢を検討する。ここにいう「隠棲」の意味は後に...</summary>
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        <name>釈尊伝</name>
        
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        　【9】隠棲年齢［0］本項では隠棲年齢を検討する。ここにいう「隠棲」の意味は後に述べる。［1］これには次のような資料を見いだすことができる。［1-1］原始仏教聖典（Ａ文献）の隠棲年齢資料である。〈1〉アッサラーヤナ（AssalAyana）/男/青年婆羅門（mANava）/16 歳①　16 歳《隠棲》⇒②　16 歳《学業の修了》MN.093AssalAyana-s.（vol.Ⅱ　p.147）：アッサラーヤナという名の青年婆羅門（mANava）が舎衛城（SAvatthI）に住んでいた。彼は年若く（dahara）剃髪し（vutta-sira）（1）《隠棲》、年齢は生れて16 歳であった（soLasavassuddesikojAtiyA）。字彙と儀軌（nighaNDukeTubha）を含む、語源論（akkharappabheda）を含む古伝説（itihAsa） を第５ とするヴェーダに通達し（ tiNNaM vedAnaMpAragU）、聖句の通暁者（padaka）にして文典家（veyyAkaraNa）であり、順世論（lokAyata）および大人相（mahApurisalakkhaNa）において完全であった《学業の修了》。（1）&apos;vutta-sira（頭を剃った）&apos;を剃髪と訳したが、これはダルマ・シャーストラでいう髭剃式（keSAnta, godAna）をさしているのかも知れない。とすれば、ここでは出胎から数えた年齢である。通常のヴェーダの就学期間からいえば、この儀式は師の家で行うものであるが、彼はまたヴェーダを学習し終えており、終身学生（naiXThika）にあるか、受胎より数えれば17 歳に新しい住期である「遍歴期」に入ったということも考えられる（ caritaM ... ... paribbAjakaM p.148 ） 。片山一良訳『中部』の&apos;paribbAjaka&apos;の脚注には、「出家の規則（pabbajjA-vidhAna）のこと」とし、「かれらは「三ヴェーダを学習し、最後に《バラモンとして》出家する場合、諸マントラによって出家し、出家者はその諸マントラを守り、あるいは行なう。尊者はそのすべてを行ない、学び終えている」（パーリ仏典〈第一期〉4p.381脚注）とし、これによれば「バラモンとしての出家」とする。なおダルマ・スートラの時代、学生期の後の住期の選択は学生に委ねられていた。「モノグラフ」第9 号　p.207 のApastambhaDharmasUtra S.2.21.1̃5、および渡瀬信之『マヌ法典－ヒンドゥー教世界の原型』（中公新書　1990.2）p.042 を参照されたい。〈2〉カーパティカ（KApaThika）/男/青年婆羅門（mANava）/16 歳①　16 歳《隠棲》⇒②　16 歳《学業の修了》MN.095CaGkI-s.（vol.Ⅱ　p.164）：カーパティカという名の青年婆羅門がいた。彼は年若く（ dahara ） 剃髪し（ 1 ） 《隠棲》、年齢は生れて16 歳であった（soLasavassuddesiko jAtiyA）。字彙と儀軌（nighaNDukeTubha）を含む、語源論（akkharappabheda ）を含む古伝説（itihAsa）を第５とするヴェーダに通達し（ tiNNaM vedAnaM pAragU ） 、聖句の通暁者（ padaka ） にして文典家（ veyyAkaraNa ） であり、順世論（ lokAyata ） および大人相（mahApurisalakkhaNa）において完全であった《学業の修了》。（1）上記〈1〉の註を参照されたい。ただし、本文中に&apos;paribbAjaka&apos;への言及なし。［1-2］後期原始仏教聖典（Ｂ文献）の隠棲年齢資料である。

〈1〉一王子/男/クシャトリヤ（王子）/７歳①　７歳《隠棲》⇒②　（父王の死後）《即位》『雑譬喩経』道略集19（大正04　p.526 下）：昔有一國王子年始七歳。便入深山求學仙道《隠棲》。未曾知朝廷百官之任。後國王壽終便無堪任爲國王者。群臣共議。山中仙人本是王子。兼修道徳。以此爲王萬國有頼也。率土臣民皆出詣山。拜此仙以爲國王。乘以王輿迎還本國。宣勅食官妙饌盛味以饗大王。......〈2〉　/男/バラモン/10 歳『菩薩　子経』失訳（No.174　大正03　p.436 中）：子年七歳號字曰　。　至孝仁慈奉行十善。不殺不盜不婬不欺誑。不飮酒不妄言不綺語。不嫉妬不呪詛。信道不疑晝夜精進。奉事父母如人事天。言常含笑不傷人意。行則應法不妄傾邪。父母喜悦無復憂愁。年過十歳。　長跪白父母言。本發大意欲入深山《隠棲》（1）。（1）異訳に『　子経』聖堅訳（No.175　大正03　pp.438 中~443 下）がある。またJAtaka 540SAma-j（vol.Ⅵ　　pp.068~095）では、菩薩が16 歳（soLasavassa）になった時、両親は彼を葉の庵の中に寝かせておいたまま、自分たちで樹の根や果物を採りに出掛けた。その先で２人とも蛇に毒をかけられ、目が不自由になった。菩薩はこの不幸に一度は泣き、一方でこれからは両親を扶養できることを喜んだ。「年齢記事一覧［Ⅰ　］－&quot;JAtaka-aTThakathA&quot;篇－」では、両親を扶養することから、「就業」年齢と解している（本「モノグラフ篇」1 号　p.162）。『　子経』西晋聖堅訳（No.175　大正03　①　p.438 下）：　年過十歳　自長跪白父母言。本發大意欲入深山。（②　p.440 中）：　年過十歳。　自長跪白父母言。本發大意欲入深山志求空寂無上之道。（③　p.442 中）：至年過十歳。　自長跪白父母言。本發大意欲入深山志求空寂無上之道（1）。（1）『　子経』聖堅訳（No.175）には３ヴァージョンを挙げる（本「モノグラフ篇」10号　p.221）。〈3〉菩薩/男/バラモン/16 歳JAtaka144NanguTTha-j.（vol.Ⅰ　p.493）：〔主分〕菩薩は西北婆羅門の家に生まれ、16 歳（soLasavassa）になった時、両親は息子に２つの進路の選択を問うた。家庭に住みたければ、３ヴェーダを学びなさい、梵天界に行きたければ、生まれた時から絶やしていない火をもって森林に入り、大梵天を供養しなさい、と。菩薩は後者を選び、しばらくの間、林間に住んでいた《隠棲》。〈4〉菩薩/男/バラモン/16 歳JAtaka162Santhava-j.（vol.Ⅱ　p.043）：〔主分〕菩薩は婆羅門の家に生まれた。彼が16 歳（soLasavassa）の時に、両親が誕生の時から点じて来た火を携えて森林の中に住居を定め、火の神に仕えた《隠棲》。〈5〉チッタ（Citta）（菩薩）/男/チャンダーラ（アウト・カースト）/16 歳JAtaka498Citta-SambhUta-j. （ vol. Ⅳ　p.390）： 〔主分〕チッタ賢者は１６歳（soLasavassa）になると、家を出てヒマラヤの山に入り出家して仙人となった《隠棲》。〈6〉ハッティパーラ（HatthipAla）（菩薩）/男/バラモン（王の養子）/16 歳①　16 歳《即位関連》⇒②　16 歳《隠棲》

JAtaka509HatthipAla-j.（vol.Ⅳ　p.476）：〔主分〕菩薩は司祭官の子として生まれ、ハッティパーラと名づけられた。16 歳（soLasavassa）の時、子のない王は、予てから友人でもある司祭官に子ができたら王位に即けようと約束していたので、王と司祭官とは、潅頂即位の儀式を行う前に、ハッティパーラが出家してしまう恐れがないか、試してみることにした《即位関連》。ところが、却って出家を促す結果になってしまった《隠棲》（1）。（1）父の司祭はハッティパーラに、「いまは出家すべきときではない」と言って、詩を唱えた。「諸ヴェーダを学んだ後、富みを求めよ。わが子よ、息子たちを〔もうけ〕、家庭を確立し、もろもろの香と味をすべて経験して森〔へ行く〕べし。そういうムニは称賛される」（p.477）。司祭の人生観は学生期⇒家住期⇒林住期の考え方。〈7〉アヨーガラ（Ayoghara）（菩薩）/男/クシャトリヤ（王子）/16 歳①　16 歳《学業の修了》⇒②　16 歳《即位関連/隠棲（1）》JAtaka510Ayoghara-j.（vol.Ⅳ　p.491）：〔主分〕王子（菩薩）は夜叉女の危害を逃れて、16 歳（soLasavassa）になるまで鉄の家で成長した。その間にあらゆる学芸をおぼえて《学業の修了》、勇敢で力ある王子となった。王は王国を息子に与えようとしたが《即位関連》、王子はむしろ出家を願い、王も妃も、多くのものがそれにならって出家した《隠棲》。（1）【資料集1-1】では「出家」の項で取ったが、資料集では「出家」は仏教教団への出家として取っており、ここでは「隠棲」として取り直した。また文脈より「即位関連」の年齢資料としても採用した。〈8〉舎利弗/男/バラモン/16 歳①　16 歳《隠棲》⇒②　16 歳《学業の修了》『根本有部律』「僧伽伐尸沙002」（大正23　p.682 中）：〔優陀夷〕次至尊者舍利子所住之房。告言諸妹。此是貴族婆羅門子。捨俗出家《隠棲》年始十六。帝釋聲明經心悟解。諸外論者並皆摧伏《学業の修了》。〈9〉阿羅邏/男/バラモン/16 歳『過去現在因果経』（大正03　p.638 中）：その時、太子は阿羅邏仙人に何歳の時に出家をし、何年の歳月が経ったかと訊ねた。仙人は「我は年十六にして便ち出家し《隠棲》、梵行を修し来たりて、一百四年なり」と応えた。〈10〉ある子（銀色王の転生）/男/バラモン/20 歳①　20 歳《結婚関連》⇒②　20 歳《隠棲》『銀色女経』（大正03　p.451 中）：託生彼處婆羅門婦。足滿十月生一童子。端正殊妙最上無比。身色具足年二十後。于時父母而語之言。摩那婆。當須造舍《結婚関連》。時彼童子報父母言。爲我造舍爲有何義。我心今者不在於舍。惟願放我入於深山。父母即聽。彼出自舍往詣山林《隠棲》。既往到已見山林中。［2］上記を統計的に分析してみる。［2-1］隠棲年齢のA 文献・B 文献資料を度数分布表にしてみると以下のようになる。《隠棲年齢》

年齢Ａ．原　始　仏　典Ｂ．後　期　仏　典総計パーリ漢　訳JAtaka,ApadAna本縁部・根本有部律男女男女男女男女7 1 110 1 116 2 5 1 820 1 1平　均16 16 13.3 15最頻値16総　計2 5 4 11［2-2］上記の表をヒストグラムで表すと次のようになる。隠棲年齢01234567897 8 9 1 0 1 1 1 2 1 3 1 4 1 5 1 6 1 7 1 8 1 9 2 0年齢［2-3］A 文献（２件）、B 文献（９件）を合わせた隠棲年齢の最頻値は16 歳（度数8〔相対度数72.72〕）である。資料は男性資料しかない。平均を出せば、A 文献は16.0 歳、B 文献は14.8 歳、A 文献・B 文献を合わせた平均は15.0 歳である。［3］上記をもとに若干の考察を加える。［3-1］まずここにいう「隠棲」のあり方がどのように表現されているかを調査してみよう。剃髪：A 文献〈1〉のMN.093（バラモン）、〈2〉のMN.095（バラモン）入深山（求学仙道）：B 文献〈1〉の『雑譬喩経』（クシャトリヤ）、〈2〉の『菩薩　子経』（バラモン）、『　子経』（バラモン）、〈5〉のJAtaka（チャンダーラ）、〈9〉の『過去現在因果経』（バラモン）

入森林：B 文献〈3〉のJAtaka144（バラモン）、〈4〉のJAtaka162（バラモン）、出家：B 文献〈6〉のJAtaka509（バラモン＝王の養子）、〈7〉のJAtaka510（バラモン）、〈8〉の『根本有部律』（バラモン）、〈10〉の『銀色女経』（バラモン）である。このうちの「出家」は沙弥となったとか具足戒を得たという表現ではないから、おそらく仏教への出家ではないであろう。とすればさまざまな表現はなされているが、バラモン教の伝統の中にある仙道を求めて家を出、隠棲的な修行を始めたということを意味するであろう。また原始仏教聖典には、林住期の修行者に相応すると考えられる螺髻梵志（jaTila）なる修行者がしばしば登場するが、「モノグラフ」第７号に掲載した【論文6】「原始仏教聖典におけるバラモン修行者－－jaTila（螺髻梵志）とvAnaprastha（林住者）－－」において検討したように、彼らはいわば「隠居」のような生活をし、家庭と付かず離れずの非僧非俗的な生活形態をとるから、これをさすものでもなさそうである。（1）【資料集4】「古典インド法典類の年齢記事資料」pp.199~200［3-2］この隠棲年齢を16 歳とするものが最頻値であることは、学業の修了年齢と、結婚年齢の最頻値が16 歳であることに密接に関連するであろう。すなわち16 歳で学業を修了すれば、普通はこのときに結婚して家住期に入り、家長としての義務をはたすことを始めるのであるが、結婚を望まず、したがって家住の生活を好ましく思わない特殊ケースとして、この隠棲が選択されるということである。なお仏教において出家したり、沙弥あるいは比丘となったりする資料は、【資料集1-1】【資料集1-2】【資料集6】の［項目記事一覧］の「出家」「沙弥・沙弥尼」あるいは「比丘・比丘尼」の項を参照されたい。また律蔵の規定によれば、比丘・比丘尼として具足戒を受けることができる年齢は20 歳であり、比丘尼には曾嫁女の特例があることは先に記した。また沙弥・沙弥尼については、特段の規定はなく、カラスを追い払えることができれば出家させてよいことになっている。このように仏教においての出家についての標準年齢はこれを基準にして考えればよいということで、統計的処理を省略した。もちろん老齢になってから出家して具足戒を受けるということもありうるわけであるが、これは特殊ケースと見なしうる。
 
        
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    <title>【8】即位年齢</title>
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    <published>2010-02-09T04:38:46Z</published>
    <updated>2010-05-14T05:00:46Z</updated>

    <summary>　【8】即位年齢［0］本項では即位の平均年齢を検討する。資料には王位についたとい...</summary>
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        　【8】即位年齢［0］本項では即位の平均年齢を検討する。資料には王位についたというもののみでなく、王位を簒奪したとか、王位につくことを望んだ、大臣たちが反対して王位につけなかったというようなものも、即位関連年齢資料として含める。［1］資料を紹介する。［1-1］次の２つは原始仏教聖典（Ａ文献）の即位年齢資料である。〈1〉恵燈/男/クシャトリヤ（王子）（仏の過去世）/14.5 歳（14 歳・15 歳）①　８歳9 歳《就学》⇒②　13 歳《学業の修了》⇒③　14 歳15 歳《即位関連》『四分律』「雑揵度」（大正22　p.950 下）：〔過去世〕時利益衆生王命終王子轉大。至年八九歳。其母教學諸伎藝《就学》。書畫算數戲笑歌舞伎樂。象馬騎乘乘車。學射勇健捷疾。於諸技藝皆悉綜練《学業の修了》。至年十四五時。諸群臣。至王子所白言。知不。王已命終。今次應登王位《即位関連》。爲王施行教令。王子答言。我不能爲王行王教令。何以故。我前世時。曾爲國王經六年。以是因縁墮在地獄六萬歳。以是故。今不能爲王行王教令。〈2〉大力（後に清浄）/クシャトリヤ（太子）/30 歳①　８歳《結婚関連》⇒②　28（8+20）歳《結婚関連》⇒③　30 歳《即位関連》『増一阿含』038-006（大正02　p.721 下）：〔鴦掘魔比丘の前世〕今當立字名曰大力。......是時太子年向八歳。......父王復作是念。今此太子極自奇特。即告之曰。吾今與汝取婦何如乎《結婚関連》。太子白王。子今年幼何須娉娶。是時父王權停不與取婦。復經二十歳。王復告曰。吾欲與汝取婦《結婚関連》。太子白王。不須取婦。......爾時王太子轉字名曰清淨。是時清淨大子。年向三十。王復勅群臣曰。吾今年已衰微更無兒息。今唯有清淨太子。今王高位應授與太子《即位関連》。然太子不樂五欲之中。［1-2］次の資料は後期原始仏教聖典（Ｂ文献）の即位年齢である。〈1〉アーダーサムカ・クマーラ（AdAsamukha-kumAra）/男/王子/７歳①　６歳《学業の修了》⇒②　７歳《即位》JAtaka257GAmaNicaNDa-j.（vol.Ⅱ　p.297）：〔主分〕アーダーサムカ・クマーラ（鏡面王子）は７歳（sattavassa）になるまでに、父ジャナサンダ王によって３ヴェーダ（tayo vede）と、この世でなさねばならないあらゆることを修めさせられ（sabbaJ ca loke kattabbaM sikkhApetvA）《学業の修了》、そして７歳の時に（sattavassikakUle）、父王は亡くなったが、大臣たちは、未だ幼少過ぎるとして、王子の即位に難色を示した。王子は大臣たちの試みに合格し、王位に即いた《即位》。〈2〉アリーナチッタ（AlInacitta）（菩薩）/男/クシャトリヤ/7 歳JAtaka156AlInacitta-j.（vol.Ⅱ　p.022）：〔主分〕菩薩は７歳（sattavassika）の時、即位式を行い《即位》（abhisekaM patvA）、アリーナチッタ王という名前で正しく国を治め、命終わると天上界へ昇って行った。

〈3〉須闍提/男/クシャトリヤ（太子）/７歳『大方便仏報恩経』（大正03　pp.128 中~130 上）：須闍提太子者。身黄金色七處平滿。人相具足。年始七歳。......（p.130 上）父母歡喜共載大象還歸本國。以須闍提福徳力故伐得本國。即立須闍提太子爲王。〈4〉瓶沙/男/クシャトリヤ（王）/８歳『出曜経』（大正04　p.659 中）：瓶沙王長年八歳係嗣王後以法治化。〈5〉菩薩/男/クシャトリヤ（王の甥）/16 歳①　16 歳《結婚/即位》JAtaka126AsilakkhaNa-j.（vol.Ⅰ　p.455）：〔主分〕バーラーナシーの王には唯１人の王女と甥（菩薩）とがあった。王は２人を傍で養育し、彼等は成長するに及んで（vayappatta）、互に慕い合う仲となった。王は血族の繁栄のこと等あれこれ考えて、２人を別々な所に住まわせた。彼らは今や16 歳（soLasavassa）となり、激しく慕いあい、甥は画策して王女を手にいれたが、王も初めはそのつもりであったから、この結婚を許し《結婚》、甥には王位を与えた《即位》。〈6〉（バーラーナシー王の孫）/男/クシャトリヤ（王子）/16 歳JAtaka338Thusa-j.（vol.Ⅲ　p.122）：〔主分〕菩薩はタッカシラーで四方に名高い師匠として多くの王子や婆羅門の子等とに学芸を授けていた。バーラーナシー王の王子も年16 歳（soLasavassa）の頃、菩薩のもとに行って３ヴェーダとあらゆる学芸とを修め、学成りて後、国に帰り、副王の位に即き（uparajje patiTThAya）、父の死後は王位に即いた（pitu accayena rajje patiTThAsi）。その子が16 歳（soLasavassa）になる時、父の堂々たる姿を見て、王位を奪いたいと従者に告げた《即位関連》。〈7〉ある王子/男/クシャトリヤ（王子）/16 歳JAtaka373MUsika-j.（vol.Ⅲ　p.215）：〔主分〕バーラーナシー王の子・ヤヴァ王子（YavakumAra）がすべての学芸を修得し、帰国して副王となり、父の死後は王位についた。王に息子が生れ、息子が16 歳（soLasavassa）の時、「父はまだ若く、〔火葬の〕煙となるまで待っていたら老人になってしまう」と言って、父を殺して王位を奪う意志を側近に告げた《即位関連》。〈8〉バラタ（Bharata）/男/クシャトリヤ（王子）/16 歳（7 歳+9 年目）JAtaka461Dasaratha-j.（vol.Ⅳ　p.124）：〔主分〕バラタ王子（BharatakumAra）が7 歳になった時に、その母妃は王のもとに行って、我が子に王位を譲るように頼み込んだ。ダサラタ（Dasaratha）大王は先妻の妃の子を差し置いての懇願に激怒したが、その後も幾度となくバラタ王子に王位を譲るよう求めた。王は先妻の子の王子等を身の安全のため他所へ移し、心配の余り９年目（バラタ王子16 歳）の時に亡くなった。妃は大臣等にバラタ童子に天蓋を授けるよう迫った《即位関連》が、大臣等は王位に即くことを認めなかった。〈9〉ハッティパーラ（HatthipAla）（菩薩）/男/バラモン（王の養子）/16 歳①　16 歳《即位関連》⇒②　16 歳《隠棲》JAtaka509HatthipAla-j.（vol.Ⅳ　p.476）：〔主分〕菩薩は司祭官の子として生ま

れ、ハッティパーラと名づけられた。16 歳（soLasavassa）の時、子のない王は、予てから友人でもある司祭官に子ができたら王位に即けようと約束していたので、王と司祭官とは、潅頂即位の儀式を行う前に、ハッティパーラが出家してしまう恐れがないか、試してみることにした《即位関連》。ところが、却って出家を促す結果になってしまった《隠棲》（1）。（1）父の司祭はハッティパーラに、「いまは出家すべきときではない」と言って、詩を唱えた。「諸ヴェーダを学んだ後、富みを求めよ。わが子よ、息子たちを〔もうけ〕、家庭を確立し、もろもろの香と味をすべて経験して森〔へ行く〕べし。そういうムニは称賛される」（p.477）。司祭の人生観は学生期⇒家住期⇒林住期の考え方。〈10〉アヨーガラ（Ayoghara）（菩薩）/男/クシャトリヤ（王子）/16 歳①　16 歳《学業の修了》⇒②　16 歳《即位関連/隠棲（1）》JAtaka510Ayoghara-j.（vol.Ⅳ　p.491）：〔主分〕王子（菩薩）は夜叉女の危害を逃れて、16 歳（soLasavassa）になるまで鐵の家で成長した。その間にあらゆる学芸をおぼえて《学業の修了》、勇敢で力ある王子となった。王は王国を息子に与えようとしたが《即位関連》、王子はむしろ出家を願い、王も妃も、多くのものがそれにならって出家した《隠棲》。（1）【資料集1-1】では「出家」の項で取ったが、資料集では「出家」は仏教教団への出家として取っており、ここでは「隠棲」として取り直した。また文脈より「即位関連」の年齢資料としても採用した。〈11〉クサ（菩薩）/男/クシャトリヤ（王子）/16 歳①　15 歳《学業の修了》⇒②　16 歳《即位/結婚》JAtaka531Kusa-j.（vol.Ⅴ　p.278）：〔主分〕クサ王子（菩薩）とその弟ジャヤンパティは素晴らしい栄誉をもって（mahant）成長した（vaDDhati）。菩薩は智慧があるので、師匠のもとて何も習うことなく、自身の智慧によりあらゆる学芸に通暁した（sabbasippesu nipphattiM pApuNi）《学業の修了》。クサ王子が16 歳（soLasavassa）の時、王は王子に王位を譲りたいと思った。王子は、自身が醜男であることから、両親の存命中はこれに従い、後は出家しようと考えた。王は臣下を遣わして息子にふさわしい姫君をさがさせ、パバーヴァティー（PabhAvatI）王女を見出し、王子を王位につかせ、彼女を第１王妃にさせた《即位/結婚》。（1）16 歳の時、即位を話題とするから、学業の修了年齢を前年の15 歳としてとった。〈12〉ヴェッサンタラ（Vessantara）（菩薩）/男/クシャトリヤ（王子）/16 歳①　16 歳《学業の修了》⇒②　16 歳《結婚/即位》（1）JAtaka547Vessantara-j.（vol.Ⅵ　p.486）：〔主分〕菩薩が16 歳（soLasavassa）の時、すでにあらゆる学芸を完成させていた（Bo.soLasavassakAle yevasabbasippe nipphattiM pApuNi）《学業の修了》。そこで父王はマッダ国の王家から菩薩の叔父の娘マッディーを迎えて第１妃とし、菩薩を潅頂即位させた《結婚/即位》。（1）【資料集1-1】では、16 歳を《学業の修了》年齢の１項目としてとっていたが、《結婚/即位》についても１年のタイムラグがないものとして補った。〈13〉月女の夫/男/クシャトリヤ/16 歳

①　16 歳《結婚》⇒②　16 歳《即位》（夫婦）『旧雑譬喩経』07（大正04　p.512 上）：昔有國王夫人生一女。父母名爲月女。端正無比。王與衣被珍寶。輒言自然也。至年十六。王恚言。此是我與。汝何言自然。後有乞兒來丐。王言。此實汝夫。月女言諾。......行到大國。國王時崩無太子。夫婦於城外坐。......時大臣使梵志八人於都城門行人出入以次相之。唯有此夫婦應相耳。是時擧國群臣共奉迎之爲王《即位》。王夫婦以正法治國人民安寧。（1）即位したのは月女ではなくその夫であると解釈した。〈14〉瑠璃/男/クシャトリヤ/20 歳『法句譬喩経』（大正04　p.590 下）：昔佛在舍衞國精舍之中。爲諸天人説法。時國王第二兒名曰瑠璃。其年二十將從官屬退其父王。伐兄太子自禪爲王。〈15〉釈尊/男/クシャトリヤ/29 歳『過去現在因果経』（大正03　p.627 中）：具有如此相好之身。若在家者。年二十九。爲轉輪聖王《即位関連》。若出家者。成一切種智。〈16〉釈尊/男/クシャトリヤ/32 歳『衆許摩訶帝経』（大正03　p.940 中）：若不出家年三十二作金輪王（1）。（1）上記の外に次のような資料も存する。ただし同列には扱えないので参考として掲げておく。（童子）/男/不明（　呪）/10 余歳『生経』11（大正03　p.077 上）：即生外道爲　呪子。年十餘歳。與其同輩。戲于路側。時有梵志過見戲童。人數猥多。遍觀察之。見　呪子。特有貴相。應爲王者。顏貌殊異。於人中上。梵志命曰。爾有王相。......後日未幾。王薨絶嗣。娉求賢士。以爲國胄。群臣議曰。國之無主。如人之無首。宜速發遣使者。勤求有徳。以時立之。使者四布。遙見斯童有異人之姿。輙尋遣人。還啓群臣。唯嚴王制。威儀法駕。幸來奉迎。群臣百寮。莫不踊躍。如使者所白。嚴駕奉迎。香湯洗沐。五時朝服。寶冠劒帶。如先王之法。前後導衞。不違國典。即位處殿。南面稱制。境土安寧。民庶踊悦。於時梵志。仰瞻天文。下察地理。知已嗣立。［2］上記資料を統計的に分析してみる。［2-1］即位年齢のA 文献・B 文献資料を度数分布表にしてみると以下のようになる。《即位年齢》年齢Ａ．原　始　仏　典Ｂ．後　期　仏　典総計パーリ漢　訳JAtaka,ApadAna本縁部・根本有部律男女男女男女男女7 2 1 38 1 114.5 　1(1) 116 8 1 1 10

20 1 129 1 130 1 132 1 1平　均22.3 14.2 18.7 16.0 16.6最頻値16総　計2 10 6 1 19（1）結婚年齢を14 歳15 歳とする〈1〉の資料である。下のヒストグラムでは15 歳、16 歳の男性グラフにそれぞれ0.5 度数を加算した。［2-2］上記の（1）の注を考慮して、ヒストグラムで修正を加えると次のようになる。即位年齢024681 01 27 8 1 0 1 2 1 4 1 6 1 8 2 0 2 2 2 4 2 6 2 8 3 0 3 2年齢［2-3］A 文献（２件）、B 文献（17 件）を合わせた即位年齢の最頻値は16 歳（度数10〔相対度数52.63〕）である。平均を出せば、A 文献は22.3 歳、B 文献は15.9 歳、A 文献・B 文献を合わせた平均は16.6 歳である。［3］若干の考察を加える。［3-1］上記のヒストグラムを見れば分かるように、即位関連の年齢資料数は少ないが7、8 歳の山と16 歳を中心とする山の2 つに分かれる。B 文献の〈1〉がいうように、7 歳8 歳ではあまりに幼すぎることはいうまでもない。説話的にはそれでも正しく国を治めたということになるが、現実的に摂政や大臣などが代りに政務を行ったのであろう。しかしながら7、8 歳という幼少の年齢の時に王位についたということは大いにありうるであろう。日本の歴史においても、こうしたケースは少なくないからである。

　とはいいながら実際的な意味で王位について王権をふるったり、王位につくことを望むようになるのは16 歳ということになる。現代的にはこれでもまだ若すぎるという感じがしないではないが、古代インドにおいては16 歳頃にそうした野望が生じるという社会通念があったのであろう。「モノグラフ」第11 号に掲載した【論文11】「提婆達多（Devadatta）の研究」においては、マガダ国の王子であった阿闍世が提婆達多に唆されて王位を奪おうとした年齢を16 歳から20 歳くらいの間としておいたが（1）、妥当な線であったということができるであろう。（1）p.097 参照［3-2］法典類に王子の当為としての即位年齢は記されていない。もし当為としての王の引退時期（退位時期）が記されていれば、それと関連して考えることができるかも知れないが、それもない。しかし『マヌ法典』には「王の生き方」の項目下において（男は）30 歳になったときに好ましい12 歳の娘を、あるいは24 歳の時に8 歳の娘を娶るべし。（結婚を遅らせることによって、創造主によって定められた）生き方（ダルマ）が衰退するときには直ちに（娶るべし）（1）。とされており、必ずしも早い年齢での結婚は勧められていない。結婚よりも即位が早い方がよいとは考えられないであろうから、そう考えると原始仏教聖典がいう7、8 歳はもとより16 歳でも早すぎるようである。もし老齢になった王は退位して王子に位を譲るという習慣があれば別であるが、通常は思い掛けない父王の崩御によって王子が即位するとか、大臣などに唆されて王位を奪うとか、その他のさまざまな外的状況によって王位につく場合が多かったものと考えられるから、標準的ないしは平均的な即位年齢を算出することは意味がないかも知れない。しかしながら先に紹介したようなマガダ国の政変のようなものを考えるにあたっては、16歳という即位関連年齢は意味を有してくるであろう。（1）渡瀬信之訳『マヌ法典』（中公文庫　1991.12）p.304
 
        
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    <title>【7】立太子（副王位）年齢</title>
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    <published>2010-02-09T04:38:13Z</published>
    <updated>2010-05-14T05:02:21Z</updated>

    <summary>　【7】立太子（副王位）年齢［0］立太子（副王位）年齢について調査する。中村元博...</summary>
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        <name>釈尊伝</name>
        
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        　【7】立太子（副王位）年齢［0］立太子（副王位）年齢について調査する。中村元博士は、『原始仏教の成立』（中村元選集〔決定版〕第14 巻　春秋社　1992 年11 月）の「〔付編〕原始仏教聖典成立史研究の基準について」（p.655）において、「副王（uparAja）という呼称は、『パーニニ文典』のガナパータ（gaNapATha）に言及されるけれども、インドの一般文献にはたえて現われない呼称である。これは現存資料によって見るかぎり、マウリヤ王朝特有の職名であった。ところで『ジャータカ』の散文のうちにはたびたび現われるから、『ジャータカ』の散文がマウリヤ王朝時代あるいはそれ以後のものであることは明らかである」とされている。確かにA 文献にはこれに相当する資料はなくB 文献のみである。しかもB 文献にしてもはっきりとした年齢を記す資料はわずかに2 例のみである。［1］後期原始仏教聖典（Ｂ文献）に現れる2 件の立太子（副王）年齢記事は以下のものである（1）。（1）遊学年齢資料の〈1〉のJAtaka 050 Dummedha-j.のブラフマダッタ・クマーラは、①　16歳《遊学》⇒②　《学業の修了》⇒③　《副王》のライフステージを経、16歳に修学期間を加味した年齢であろうが、本項の資料としてカウントしていない。〈1〉（太子）/男/クシャトリヤ（太子）/15 歳『法句譬喩経』（大正04　p.606 中）：昔有國王治行正法民慕其化無有太子以爲愁憂。佛來入國便出覲尊。聽經歡欣即受五戒。一心奉敬唯願有子。晝夜精進三時不懈。有一給使其年十一常爲王使。忠信奉法不失威儀。謙卑忍辱精進一心學誦經偈。知時先起已　香火。數年之中精進如是不以爲勞。卒得重病遂致無常。其神來還爲王作子。乳餔長大至年十五立爲太子。父王命終襲代爲王。〈2〉王子（弟）/男/クシャトリヤ（王子）/16 歳JAtaka416Parantapa-j.（vol.Ⅲ　p.414）：〔主分〕菩薩はブラフマダッタ王の妃の胎に宿った。成長して、タッカシラーであらゆる学問を修め、動物の鳴き声を聞き分ける呪文を学んだ。バーラーナシーに戻ると父王は菩薩を副王位につかせた。しかし王は菩薩を殺させようと望んでいたので、会うことをしなかった。ある時、敵の王に町を包囲されたとき、副王は町を空っぽにし軍隊を連れて去ってしまった。王は王妃と司祭とパランタパという召使いを連れて、夜中に変装して逃れ、森に入った。副王は王が逃げたと知って、町に入って戦い、敵を破って王位についた。折しも森に入った王妃は妊った。ところが召使いのパランタパと不義を行なったので、王に知られることを恐れて、パランタパに王を殺させた。その後、少年は成長して16 歳（soLasavassa）になった時、バラモンから現在の王は彼の父を殺して王になったかつての使用人であることを教えられた。王子は復讐を決意し、父の敵を討つと司祭等とともに兄（菩薩）のいるバーラーナシーに着いた。王子は兄の王によって副王の位を授けられた。［2］今までの例にしたがって、立太子（副王位）年齢のA 文献・B 文献資料を度数分布

表にしてみると以下のようになる。ただし資料数が2 例しかないのであまり意味はない。《立太子（副王位）年齢》年齢Ａ．原　始　仏　典Ｂ．後　期　仏　典総計パーリ漢　訳JAtaka,ApadAna本縁部・根本有部律男女男女男女男女15 1 116 1 1平　均16 15 15.5最頻値総　計1 1 2ただしJAtaka519（vol.5　p.088）では、ソッティソーナ王子は成年に達したときに副王の位に就いたとされており、ジャータカが成人に達したというのは16 歳を示すことが多いから、これも資料に加えてもよいであろう。そうすると平均値は15.7 歳ということになる。なお標本が小さすぎるので、ヒストグラムにはしなかった。［3］中村元博士が言われるとおりにこれがマウリヤ王朝特有の職名であったかどうかはともかくとして、これを学業の修了や就業に読み替えることもできるであろう。あるいははじめから就業の中で処理すべきであったかも知れない。
 
        
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    <title>【6】結婚年齢</title>
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    <published>2010-02-09T04:37:42Z</published>
    <updated>2010-05-14T05:03:08Z</updated>

    <summary>　【6】結婚年齢［0］この項では結婚年齢について調査する。以下の資料の中には、例...</summary>
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        <name>釈尊伝</name>
        
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        　【6】結婚年齢［0］この項では結婚年齢について調査する。以下の資料の中には、例えば親が息子ないしは娘を結婚させようとした、などという結婚適齢期に達したことを示す記述も含める。［1］原始仏教聖典を調査した結果の結婚年齢資料には以下のようなものがある。［1-1］原始仏教聖典（Ａ文献）の結婚年齢を紹介する。〈1〉大力（後に清浄）/男/クシャトリヤ（太子）/８歳（1）①　８歳《結婚関連》⇒②　28 歳《結婚関連》⇒③　30 歳《即位関連》『増一阿含』038-006（大正02　p.721 下）：〔鴦掘魔比丘の前世〕今當立字名曰大力。......是時太子年向八歳。......父王復作是念。今此太子極自奇特。即告之曰。吾今與汝取婦何如乎《結婚関連》。太子白王。子今年幼何須娉娶。是時父王權停不與取婦。復經二十歳。王復告曰。吾欲與汝取婦《結婚関連》。太子白王。不須取婦。......爾時王太子轉字名曰清淨。是時清淨大子。年向三十。王復勅群臣曰。吾今年已衰微更無兒息。今唯有清淨太子。今王高位應授與太子《即位関連》。然太子不樂五欲之中。（1）結婚年齢資料として、８歳および28 歳の各年齢で採用した。ここには早婚・晩婚それぞれの結婚年齢幅が見て取れる資料として、８歳および28 歳をそれぞれ１度数としてカウントした。【資料集1-2】（p.151）では20 歳としてとったが、「経二十歳」とあることより28（8+20）歳と訂正しなければならない。〈2〉ある既婚者/女/不明/8.5 歳（８歳・９歳）①　８歳９歳《結婚》⇒②　《比丘尼》『僧祇律』「（比丘尼）波夜提100」（大正22　p.535 下）：爾時比丘尼與曾嫁八歳九歳女受具足。太小軟弱不堪苦事《結婚関連/比丘尼》。〈3〉ある既婚者/女/不明/10 歳①　10 歳《結婚》⇒②　《比丘尼》『四分律』「（比丘尼）単提125」（大正22　p.759 上）：自今已去聽度十歳曾嫁女人《結婚関連》與二歳學戒年滿十二與授具足戒。〈4〉ある既婚者/女/不明/11 歳（12 歳未満）①　11 歳《結婚》⇒②　《比丘尼》Vinaya（bhikkhunI）PAcittiya 065（vol.Ⅳ　p.322）：その時、比丘尼らは12 歳に満たない（UnadvAdasavassa）嫁に行った女（gihigatA）を受具させた《結婚関連/比丘尼》。〈5〉ある既婚者/女/不明/11 歳（12 歳未満）（1）①　11 歳《結婚》⇒②　《比丘尼》『十誦律』「波夜提108」（大正23　p.325 下）：畜不滿十二歳已嫁女作衆（2）。（1）パーリと漢訳資料の区別からVinaya（bhikkhunI）PAcittiya 065 に取りまとめなかった。（2）参考資料に次のようなものがある。『根本有部律』「（比丘尼）波逸底迦108」（大正23　p.1004 中）：釈種の女。曾家女にして年満十二。

〈6〉妙光/女/バラモン/12 歳『十誦律』「雑法」（大正23　p.287 下）：有一婆羅門生女。面貌端正顔色清淨。顔色清淨故。名曰妙光。此女生時。相師占曰。是女後當與五百男子共通。諮人聞已。女年十二無有求者（1）。......是估客於樓上遥見是女。......即往求娶女《結婚》。......此女後得病。於夜命終。（1）「不滿十二歳已嫁女」の資料に見られる幼児婚資料に呼応したものであろう。〈7〉後世の女人/女/不明/14 歳（年未滿十五）『増一阿含』052-009（大正02　p.830 上）：〔波斯匿〕王夢見小樹生果。後世女人年未滿十五便行求嫁。抱兒來歸不知慚愧。（1）（1）結婚年齢を15 以上であるべきという価値観か。〈8〉一女人/女/クシャトリヤ・バラモン・ヴァイシャ/14歳（14歳・15歳・16歳）（1）『増一阿含』021-009（大正02　p.605中）：云何色味。設有見刹利女種婆羅門女種長者女種。年十四十五十六。不長不短不肥不痩不白不黒。端政無雙世之希有。彼最初見彼顏色。起喜樂想。是謂色味。（1）不特定多数の再生族（クシャトリヤ・バラモン・ヴァイシャ）の女性たちの結婚適齢期の資料として、「年十四十五十六」とあるのを平均や中央値でなく、それぞれの年齢でしばしばありうることとして、それぞれの年齢において１件としてカウントした。〈9〉一女人/女/クシャトリヤ・バラモン・ヴァイシャ/15 歳（14 歳・15 歳・16 歳）『増一阿含』021-009（大正02　p.605 中）：同上〈10〉ある女人/女/クシャトリヤ・バラモン・ヴァイシャ/15 歳（15 歳・16 歳）（1）MN.013MahAdukkhakkhandha-s.（vol.Ⅰ　p.088）：色の味（assAda）とは何か。たとえばここにクシャトリヤの娘（kaJJA）、婆羅門の娘、居士の娘があり、年齢は15 歳（pannarasa-vassuddesikA）、もしくは16 歳（soLasavassuddesikA）であり、長過ぎず短過ぎず、痩せ過ぎず太り過ぎず、黒過ぎず白過ぎないとするならば、彼女はその時において最も微妙端麗（subhA vaNNanibhA）であろう。微妙端麗に縁り生じる楽（sukha）と喜（somanassa）は色の味である《結婚関連》。（1）不特定多数の再生族（クシャトリヤ・バラモン・ヴァイシャ）の女性たちの結婚適齢期の資料として、「15 歳もしくは16 歳」とあるのを平均や中央値でなく、それぞれの年齢でしばしばありうることとして、それぞれの年齢において１件としてカウントした。〈11〉一女人/女/クシャトリヤ・バラモン・ヴァイシャ/16 歳（14 歳・15 歳・16 歳）『増一阿含』021-009（大正02　p.605 中）：〈8〉を参照。〈12〉ある女人/女/クシャトリヤ・バラモン・ヴァイシャ/16 歳（15 歳・16 歳）MN.013MahAdukkhakkhandha-s.（vol.Ⅰ　p.088）：〈10〉を参照。〈13〉定光（菩薩）/男/クシャトリヤ（王子）/15.5 歳（15 歳・16 歳）①　８歳９歳《就学》⇒②　14 歳《学業の修了》⇒③　15 歳16 歳《結婚》『四分律』「受戒　度」（大正22　p.782 下）：〔過去世〕定光菩薩。年向八歳九歳時王教菩薩學種種技術《就学》。書算數印畫戲笑歌舞鼓弦乘象乘馬乘車射御　力。一切技術無不貫練《学業の修了》。賈人當知。定光轉年。至十五十六時。王即爲設三時殿。冬夏春給二萬　女。使娯樂之《結婚》。

〈14〉イシダーシー（IsidAsI）の過去世/女/車夫の家（sAkaTika-kula）/16 歳TherIgAthA（p.167）v.455：〔過去世〕（IsidAsI　イシダーシー）また16 歳の時、ギリダーサと呼ぶ彼の息子はわたしが娘として成年に達したのをみて、［わたしを］ 娶った《結婚》。atha soLasame vasse disvAna maM pattayobbanaM,kaJJaM oruddha tassa putto GiridAso nAma nAmena.〈15〉ある摩訶羅比丘の娘/女/バラモン/16 歳（1）『僧祇律』「僧残005」（大正22　p.275 中）：妻と娘を捨て官役を避け出家した摩訶羅比丘が同じく妻と息子を捨てた摩訶羅比丘と示し合わせて二人の子を娶せることを思い立つ。（1）娘の年齢表現はないが、前生譚、「氷豆十六年」より類推した。〈16〉当来世の人/女/不明/20 歳『五分律』「雑法」（大正22　p.172 下）：夢見華即成果者。爾時二十歳人便已生兒。（1）（1）結婚年齢を20 歳以上であるべきという価値観か。〈17〉大力（後に清浄）/男/クシャトリヤ（太子）/2 ８歳（1）①　８歳《結婚関連》⇒②　28（8+20）歳《結婚関連》⇒③　30 歳《即位関連》『増一阿含』038-006（大正02　p.721 下）：〔鴦掘魔比丘の前世〕今當立字名曰大力。......是時太子年向八歳。......父王復作是念。今此太子極自奇特。即告之曰。吾今與汝取婦何如乎《結婚関連》。太子白王。子今年幼何須娉娶。是時父王權停不與取婦。復經二十歳。王復告曰。吾欲與汝取婦《結婚関連》。太子白王。不須取婦。......爾時王太子轉字名曰清淨。是時清淨大子。年向三十。王復勅群臣曰。吾今年已衰微更無兒息。今唯有清淨太子。今王高位應授與太子《即位関連》。然太子不樂五欲之中。（1）［1-1］の〈1〉の注（1）参照。〈18〉一梵志/男/バラモン/120 歳①　120 歳《結婚関連》⇒②　120 歳《死没》『長阿含』007「弊宿経」（大正01　p.046 中）：〔譬喩〕昔者此斯波醯村有一梵志。耆舊長宿年百二十。彼有二妻。一先有子。一始有娠《結婚関連》。時彼梵志未久命終《死没》。［1-2］後期原始仏教聖典（Ｂ文献）の結婚年齢資料を紹介する。〈1〉梵摩王子/男/クシャトリヤ（王子）/７歳『撰集百縁経』78（大正04　p.241 下）：爾時波斯匿王。及梵摩達王。常共忿諍。各將兵衆。象兵馬兵車兵歩兵。住河兩岸。各立標相。夫人月滿。各生男女。端政殊妙。王大歡喜。撃鼓唱令。集諸兵衆。賞賜財物。等同歡慶。求相和解。共爲姻婚。令我二國從今以去更莫相犯。乃至子孫。作是要已。各還本國。時梵摩王子。年始七歳。齎持珍寶種種雜物。送與波斯匿王。求欲納娶。〈2〉鹿女/女/バラモン（但し、養父の階級）/14 歳（漸漸長大至年十四/今得成人）『大方便仏報恩経』（大正03　p.139 上）：爾時雌鹿尋便懷妊月滿産生。......見仙人往便捨而去爾時仙人見此女兒。形相端正人相具足。見是事已心生憐愍。即以草

衣裹拭將還。採衆妙果隨時將養。漸漸長大至年十四。其父愛念。......爾時大王報仙人言。聞君有女欲求婚姻......我小長養。今得成人。爲王所念而反孤棄。即入窟中誦持呪術而呪其女。王若遇汝薄者皎然不論。若王以禮待接汝者。當令退沒不果所願爾時波羅奈王到宮殿已拜爲第一。名曰鹿母夫人。諸小國王百官群臣皆來朝賀（1）。（1）参考資料に次のようなものがある。『六度集経』23（大正03　p.014 中）：鹿　小便即感之生。時滿生女。梵志育焉。年有十餘。......王命賢臣娉迎禮備。〈3〉摩訶迦葉/男/バラモン/15 歳『雑譬喩経』道略集09（大正04　p.524 中）：至年十五欲爲娶婦。迦葉聞之甚大愁憂。語父母言。我志樂清淨不須婦也。迦葉辭至三。......二人相對志各凝潔。雖爲夫婦了無恩情。其婦遂與迦葉結誓我與君等。各處異房要不相觸。〈4〉一童女/女/バイシャ（長者子）/15 歳『大乗本生心地観経』（大正03　p.310 中）：譬如長者有一童女。年始十五。端正殊妙。爾時父母處三層樓。將其愛女受諸歡樂。於夜分中母女同宿。在一寶床而共安寢。於是童女夢見。父母娉與夫家經歴多年。遂生一子端正殊妙。〈5〉　女/女/不明/15 歳（15 歳以上）『仏本行経』（大正04　p.062 中）：王然此義即召美女十五以上容色妙者六十四種姿媚具備尋致諸女充太子宮久學調靜。〈6〉菩薩/男/クシャトリヤ（王の甥）/16 歳①　16 歳《結婚/即位》JAtaka126AsilakkhaNa-j.（vol.Ⅰ　p.455）：〔主分〕バーラーナシーの王には唯１人の王女と甥（菩薩）とがあった。王は２人を傍で養育し、彼等は成長するに及んで（vayappatta）、互に慕い合う仲となった。王は血族の繁栄のこと等あれこれ考えて、２人を別々な所に住まわせた。彼らは今や16 歳（soLasavassa）となり、激しく慕いあい、甥は画策して王女を手にいれたが、王も初めはそのつもりであったから、この結婚を許し《結婚》、甥には王位を与えた《即位》。〈7〉菩薩/男/クシャトリヤ（王子）/16 歳JAtaka263Cullapalobhana-j.（vol.Ⅱ　p.328）：〔主分〕菩薩はブラフマダッタ王の王子として生まれた。彼が16 歳（soLasavassa）になった時、王は愛欲も望まない息子だから王位も望まないかも知れないと心配になった。そこで、１人の踊り子に依頼して、第１妃にするという約束で菩薩を誘惑させた《結婚関連》。〈8〉サンミッラバーシニー（SammillabhAsinI）/女/バラモン/16 歳JAtaka328Ananusociya-j.（vol.Ⅲ　p.092）：〔主分〕ある善業を積んだ人が梵天の世界から死んで、カーシ国の８億の財産を有する婆羅門の家に生まれ、サンミッラバーシニーと名づけられた。彼女の16 歳（soLasavassa）の時は美しく愛らしかったが、彼女も菩薩と同様、結婚を望まないまま菩薩と結婚させられた《結婚》。〈9〉マッリカー/女/（華鬘師の頭の娘）/16 歳JAtaka415KummAsapiNDa-j.（vol.Ⅲ　p.405）：〔序分〕マッリカーは舎衞城の華鬘師の頭の令嬢で、たいへん美しかった。16 歳（soLasavassa）のある日に他の娘

等と一緒に花園へ行った。その日、阿闍世王との戦に敗れたパセーナディ王は花園で彼女を見初め、夕刻、使いをやり、彼女を王妃として迎えた《結婚》。〈10〉ヴァーサバッカティヤー（VAsabhakhattiyA；行雨）/女/クシャトリヤ（摩訶那摩と下婢との間の子）（1）/16 歳JAtaka465BhaddasAla-j.（vol.Ⅳ　p.145）：〔序分〕マハーナーマとその使用人ガムンダーとの間にヴァーサバッカティヤー（行雨）という16 歳（soLasavassa）になる娘があった。この娘をクシャトリヤの娘としてパセーナディ王に差し出し《結婚》、まもなくして子供が生まれた。（1）クシャトリヤの娘として差し出す。〈11〉ある娘/女/不明（ekassa kulassa）/16 歳JAtaka477CullanArada-j.（vol.Ⅳ　p.219）：〔序分〕舎衞城のある良家に16 歳（ soLasavassa ） になる娘があった。たいへんきれいな年頃の娘（ dhItAvayappattA）ではあったが、求婚者がいなかった《結婚関連》。母親はシャカ族の比丘を１人引き込んで還俗させ、その男によって娘と共に生活しようと考えた。〈12〉マハーパナーダ（MahApanAda）（菩薩）/男/王子/16 歳①　16 歳《学業の修了》⇒②　16 歳《即位/結婚》JAtaka489Suruci-j.（vol.Ⅳ　p.323）：〔主分〕マハーパナーダ（MahApanAda）王子（菩薩）は成年に達して（vayappatta）、16 歳（soLasavassa）になった時には、すでにあらゆる学芸の円熟に達していた（sabbasippe nipphattiM pApuNi）《学業の修了》。王は彼のために楼台を造って、潅頂式を執り行おうと考えた。マハーパナーダのために楼台祭礼（ pAsAda-maGgala ） 、〔王者の〕天蓋祭礼（chatta-maGgala）、成婚祭礼（AvAha-maGgala）という三つの祝典が同時に行われた《即位/結婚（1）》。（1）【資料集1-1】では、結婚の資料としては未収録であったものを三つの祝典が16 歳のとき行われたものとして補った。〈13〉ウンマダンティー（UmmadantI）/女/ヴァイシャ（seTThino dhItA）/16 歳JAtaka527UmmadantI-j.（vol.Ⅴ　p.210）：〔主分〕ウンマダンティーは16 歳（soLasavassa）になる長者の娘（seTThino dhItA）であった。美しい娘であったが、人相見の婆羅門たちが反感を抱き、王には不吉な女として報告したことから、彼女は、王ではなく、将軍アヒパーラカ（AhipAraka）に嫁がせられた《結婚》。〈14〉クサ（菩薩）/男/クシャトリヤ（王子）/16 歳①　15 歳（1）《学業の修了》⇒②　16 歳《即位/結婚》JAtaka531Kusa-j.（vol.Ⅴ　p.278）：〔主分〕クサ王子（菩薩）とその弟ジャヤンパティは素晴らしい栄誉をもって（mahant）成長した（vaDDhati）。菩薩は智慧があるので、師匠のもとて何も習うことなく、自身の智慧によりあらゆる学芸に通暁した（sabbasippesu nipphattiM pApuNi）《学業の修了》。クサ王子が16 歳（soLasavassa）の時、王は王子に王位を譲りたいと思った。王子は、自身が醜男であることから、両親の存命中はこれに従い、後は出家しようと考えた。王は臣下を遣わして息子にふさわしい姫君をさがさせ、パバーヴァティー（PabhAvatI）

王女を見出し、王子を王位につかせ、彼女を第１王妃にさせた《即位/結婚》。（1）16 歳の時、即位を話題とするから、学業の修了年齢を前年の15 歳としてとった。〈15〉ドゥクーラ（DukUla）/男/不明（猟師；nesAda-kula）/16 歳①　16 歳《結婚》⇒②　《隠棲》JAtaka540SAma-j.（vol.Ⅵ　p.071）：〔主分〕ドゥクーラが16 歳（soLasavassa）になった時、両親はドゥクーラ童子（DukUlakumAra）に対岸に住む猟師仲間の娘パーリカー童女（PArikakumArikA）を娶らせた《結婚》。２人は望まないままに在家者として生活したが、両親に暇乞いをし、雪山地方に入って、仙人の生活をした《隠棲》。〈16〉菩薩/男/クシャトリヤ（1）（王子）/16 歳JAtaka546MahAummagga-j. （ vol. Ⅵ　p.363 ） ： 〔主分〕ウドゥンバラ姫（UdumbaradevI）の考案によって、弟（菩薩）の名声は高まった。彼が16 歳（soLasavassa）になった時、ウドゥンバラ姫は、弟は年を取り、名声も大きくなったので、結婚させねばならない、と考えた《結婚関連》。（1）もとは長者（seTThin）の子であったが、王に認められて王の養子となる。16 歳の資料は王の息子となってからであり、クシャトリヤのライフステージとしてとった。〈17〉プサティー（PhusatI）/女/クシャトリヤ/16 歳JAtaka547Vessantara-j.（vol.Ⅵ　p.484）：〔主分〕〔彼女は〕マッダ王の第１妃の胎に再生し、プサティーと名づけられた。成長して（ vaDDhati ） 、16 歳（soLasavassa）になった時に、シヴィ国王は王子サンジャヤを即位させ、息子の第１妃としてプサティーを迎え入れた《結婚》。〈18〉ヴェッサンタラ（Vessantara）（菩薩）/男/クシャトリヤ（王子）/16 歳①　16 歳《学業の修了》⇒②　16 歳《結婚/即位》（1）JAtaka547Vessantara-j.（vol.Ⅵ　p.486）：〔主分〕菩薩が16 歳（soLasavassa）の時、すでにあらゆる学芸を完成させていた（BodhisattosoLasavassakAle yevasabbasippe nipphattiM pApuNi）《学業の修了》。そこで父王はマッダ国の王家から菩薩の叔父の娘マッディーを迎えて第１妃とし、菩薩を潅頂即位させた《結婚/即位》。（1）【資料集1-1】では、16 歳を《学業の修了》年齢としてのみとっていたが、《結婚/即位》についても１年のタイムラグがないものとして、補った。〈19〉シッダッタ❶　/男/クシャトリヤ（太子）/16歳①　16 歳《学業の修了》⇒②　16 歳《結婚》『仏本行経』（大正04　p.062 上）：世人所習　衆諸技術　太子學能　不加日勞　年滿十六　體方精健　文武兼備　藝過諸釋《学業の修了》......王忽寤憶　阿夷所言　如何當令　捨是洪徳　渉苦入山　精勤學道　心即懷疑......王然此義　即召美女　十五以上　容色妙者　六十四種　姿媚具備　尋致諸女　充太子宮《結婚関連》〈20〉菩薩/男/不明（凡人）/16 歳①　16 歳《学業の修了》⇒②　16 歳《結婚関連》『六度集経』85（大正03　p.047 中）：昔者菩薩。時爲凡人。年十有六。志性開達。

學博覩弘。無經不貫練《学業の修了》。精深思衆經道術。何經最眞。何道最安。思已喟然而歎曰。唯佛經最眞無爲最安。重曰。吾當懷其眞處其安矣。親欲爲納妻《結婚関連》。......〈21〉雲/男/バラモン（摩那婆/童子）/16 歳①　16 歳《学業の修了》⇒②　16 歳《結婚関連》『仏本行集経』（大正03　p.665 上）：〔雲〕少小從師。時年十六。端政可憙。得善種生。父母清淨。乃至七世。無有穢濁。無能譏呵。其家種族。......從彼珍寶仙人之邊。受誦呪術。捷利速疾。所得眞正。一聞便領。語言辯了。字句分明。所有一切婆羅門家。種種呪術。工巧技能。皆悉洞解。解已語彼梵志師言。大師和上。我今習學。已盡和上所有徳術。意欲還家。其和上。心戀雲童子。不欲別離。即語之言。汝摩那婆。我有一論。名爲毘陀。乃是往昔諸仙所説。一切外道婆羅門等。未曾知聞。況復得見及以教他。摩那婆言。唯願和上。爲我解説。《学業の修了》......（p.665 下）名雲。年始十六。智慧聰明。徳術具足。與師無異。......時祭祀徳婆羅門女。善技之身。及諸童女。樓上遙望見雲童子端政少雙。見已喜歡。向四方禮諸天諸神。心自密念。願此童子。論議第一。勝舊上座諸婆羅門。令我遠離此不善人。莫與如此不善之人共爲夫婦《結婚関連》。〈22〉優婆塞の娘/女/ヴァイシャ/16 歳『賢愚経』24（大正04　p.381 上）：是女端正。容貌殊妙。年始十六、婬欲火燒。於沙彌前、作諸妖媚《結婚関連》。〈23〉月女/女/クシャトリヤ（王女）/16 歳①　16 歳《結婚》⇒②　16 歳《即位》（夫婦）『旧雑譬喩経』07（大正04　p.512 上）：昔有國王夫人生一女。父母名爲月女。端正無比。王與衣被珍寶。輒言自然也。至年十六。王恚言。此是我與。汝何言自然。後有乞兒來丐。王言。此實汝夫。月女言諾。......行到大國。國王時崩無太子。夫婦於城外坐。......時大臣使梵志八人於都城門行人出入以次相之。唯有此夫婦應相耳。是時擧國群臣共奉迎之爲王《即位》。王夫婦以正法治國人民安寧。〈24〉（吉星婆羅門の娘）/女/バラモン/16 歳『法句譬喩経』（大正04　p.603 下）：時有婆羅門。名曰吉星。生一好女世間少比。至年十六無能訶者。懸金千兩積九十日。募索智者有能訶此女爲不端正者。以金與之無敢應者。女以長大應當嫁處念當與誰。......到優填王所讃女姿媚具白王言。此女應相當爲王妃。今以年大故送與王。王見歡喜即納受之。拜爲第二左夫人。〈25〉シッダッタ❷　/男/クシャトリヤ（太子）/17歳『六度集経』78（大正03　p.041 下）：太子年十七無經不通。師更拜受。王爲納妃。妃名裘夷。容色之華。天女爲雙。力勢頓却六十巨象。至年十九。太子都合諸妓凡千五百人。共處一殿。極其伎樂。『修行本起経』（大正03　p.465 中）：於是太子。與諸官屬。即迴還宮至年十七。......有一臣言。太子已大。宜當娶妻以迴其志。王爲太子。採擇名女無可意者。有小國王。名須波佛（漢言善覺）。有女名裘夷。『太子瑞応本起経』（大正03　p.475 上）：太子至年十七。王爲納妃。簡閲國中名

女數千。無可意者。最後一女。名曰瞿夷。『過去現在因果経』（大正03　p.629 中）：爾時太子。至年十七。王集諸臣。而共議言。太子今者年已長大。宜應爲其訪索婚所。諸臣答言。有一釋種婆羅門。名摩訶那摩。其人有女。名耶輸陀羅。〈26〉アーサンカー（AsaMkA）/女/不明/19 歳JAtaka380AsaMka-j.（vol.Ⅲ　p.248）：〔主分〕菩薩は仙人となって雪山中に住んでいると、蓮の花台に１人の女児をみつけ、アーサンカーと名づけ、その子を我が子のように育てた。彼女が16 歳（soLasavassa）になった時、その美しさのうわさを聞いて、バーラーナシーの王が彼女を欲した。王はその後、３年の歳月を経て彼女の名を調べ、約束通り菩薩より彼女をもらい受けた《結婚19 歳（16+3）》。〈27〉シッダッタ❸　/男/クシャトリヤ（太子）/19歳『仏本行集経』（大正03　pp.707 上̃712 下）：爾時太子漸向長成。至年十九。時淨飯王爲於太子。造三時殿。......時淨飯王復語釋種諸親族言。汝等當觀。誰釋女堪與我太子悉達爲妃。......最後有一婆私　族釋種大臣摩訶那摩。其女名爲耶輸陀羅。〈28〉法与/女/ヴァイシャ/20 歳『根本有部律』「雑事」（大正24　p.366 中）：......（366 下）法與長大情樂出家。跪白父曰。我今情樂善説法律而爲出家。父曰小女我有先言。以汝嫁與鹿子長者子毘舍佉。彼即是夫誠爲不可。......（367 中）是時法與於二歳中。學六法六隨法。年漸長大容儀挺秀超絶常倫。時諸親族共來瞻視。鹿子長者知女長成。令使往告天與長者曰。男女成立宜共成親。可選吉辰式修盛禮。......（367 下）又諸親族咸來告言。少女汝今不應爲倉卒事。汝既盛年梵行難立。......（368 中）二部僧伽已與汝受近圓竟（1）。......無容得有阿羅漢尼。諸漏已盡處白衣家。食殘宿食受行俗法。于時法與既得果已。白父母曰。二親當知。我已獲得阿羅漢果。今欲往詣王園尼寺。（1）婚礼の話の進む中、二年六法を学び、具足戒の得られる二十歳になったと解した。〈29〉シッダッタ❹　/男/クシャトリヤ（太子）/20歳『異出菩薩本起経』（大正03　p.619 上）：太子年二十。王欲爲太子娶婦。太子曰。我不娶婦。王爲太子。閲一國中女。得數十萬女。令太子目閲視之訖。無有可太子意者。最後一女。名曰倶夷。太子曰。吾欲娶是女。王即爲太子娶之。爲太子娶婦。〈30〉（梵志長者の子）/男/バラモン/20 歳①　20 歳《結婚》⇒②　20 歳《死没》『法句譬喩経』（大正04　p.605 下）：有一梵志長者居在路側財富無數。正有一子其年二十。新爲娶婦未滿七日《結婚》。夫婦相敬言語相順。......有一　樹高大華好。婦欲得華無人與取。夫知婦意欲得　華。即便上樹正取一華。復欲得一展轉上樹乃至細枝。枝折墮地傷中即死《死没》。〈31〉（銀色王の転生）/男/バラモン（摩那婆/童子）/20 歳①　20 歳《結婚関連》⇒②　20 歳《隠棲》『銀色女経』（大正03　p.451 中）：託生彼處婆羅門婦。足滿十月生一童子。端正殊妙最上無比。身色具足年二十後。于時父母而語之言。摩那婆。當須造舍《結婚

関連》。時彼童子報父母言。爲我造舍爲有何義。我心今者不在於舍。惟願放我入於深山。父母即聽。彼出自舍往詣山林《隠棲》。既往到已見山林中。〈32〉一貧窮婆羅門/男/バラモン/40 歳『太子須大拏経』（大正03　p.421 中）：時鳩留國有一貧窮婆羅門。年四十乃取婦。婦大端正。婆羅門有十二醜身體黒如漆。面上三　鼻正　　。兩目復青。面皺脣　。語言謇吃。大腹凸　。脚復繚戻。頭復　禿。状類似鬼。其婦惡見呪欲令死。〈33〉一婆羅門/男/バラモン/60 歳『法句譬喩経』（大正04　p.597 中）：昔有婆羅門。年少出家學道。至年六十不能得道。婆羅門法六十不得道。然後歸家娶婦爲居。生得一男端正可愛。至年七歳書學聰了。才辯出口有踰人之操。卒得重病一宿命終。〈34〉一輔相婆羅門/男/バラモン/80 歳『大方便仏報恩経』（大正03　p.141 下）：波羅奈國有一輔相婆羅門。其家大富多饒財寶。金銀琉璃。珊瑚虎珀。象馬牛羊。田業僮僕。在所充足。年過八十生一男兒。妙色端正人相具足。父母歡喜。召諸相師占相吉凶。爲其立字號曰均提。年始七歳。父母愛念放令出家。往詣刹提利因提羅山。至如來所。〈35〉一長老梵志/男/バラモン/80 歳『出曜経』（大正04　p.703 上）：昔佛在舍衞國祇樹給孤獨園。彼時去國界不遠有梵志子。名曰無害。常追逐師友。讀梵志經典。所事師者耆舊長老。年過八十所納妻婦。年幼少壯顏貌端正。女之禮節威儀備擧。無害梵志子亦復端正丈夫姿顏世無雙比。時彼女人婬欲熾盛。即捉梵志子無害手。吾敬卿徳欲與情交宜可爾不。無害聞之。以手掩耳我寧喪命終不敢聽。......（1）（1）上記の外に次のような資料も存する。ただし同列には扱えないので参考として掲げておく。一女/女/不明/３歳/『旧雑譬喩経』（大正04　pp.513 下-514 上）：昔有婦人生一女。端正無比。年三歳。國王取視。呼道人相後中夫人不。道人言。此女人有夫。王必後之。我當牢藏之。便呼鵠來。汝所處在何所。白王。我止大山半有樹。人及畜獸所不得歴。下有廻復水船所不行。王言。以此女寄汝養。便撮持去。日日從王取飯與女。如是久後。上有一聚卒爲水所漂去。有一樹正倚追水。下流有一男子。得抱持樹。墮廻水中不得去。廻滿樹踊出住。倚山男子得上鵠樹與女通。女便藏之。鵠日擧女稱之。已更子身未者輕也。鵠覺女重。左右求得男子。擧棄之。往如事白王。王曰。道人工相人也。師曰。人有宿命對。非力所能制也。逢對則相可。諸畜生亦如是也。［2］上記資料にもとづいて統計的分析を施してみる。［2-1］結婚年齢のA 文献・B 文献資料を度数分布表にしてみると以下のようになる。

《結婚年齢》年齢Ａ．原　始　仏　典Ｂ．後　期　仏　典総計パーリ漢　訳JAtaka,ApadAna本縁部・根本有部律男女男女男女男女7 1 18 1 18.5 　1(1) 110 1 111 1 1 212 1 114 2 1 315 1 1 1 2 515.5 1(2) 116 2 2 7 6 3 3 2317 1 119 1 1 220 1 3 1 528 1 140 1 160 1 180 2 2120 1 1平　均14.5 42.9 13.7 16.0 16.4 30.4 16.0 21.3最頻値総　計0 4 4 10 7 7 14 7 53（1）結婚年齢を８歳９歳とする〈2〉の資料である。下のヒストグラムでは８歳、９歳にそれぞれ度数0.5 を加算した。（2）結婚年齢を15 歳16 歳とする〈13〉の資料である。下のヒストグラムでは15 歳、16 歳の男性グラフにそれぞれ度数0.5 を加算した。［2-2］上記、（1）（2）（3）の注を考慮して、ヒストグラムで修正を加えると次のようになる。

結婚年齢024681 01 21 47 8 9 1011 121314151617 181920 2 8 4 0 6 0 8 0 120年齢男女［2-3］A 文献（18 件）、B 文献（35 件）の男女を合わせた結婚年齢の最頻値は16 歳（度数23.5〔相対度数44.34〕（1））である。これは男女ともに16 歳で、A 文献・B 文献を合わせた男性の度数は10.5（男性の総計からの相対度数は42.00）、女性の度数は13.0（女性の総計からの相対度数は46.42）である。A、B 文献別でも16 歳である。平均を出せば、A 文献は18.8 歳（男性42.9 歳（2）、女性13.9 歳）、B 文献は21.9 歳（男性25.3 歳（3）、女性16.1 歳）、A 文献・B 文献を合わせた平均は21.3 歳（男性25.3 歳（4）、女性16.1 歳）である。（1）［2-1］の註（2）に記した〈13〉資料を加味している。（2）120 歳の〈18〉資料を除けば、18.3 歳となる。（3）80 歳の〈34〉〈35〉の２資料を除けば、19.9 歳となる。（4）120 歳の〈18〉資料、80 歳の〈34〉〈35〉の２資料を除けば、19.5 歳となる。［3］結婚年齢について若干の考察を施しておく。［3-1］上記に紹介した資料は結婚年齢を記すものを無作為に掲げたものであり、通常の結婚適齢期にはそぐわないものも含まれている。例えばA 文献の〈18〉は120 歳とするが、これはすでに結婚していたが、１人の妻がはじめて妊娠したというものであり、B 文献の〈32〉は40 歳とするが、これは貧窮であったがゆえに結婚が遅れたと考えられるし、〈33〉は80 歳にして結婚したのは、年少に出家学道していたが故であり、〈34〉はすでに結婚していたのであるが80 歳にして子が生まれたということであろう。〈35〉もおそらく青年時代に学問に励んでいたからであろうと考えられる確かに平均年齢を算出する場合にはこのようなものも含めるべきであるが、結婚の標準年齢を考えるときにはこのようなものは除外すべきであろう。後者のように考えてこれらを除

外すると、男女ならびにA、B 文献あわせた平均年齢は13.6 歳となる。また現代の日本人の平均的な初潮年齢は12~13 歳とされている。K.M.カパディアによれば、ある小規模の調査で、カルカッタにおけるベンガール系少女の月経初潮期には、12.74歳から12.78 歳までの変化がみられたという（1）。またトラヴァンコールのナヤール族の場合では、14.29 歳であったという（2）。また、前者をヒンドゥー・インド人の典型として考えた場合でも生殖機能の発達が３ヶ年を要すると考えて、結婚（出産）のための最小限年齢は16 歳でなければならないともしている。このように考えると実質的な結婚は15、6 歳くらいからでなければならないことになる。しかしながらインド人には古くから幼児婚の風習があり、7、8 歳での結婚もなかったわけではないであろう。律に比丘尼・波逸提065（度十二歳未満已嫁女戒）：12 歳未満の曾嫁女（gihigatA）を受具させてはならない。という規定があり（3）、また『パーリ律』の「付随」には10歳の曾嫁女に学戒を与えることができる（dasavassAya gihigatAya sikkhA dAtabbA）（4）。とされているから、10 歳以前に結婚している少女が十分あり得たことを物語っている。特にこの点については、A 文献に資料が多く、資料全体に占める割合も多いが、B 文献には少なく、その割合はきわめて低い。この律蔵の規定もA 文献に属するから、このことから原始仏教聖典が制作された時代の方が、後期原始仏教聖典が制作された時代よりも、幼児婚が広く行われていたといえるかも知れない。それはともあれ、この幼児結婚と一般的な意味での結婚とを分けて考える必要もあるであろう。したがって上記資料から12 歳までの資料は幼児婚と考えて、これを除外して平均値を算出してみると16.7 歳となる。おそらくこの数字が有意味の数字であって、原始仏教聖典における平均結婚年齢は16、17 歳くらいとしてよいであろう。ただし幼児婚という形態があったことも忘れてはならないし、個人的な事情によって婚期が遅れることがあるということも十分に予測しておかなければならない。なお先に掲げた平均値の16.7 歳という数字には、バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャなどのすべてのカーストの男女を含んでいる。上記資料の語るところからは、男女を区別しなければならない理由もなさそうであるし、A 文献の資料〈8〉〈9〉〈10〉〈11〉〈12〉なども語るように、仏教的な社会環境の中では、カーストによって区別しなければならない理由もなさそうである。（1）K.M.カパディア著/山折哲雄訳『インドの婚姻と家族』（未来社　1969.2）p.235（2）前掲書、p.237（3）vol.Ⅳ　　p.321。漢訳律は、『四分律』（比丘尼）波逸提125　大正22　p.758 下、『五分律』（比丘尼）波逸提104　大正22　p.091 上、『十誦律』（比丘尼）波夜提108　大正23　p.325 下、『僧祇律』（比丘尼）波逸提100　大正22　p.535 下、『根本有部律』（比丘尼）波逸提108　大正23　p.1004 中（4）vol.Ⅴ　　p.139［3-2］法典類によれば、初潮前の８歳（aXTa-varXa）より10 歳（daSa）までの処女をナグニカー（nagnikA）、10 歳（daSa-varXa）と12 歳（dvAdaSa）の間［の処女］をガウリー

（gaurI）と呼び、特にナグニカーの間に親はふさわしい夫を見つけて嫁がせるべきであるとされており（1）、VasiXTha DharmasUta S.17.70、BaudhAyana DharmasUta S.4.1.11 によれば、初潮が始まるまでに嫁がせることができなければ父親に罪過が訪れるという（2）。またそれができない場合は月経が始まってからの3 年間は親がふさわしい夫を探す努力をすべきであるが、それを過ぎたら女性自身がふさわしからざる夫でもよいから、自ら探すべきであるとされる（3）。したがって法典類は女性には幼児婚をあるべき姿として勧めているわけである。ヒストグラムを見ると、14 歳までの幼少年期の結婚は圧倒的に女性が多いのもこれを裏付ける。しかし男性にはこのような規定はない。ArthaSAstra 3.3.1~2 は女（strI）は12 歳（dvAdaSa-varXA）で成年（vyavahAra）に達したもの〔成人〕となり、男（puMs）は16 歳（XoDaSa-varXa）で［成人となる］。とし、SuSruta-saMhitA 34.10（大地原訳　Ⅰ　　p.113）は男子は25 歳、女子は16 歳にて成年期に達するものと医者は知るべし。とするが、これは結婚の年齢を規定したものではなく、例えばManu-smRti 9.94 は30 歳の者（triMSad-varXa）は愛しい（hRdyA）12 歳（dvAdaSa-vArXikI）の娘（kanyA）を、あるいは24 歳の者（tryaXTa-varXa）は８歳［の娘］（aXTa-varXAM）を娶るべし（vahet）。とし、MahAbhArata 13.44.14 が30 歳［ の男子］ （ trimSad-varXa ） はナグニカー（ nagnikA ） である10 歳の妻を（ daSa-varXAm bhAryAm ） 娶るべし（ vindeta ） 。あるいは21 歳［ の男子］（ekavimSati-varXa）は７歳［の妻］を（sapta-varXAm）獲得するべし（avApnuyAt）。などとするように、他の法典類も同様にいうから、結婚適齢期というものを設けていなかったようである（4）。しかし法典類は望ましい当為年齢を提示しているのであって、必ずしも現実を反映しているわけではないから、原始仏教時代の男女の平均的な結婚年齢は、先の仏典のいうところを尊重すべきであろう。（1）「モノグラフ」第９号　pp.193~195 参照（2）上記　p.195 参照（3）上記　pp.195~6 参照（4）上記　pp.193~4 参照［3-3］また7世紀頃の実態をあらわすジャイナ教の文献によれば、花嫁は12歳、花婿は16歳に割り当てられているという（1）。（1）Ranjana Bajpai;Society in India the Seventh Century A.D. 1992 , New Delhi p.058　これはK.P.Jain; Marriage in Jain Literature,IHQ, vol.Ⅳ　　p.151によったものと注記されている。［3-4］なお管見にふれた範囲の調査の報告書を紹介しておく。B.L.マンカッドの調査（1934年~35年）においては、父世代、当世代において「結婚年齢は11.4歳から14.2歳まで変化を示すが、初産年齢にかんしては重大な相違はみられなかったことを明らかにした」という。彼によれば、初産の平均年齢は15.89歳から16.81に変化し、別な例でも17.59歳から17.1歳、17.52へと変化を示してはいるが、結婚年齢とは関係がないということである（1）。
 
        
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    <title>【5】就業年齢</title>
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    <published>2010-02-09T04:37:12Z</published>
    <updated>2010-05-14T05:03:58Z</updated>

    <summary>　【5】就業年齢［0］次に就業年齢について調査する。ただし就学や学業の修了とは異...</summary>
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        <name>釈尊伝</name>
        
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        　【5】就業年齢［0］次に就業年齢について調査する。ただし就学や学業の修了とは異なって、いつの時点を就業と見るかが難しい。例えば現代のインドでも、7、8 歳の児童が学校に行かないで家業を手伝ったり、乞食や物売りをして一家の生計を助けているという光景をよく見かける。以下に紹介する資料の中の、7、8 歳の児童の場合はこのケースに相当するであろう。［1］原始仏教文献の就業年齢資料には以下のようなものがある。［1-1］まず原始仏教聖典（Ａ文献）の就業年齢記事は下記の1 件のみである。〈1〉奢摩/男/クシャトリヤ/15 歳『増一阿含』034-002（大正02　p.691 下）：爾時迦毘羅越城有釋童子。年向十五名曰奢摩。聞流離王今在門外。即著鎧持仗至城上。獨與流離王共鬪（1）。是時奢摩童子多殺害兵衆。（1）戦争に参戦した年齢を「就業」年齢としてとった。［1-2］後期原始仏教聖典（Ｂ文献）の就業年齢記事には次のようなものがある。〈1〉一小児/男/不明（牧人）/７歳①　７歳《就業》⇒②　７歳《死没》『六度集経』66（大正03　p.035 中）：有一小兒厥年七歳。城外牧牛。遙聞比丘誦説經聲。即尋音往詣精舍中。禮比丘已却坐一面。聽其經言。時説色本聞之即解。兒大歡喜經句絶已。便問比丘。比丘應答不可兒意。是時小兒反爲解説。其義甚妙。昔所希聞。比丘聞之。歡喜甚悦。怪此小兒。乃有智慧非是凡人。時兒即去。還至牛所。所牧牛犢散走入山。兒尋其迹追逐求索。爾時値虎害此小兒。小兒命終《死没》。魂神即轉。〈2〉一小児/男/不明（乞食）/７歳『菩薩本生鬘論』03（大正03　p.334 上）：〔阿難〕見有衰老夫婦二人。兩目失明加復貧悴。唯有一子年始七歳。常出乞丐以贍其親。『賢愚経』07（大正04　p.356 上）：時有老翁老母。兩目既盲。貧窮孤苦。無止住處。止宿門下。唯有一子。年始七歳。常行乞丐以養父母。得好果菜。其美好者。供養父母。餘殘酸澁。臭穢惡者。便自食之。〈3〉一小児/男/チャンダーラ（乞食）/8.5 歳（８歳・９歳）『出曜経』（大正04　p.630 下）：即生舍衞城中處盲栴陀婦腹中。經八九月出生在外生盲無目。......是時盲母養兒年八九歳堪能行來。母以杖一枚食器一具而告子曰。吾今養汝堪能行來。宜求自活不須住此。〈4〉一給使/男/不明（給使）/11 歳①　11 歳《就業》⇒②　（数年後）《死没》『法句譬喩経』（大正04　p.606 中）：有一給使其年十一常爲王使。忠信奉法不失威儀。謙卑忍辱精進一心學誦經偈。知時先起已　香火。數年之中精進如是不以爲勞。卒得重病遂致無常。〈5〉善友/男/クシャトリヤ（太子）/14 歳

『大方便仏報恩経』（大正03　pp.142 下-144 上）：哺乳長大至年十四。善友太子聰明慈仁好喜布施。......善友太子亦欲入海採取珍妙摩尼寶珠（1）。（1）善友太子が一切衆生を満足させるため摩尼宝珠を求めて海に出た年齢を「就業」年齢としてとった。〈6〉菩薩/男/バラモン/16 歳JAtaka155Gagga-j.（vol.Ⅱ　p.015）：〔主分〕菩薩はカーシ国の婆羅門の家に生まれた。父親は商売をして生活をしていたが（1）、菩薩が16 歳（soLasavassa）になった時、菩薩に宝玉の荷物を背負わせ、大村小村を廻り歩いてバーラーナシーに行き着いた《就業》。この後、菩薩は夜叉を手なずけ、このことを聞いた王は菩薩を将軍の地位（senApatiTThAna）につかせた。（1）『マヌ法典』には「四身分の窮迫時の生き方」（渡瀬信之訳　中公文庫　1991.12　pp.352~360）が定められている。それによれば、上位ヴァルナに配当された仕事への従事は禁止されているが、バラモンの場合、クシャトリヤ以下のすべてのヴァルナの職業に就くことを可能とし、ヴァイシャに配当された商業と農業、とりわけ前者に限定しようとしているという（渡瀬著『マヌ法典』中公新書　1990.2　pp.031~033）。ただし「資料集」では、商業・農業に従事している場合、身分についての言及がなければヴァイシャとして扱っている。〈7〉菩薩/男/バラモン/16 歳①　16 歳《学業の修了》⇒②　16 歳《就業》JAtaka287LAbhagaraha-j.（vol.Ⅱ　p.420）：〔主分〕菩薩は婆羅門の家に生まれ、成年に達して（vayappatta）、16 歳（soLasavassa）になった時、３ヴェーダおよび１ ８ 種の学芸の奥義を極め（ tiNNaM vedAnaM aTThArasannaM sippAnaMpariyosAnaM patvA）《学業の修了》、四方に名高き師匠（disApAmokkhAcariya）となり、500 の弟子達に学芸を教えていた《就業》。〈8〉ジョーティパーラ（JotipAra）（菩薩）/男/バラモン/16 歳①　16 歳《遊学》⇒②　16 歳（７日後）《学業の修了》⇒③　16 歳《就業》JAtaka522SarabhaGga-j.（vol.Ⅴ　p.127）：〔主分〕ジョーティパーラは成長して（vaDDamAna）16 歳（soLasavassa）になると、この上もない容姿をしていた。それを見て、父は息子にタッカシラーへ行って四方に名高い師匠のもとで学芸を修めるように言った。彼は千金を出して学芸を教わったが、７日目にして奥義に達した《遊学/学業の修了》。師匠は老いたことを理由に500 人の青年バラモンを彼に託した（sippaM paTThApetvA satthAhen&apos; eva nipphattiM pApuNi）《就業①　》。菩薩はすべてを引き受け、バーラーナシーに戻ると、毎日千金をもらって王に仕えた《就業②　》。〈9〉エーラカマーラ（ELakamAra）/男/チャンダーラ（1）/16 歳①　７歳８歳《就学》⇒②　16 歳《就業》⇒③　《結婚》JAtaka536KuNAla-j.（vol.Ⅴ　p.429）：〔主分〕コーサラ王の忘れ形見であった子供（ エーラカマーラ） が王宮の老朽個所の修繕者（ rAjanivesanejiNNapaTisaMkhAraka）であるチャンダーラとその妻に拾われて育てられた。７・８歳になった時から古くなった個所を修繕する両親に伴われて、王宮へ行くよう

になった《就学》。16 歳（soLasavassa）になってからは、両親の仕事を引き継いで、１人で王宮へ出掛けた《就業》。そこで、王女クランガヴィーと恋に落ち、身分が証され、結婚した《結婚》。（1）エーラカマーラはコーサラ王の忘れ形見であるからクシャトリヤであるが、ライフステージは育ての親であるチャンダーラとしておいた。〈10〉スヴァンナサーマ（SuvaNNasAma）（菩薩）/男/（猟師；nesAda-kula）/16 歳①　《隠棲》⇒②　16 歳《就業》JAtaka540SAma-j. （ vol. Ⅵ　p.074 ） ： 〔主分〕スヴァンナサーマは16 歳（soLasavassa）になったが、両親は彼を葉の庵の中に寝かせておいたまま、自分たちで樹の根や果物を採りに出掛けた。その先で両親とも蛇に毒をかけられ、目が不自由になった。菩薩はこの不幸に一度は泣き、一方でこれからは両親を扶養できることを喜んで笑った《就業》。〈11〉大意/男/ヴァイシャ（居士子）/17 歳『大意経』（大正03　p.446 中）：〔大意〕至年十七乃報父母言。我欲布施勤苦人令得安隱......大意報言。父母財物雖多猶不足我用。唯當入海採七寶以給施天下人民耳。......大意便作禮辭行入海《就業》。［2］上記のように、資料数も少なく、また就業をいつの時点とするかの基準も曖昧であるが、とりあえず統計的な分析を施しておく。［2-1］就業年齢のA 文献・B 文献資料を度数分布表にしてみると以下のようになる。《就業年齢》年齢Ａ．原　始　仏　典Ｂ．後　期　仏　典総計パーリ漢　訳JAtaka,ApadAna本縁部・根本有部律男女男女男女男女7 2 28.5 　1(1) 111 1 114 1 115 1 116 6 617 1 1平　均15 16 10.8 13.5最頻値15 16 7 16総　計1 6 6 13

（1）就業年齢を８歳９歳とする〈3〉の資料である。下のヒストグラムでは８歳、９歳をそれぞれ0.5 度数とカウントした。［2-2］上記、（1）の注を考慮して、ヒストグラムで修正を加えると次のようになる。就業年齢012345677 8 9 1 0 1 1 1 2 1 3 1 4 1 5 1 6 1 7年齢［2-3］A 文献（１件）、B 文献（12 件）を合わせた学業の修了年齢の最頻値は16 歳（度数６〔相対度数46.15〕）となっている。A 文献は15 歳でとった１件のみ、B 文献の最頻値は16 歳（度数６〔相対度数50.00〕）である。平均を強いて出せば、B 文献の平均は13.4 歳、A 文献・B 文献を合わせた平均は13.5 歳である。［3］就業年齢について若干の考察を加えておく。［3-1］統計的分析の結果は上記のようになるが、むしろ成人ないしは一定程度の年齢に達して家業あるいは職業に就くというような、有意味の資料を選ばなければならないであろう。そのような資料としてあげられるのは、A 文献の〈1〉の『増一阿含』と、B 文献の〈4〉以降である。これらの年齢は11 歳、14 歳、15 歳、17 歳がそれぞれ1 件で、他は16 歳であって5 件あり、平均は15.2 歳になり、最頻値は16 歳である。この中にはクシャトリヤもバラモンもヴァイシャもチャンダーラのようなものも含まれている。【4】の学業の修了年齢の最頻値は16 歳であって、このときに就業するというのはごく自然なライフステージとしての流れであり、したがって就業年齢の標準値は16 歳であるとしてよいであろう。［3-2］法典類を参考として考えるとき、この就業年齢に相当するのは、家住期に入る年齢であろう。しかし残念ながらこれを明確に規定するものはない。というよりも家住期に入ることは、すなわち結婚することと置き換えられるようであり、したがって次項の結婚の時に併せて考えてみることにする。
 
        
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    <title>【4】遊学年齢</title>
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    <published>2010-02-09T04:36:47Z</published>
    <updated>2010-05-14T05:04:50Z</updated>

    <summary>　【4】遊学年齢［0］本項では、何歳に生国から離れて他国に遊学したという記事を調...</summary>
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        <name>釈尊伝</name>
        
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        　【4】遊学年齢［0］本項では、何歳に生国から離れて他国に遊学したという記事を調査し、統計的に分析を施した後、若干の考察を加える。［1］資料を紹介する。［1-1］まず原始仏教聖典（Ａ文献）の遊学年齢記事がある資料を紹介する。コーサラ国王・波斯匿の王子とされる瑠璃（ViDUDabha）に関する記事のみである。〈1〉瑠璃/男/王子/８歳『増一阿含』034-002（大正02　p.690 中）：然流離太子年向八歳。王告之曰。汝今已大。可詣迦毘羅衞學諸射術《就学/遊学》。是時波斯匿王給諸使人使乘大象。往詣釋種家至摩呵男舍。語摩呵男言。波斯匿王使我至此學諸射術。唯願祖父母事事教授。時摩呵男報曰欲學術者善可習之。是時摩呵男。釋種集五百童子使共學術。『五分律』「衣法」（大正22　p.141 上）：〔琉璃〕至年八歳王欲教學。作是念。諸藝之中射爲最勝。閻浮提界唯有釋種。佛爲菩薩時射一由旬又一拘樓舍。釋摩南射一由旬。最下手者不減一拘樓舍。當令吾子就外氏學《就学/遊学》。［1-2］後期原始仏教聖典（Ｂ文献）の遊学年齢記事がある資料を紹介する。1 件を除くほとんどすべてがジャータカの記事であり、そのすべてが16 歳で、学芸（sippa）を学ぶために、タッカシラーに遊学したとするから、パターン化しているといってよいであろう。〈1〉ブラフマダッタ・クマーラ（BrahmadattakumAra）（菩薩）/男/クシャトリヤ（王子）/16 歳①　16 歳《遊学》⇒②　《学業の修了》⇒③　《副王》JAtaka 050Dummedha-j.（vol.Ⅰ　p.259）：菩薩が16 歳（soLasavassa）になった時、タッカシラーで学芸（sippa）を学び《遊学》、３ヴェーダに精通し、１８種の弓術を（aTThArasannaM vijjaTThAnAM）完全に習得した《学業の修了》。父は彼に副王位（oparajja）を授けた《副王位》。〈2〉パンチャーヴダ・クマーラ（PaJcAvudhakumAra）（菩薩）/男/クシャトリヤ（王子）/16 歳①　16 歳《遊学》⇒②　《学業の修了》JAtaka055PaJcAvudha-j.（vol.Ⅰ　p.272）：パンチャーヴダ・クマーラ〔主分〕菩薩はブラフマダッタ王の妃の胎に生まれ、だんだん分別のつく年齢になって（viJJUtA）、16 歳（soLasavassa）になった時、父王は菩薩にタッカシラーの有名な師匠のもとで学芸（sippa）を修するようにと告げ、師匠の謝礼の千金を持たせて送りだした《遊学》。学芸を習い終えると師匠から授けられた５種の武器をもって帰路についた《学業の修了》。〈3〉ある男子/男/バラモン（mANava）/16 歳①　16 歳《遊学》（⇒②　学業の修了⇒③　《結婚》）JAtaka061AsAtamanta-j.（vol.Ⅰ　p.285）：〔主分〕ある婆羅門族の１人の男子が16 歳（soLasavassa）になった時、両親は息子に２つの進路の選択を問うた。「梵

天界に行きたければ、生まれた時から絶やしていない火をもって森林に入り、火神を供養しなさい《隠棲関連》。家庭に住みたければ、タッカシラーで有名な師匠（菩薩）について学芸を修し、その後に家を治めなさい（1）」......青年バラモンは師匠への謝礼として千金を持ってタッカシラーへ行った《遊学》。......菩薩は青年の母親の意図をくみ、120 歳（vIsaMvassasatika）になる自身の母親を教材にして、女というものが淫らで卑しいものであることを教えて、出家を促した。この日、菩薩の母親は１２０歳で亡くなった。（ 1）両親の価値観としては、16 歳でこのまま林住期に入るか、もし家庭生活を営む（agAraM AvasitukAmo）家住期に入るとしても、順序としては、遊学して学業が修了した後ということをいっているのであろう。16 歳で林住期に入ったとするJAtaka の資料は他にJAtaka144（vol.Ⅰ　p.496）、JAtaka162（vol.Ⅱ　p.043）、JAtaka498（vol.Ⅳ　p.390）がある。「年齢記事一覧［Ⅰ　］」（モノグラフ１号　p.201）参照。〈4〉ブラフマダッタ・クマーラ（BrahmadattakumAra）（菩薩）/男/クシャトリヤ（王子）/16 歳①　16 歳《遊学》⇒②　《学業の修了》⇒③　（父王の死後）《即位》JAtaka151RAjovAda-j.（vol.Ⅱ　p.001）：ブラフマダッタ王子〔主分〕菩薩はブラフマダッタ王の第１妃の胎に生まれ、ブラフマダッタ王子と名づけられた。彼は次第に成年に達して（vayappatta）、16 歳（soLasavassa）になった時、タッカシラーへ行ってあらゆる学芸の奥義を極め（sabbasippesu nipphattim patvA）《遊学/学業の修了》、父王の死によって王位に即き《即位》、正しく国を治めた。〈5〉菩薩/男/バラモン（司祭官purohita の息子）/16 歳①　16 歳《遊学》⇒②　16 歳（１日後）《学業の修了》JAtaka163SusIma-j. （vol. Ⅱ　p.046）：〔主分〕菩薩は王の象の祝祭の執行官（ hatthimaGgalakAraka ） である司祭官の夫人の胎に生まれた。16 歳（soLasavassa）の時、父が死に、他の婆羅門は象の祝祭を行なうことの利益を得ようとした。彼らは菩薩がまだ若く３ヴェーダも象の経文も知らないから自分たちに行わせるようにと王に進言した。菩薩はただ１日のうちにタッカシラーへ行って、一夜でこれらを習い、翌日には帰ってきた《遊学/学業の修了》。〈6〉アサディサ・クマーラ（AsadisakumAra）（菩薩）/男/クシャトリヤ（王子）/16歳①　16 歳《遊学》⇒②　《学業の修了》⇒③　（父王の死後）《即位関連》JAtaka181Asadisa-j.（vol.Ⅱ　p.087）：〔主分〕菩薩はブラフマダッタ王の妃の胎に生まれ、アサディサ王子と名づけられた。16 歳（soLasavassa）の時に菩薩はタッカシラーへ行って有名な師匠について、３ヴェーダと１８種の学芸（aTThAlasasippAni）を修了し《遊学/学業の修了》、弓術（issAsasippa）については及ぶべきものがないようになって帰ってきた。父王の死によって王位を継ぐように求められたが《即位関連》、弟のブラフマダッタ王子に譲った。その後、謀叛の讒言により国を去った。〈7〉ブラフマダッタ・クマーラ（BrahmadattakumAra）（菩薩）/男/クシャトリヤ

（王子）/16 歳①　16 歳《遊学》⇒②　《学業の修了》⇒③　《即位》JAtaka252TilamuTThi-j.（vol.Ⅱ　p.277）：〔主分〕昔の王等は城下に名高い師匠がいても、王子等の尊大さを抑制し、寒暑に耐え、世の道に通暁させるために遠い外国に派遣することにしていた。ブラフマダッタ王にはブラフマダッタ王子という息子があった。彼が16 歳（ soLasavassa ） になった時、一枚底の履物（ekatalikaupAhanA）と草製の日傘（paNNacchatta）と〔謝礼のための〕千カハーパナ（kahApaNasahassa）のお金を与えて、学芸（sippa）を修めさせるためにタッカシラーへ行かせた《遊学》。教えのための住み込み弟子（dhammantevAsika　南伝；随身生）というのは昼間は師匠の仕事をし、夜分、学芸を修得する。師匠に謝礼を出した者（AcariyabhAgadAyaka）はその家にいて、長男（jeTThaputta）のようになって、学芸を修得する。それゆえその師匠もまた日夜穏やかに王子に学芸を教えた。......王子は学芸を完成して（sippaM niTThApetvA）《学業の修了》、バーラーナシーに帰った。王は「生きていたので、息子を見られた。生きている間に彼が王たることの栄光を見よう」と言って（jIvamAnena me putto diTTho,jIvamAno cF assa rajjasiriM passissAmI ti）、息子を王位につけた（puttaM rajjepatiTThApesi）《即位》。〈8〉（バーラーナシー王の息子）/男/クシャトリヤ（王子）/16 歳①　16 歳《遊学》⇒②　《学業の修了》⇒③　《副王》⇒④　（父王の死後）《即位》JAtaka338Thusa-j.（vol.Ⅲ　p.122）：〔主分〕菩薩はタッカシラーで四方に名高い師匠として多くの王子や婆羅門の子等とに学芸を授けていた。バーラーナシー王の息子も16 歳（soLasavassa）の頃、菩薩のもとに行って３ヴェーダとあらゆる学芸（ tayo vede sabbasippAni ） とを修め《遊学》、学成りて後（ uggaNhitvAparipuNNasippo）《学業の修了》、国に帰り、副王の位に即き《副王》、父王の死後は王位に即いた《即位》。その子が16 歳（soLasavassa）になる時、父の堂々たる姿を見て、王位を奪いたいと侍者に告げた。〈9〉ブラフマダッタ・クマーラ（BrahmadattakumAra）（菩薩）/男/クシャトリヤ（王子）/16 歳①　16 歳《遊学》⇒②　《学業の修了》⇒③　《即位》⇒④　（即位より50 年後）《隠棲》JAtaka378DarImukha-j.（vol.Ⅲ　p.238）：〔主分〕菩薩はマガダ王の第１妃の胎に生まれ、ブラフマダッタ王子と呼ばれた。同じ日に王の司祭の子も生まれ、ダリームカと名づけられた。彼らは16 歳（soLasavassa）の時にタッカシラーへ行ってあらゆる学芸を学んだ（sabbasippAni uggaNhitvA）《遊学》。さらに国々の風俗習慣も学びたいと考え、村や町を行乞して巡ってバーラーナシーに着いた。それはバーラーナシー王が死んでから７日目であった。司祭官は菩薩の足に吉祥の相があるのを見て、潅頂して、後継ぎのいないこの国の王とした《即位》。友のダリームカは出家してヒマラヤ山中へ飛び去った。菩薩は栄誉の偉大さにダリームカのことを忘れていたが、40 年目に思い出した。そして50 年が過ぎたとき、ダリームカも菩薩を思い出した。「いまや彼は歳をとり、息子や娘も大きくなった。

正しい道を説いて出家させよう（ idAni so mahallako puttadhItAdIhivuddhippatto, gantvA dhammaM kathetvA pabbAjessAmi tan）」と考えて、菩薩と再会した。菩薩は長子に王位を取らせ、出家《隠棲》した。〈10〉ダリームカ（DarImukha）/男/バラモン（司祭官の息子）/16 歳①　16 歳《遊学》⇒②　《学業の修了》⇒③　《隠棲》JAtaka378DarImukha-j.（vol.Ⅲ　p.238）：〔主分〕上記、王の司祭の家のブラフマダッタ・クマーラと同日生れの子。彼らは16 歳（soLasavassa）の時にタッカシラーへ行ってあらゆる学芸を学んだ《遊学》。さらに国々の風俗習慣も学びたいと考え、村や町を行乞して巡ってバーラーナシーに着いた。ダリームカはその後ヒマラヤ山中に隠棲した《隠棲》。〈11〉カンハ・クマーラ（KaNhakumAra）（菩薩）/男/バラモン/16 歳①　16 歳《遊学》⇒②　《学業の修了》⇒③　《結婚》JAtaka440KaNha-j.（vol.Ⅳ　p.006）：〔主分〕菩薩は８億の財産を有する婆羅門の妻の胎に生まれ、カンハ童子と名づけられた。16 歳（soLasavassa）の時、父親に遣わされてタッカシラーであらゆる学芸を修して帰って来た（sabbasippAniuggahetvA paccAgaJchi）《遊学/学業の修了》。それから父は彼に相応しい娘を娶らせ《結婚》、その後、父母が亡くなると、あらゆる主権を継承した。〈12〉アキッティ（Akitti）（菩薩）/男/バラモン/16 歳①　16 歳《遊学》⇒②　《学業の修了》⇒③　（両親の死後）《隠棲》JAtaka480Akitti-j.（vol.Ⅳ　p.236）：〔主分〕菩薩は80 コーティも財産を所有する婆羅門の富豪の家に生まれ、アキッティと名づけられた。彼が立って歩けるようになった時、妹が生まれ、ヤサヴァティー（YasavatI）と名づけられた。菩薩は16 歳（soLasavassa）になると、タッカシラーへ行って勉強し、あらゆる学芸を学び終えて帰って来た（sabbasippAni uggaNhitvA paccAgamAsi）《遊学/学業の修了》。彼の両親はまもなく他界し、妹と共に出家した《隠棲》。〈13〉ジョーティパーラ（JotipAla）（菩薩）/男/バラモン/16 歳①　16 歳《遊学》⇒②　16 歳（７日後）《学業の修了》⇒③　16 歳《就業》JAtaka522SarabhaGga-j.（vol.Ⅴ　p.127）：〔主分〕ジョーティパーラは成長して（vaDDamAna）16 歳（soLasavassa）になると、この上もない容姿をしていた。それを見て、父は息子にタッカシラーへ行って四方に名高い師匠のもとで学芸を修めるように言った。彼は千金を出して学芸を教わったが、７日目にして奥義に達した《遊学/学業の修了》。師匠は老いたことを理由に500 人の青年バラモンを彼に託した（sippaM paTThApetvA satthAhen&apos; eva nipphattiM pApuNi）《就業①　》。菩薩はすべてを引き受け、バーラーナシーに戻ると、毎日千金をもらって王に仕えた《就業②　》。〈14〉シヴィ・クマーラ（SivikumAra）/男/クシャトリヤ（王子）/16 歳①　16 歳《遊学》⇒②　《学業の修了》⇒③　《即位》JAtaka527UmmadantI-j.（vol.Ⅴ　p.210）：〔主分〕シヴィ王子（菩薩）と王の将軍の子であるアヒパーラカは、ともに16 歳（soLasavassika）の時、タッカシラー

へ行って学芸を習って帰った（sippaM uggaNhitvA AgamiMsu）《遊学/学業の修了》。父王はシヴィ王子に位を譲り《即位》、新王はアヒパーラカを将軍の職につけた。〈15〉アヒパーラカ（AhipAraka）/男/クシャトリヤ（将軍の子）/16 歳①　16 歳《遊学》⇒②　《学業の修了》⇒③　《就業》JAtaka527UmmadantI-j.（vol.Ⅴ　p.210）：シヴィ王子（菩薩）と王の将軍の子であるアヒパーラカは、ともに16 歳（soLasavassika）の時、タッカシラーへ行って学芸を習って帰った《遊学》。父王はシヴィ王子に位を譲り、新王はアヒパーラカを将軍の職につけた《就業》。〈16〉一梵志/男/バラモン/20 歳①　20 歳《学業の修了》⇒②　20 歳《遊学》⇒③　《比丘》『法句譬喩経』（大正04　p.587 上）：昔有梵志其年二十。天才自然事無大小過目則能。自以聰哲而自誓曰。天下技術要當盡知。一藝不通則非明達也。於是遊學無師不造《遊学》。六藝雜術天文地理。醫方鎭壓山崩地動。　　博奕妓樂博撮。裁割衣裳文繍綾綺。厨膳切割調和滋味。人間之事無不兼達。......盡心受學月日之中。具解弓法所作巧妙乃踰於師。......月日之中知其逆順。御船迴旋乃踰於師。......月日之間具解尺寸方圓規知。彫文刻鏤木事盡知。天才明朗事輒勝師。......佛言沙門善來鬚髮自墮即成沙門《比丘》。佛重爲説四諦八解之要。尋時即得阿羅漢道（1）。（1）上記の外に次のような資料も存する。ただし同列には扱えないので参考として掲げる。舎利弗/男/バラモン/16 歳『中本起経』（大正04　p.153 下）：吾小好學。八歳從師。至年十六。古仙道術。靡書不綜。十六大國。謂吾廣博。未曾聞斯眞要之義。今偶出遊。遇此寶藏。［2］上記のように、遊学記事はパターン化しているから、統計的処理をする必要も感じられないが、今までと同様の作業を行っておく。［2-1］遊学年齢のA 文献・B 文献資料を度数分布表にしてみると以下のようになる。《遊学年齢》年齢Ａ．原　始　仏　典Ｂ．後　期　仏　典総計パーリ漢　訳JAtaka,ApadAna本縁部・根本有部律男女男女男女男女8 1 116 15 1520 1 1平　均15.8最頻値16総　計1 15 1 17

　［2-2］上記の表をヒストグラムで表すと次のようになる。遊学年齢024681 01 21 41 68 9 1 0 1 1 1 2 1 3 1 4 1 5 1 6 1 7 1 8 1 9 2 0年齢［2-3］A 文献（１件）、B 文献（16 件）を合わせた学業の修了年齢の最頻値は16 歳（度数15〔相対度数88.24〕）となっている。A 文献は８歳でとった１件のみ、B 文献の最頻値は16 歳（度数15〔相対度数93.75〕）である。平均を強いて出せば、B 文献の平均は16.3 歳、A 文献・B 文献を合わせた平均は15.8 歳である。［3］上記に基づいて若干の考察を施しておく。［3-1］A 文献は1 例のみであり、瑠璃王子はコーサラ国王波斯匿の王子であるが、特別な因縁のあったカピラヴァットゥのマハーナーマのところに遊学したというのであるから、特殊ケースとして無視してよいであろう。［3-2］B 文献はそのほとんどがジャータカであって、しかもパターン化され、16 歳の時に、学芸を学ぶために、タッカシラーに遊学したとされている。これについて、山崎元一博士は、『古代インドの王権と宗教』（刀水書房　1994 年p.199）において、「前記の分類表から知られるように、ジャータカに登場しその生涯がある程度判明する王のうちの過半数が、王子時代にタクシラに遊学している。物語中で特にそれとは言及されないが、遊学の可能性のある王も多い。そこで問題になるのは、こうした話が現実をどの程度物語っているかということであるが、個々の記事に当ってみると、ジャータカの常套句とみられるものが多い。話の内容から、物語編者が王に対して抱く理想の一端を窺い知ることができるが、常識的に言って、現実の王の多くが青年期にこうした遠国での遊学生活を送ったとは考えにくい。禁欲的修学を一六歳までとする『実利論』の記事の方が、現実をより反映しているとみてよかろう」とされる。もっともなご意見であろう。また中村元博士は『原始仏教の成立』中村元選集〔決定版〕第14 巻（春秋社　1992 年11 月）「〔付編〕原始仏教聖典成立史研究の基準について」（p.657）において、「西北インドのタクシャシラーの大学へバラモンや資産者（gahapati）の子弟が技芸を習いに行くという記事が仏典の散文の部分のうちに盛んに現われる。ところがこのことがガーターの部分には現われない。もしもインド全体の統一ができて、立派な交通路が設定されているのでなければ、ベナレスのあたりからタクシャシラーのような遠いところへ修学に行くことは困難であり、また父兄も子弟を送らなかったであろう。また遊学の謝礼金として貨幣をもって行

くのであるが、ある程度まで通貨の流通が円満に行なわれているのでなければ、このようなことは無意義である。またわざわざ西北インドまで遊学するのは、当地の大学の西方のギリシアやペルシアの技術を摂取していたからにほかならない。ゆえにタクシャシラー大学への遊学を説く『ジャータカ』の散文などはマウリヤ王朝時代、あるいはそれ以後のものである」とされる。ただし具体的な年齢が示されていないので、本資料では扱っていないが、A 文献にJIvaka-KomArabhacca が分別を得た（viJJUtaM pApuNi）ときに、タッカシラーに行き、７年間医術を学んだとする記事が見いだされ（1）、この記事はむげに否定することはできないように思われる。中村博士が「インド全体の統一ができて、立派な交通路が設定されているのでなければ」、遠い西北インドまで遊学できないとすれば、釈尊や仏弟子たちが盛んに行った遠方までの遊行まで否定しなければならないことになる。確かに山崎博士の言われるように、王の多くがその若いときに、遠いタッカシラーまで遊学したとは信じられないが、しかしまったく考えられなかったわけではないとしなければならないであろう。したがって、むしろこの16 歳の遊学は、基礎的な学業の修了が16 歳であったことを裏付けるものと考えるにとどめた方がよいかも知れない。（1）VinayaCIvarakkhandhaka（vol.Ⅰ　　p.269）、『四分律』「衣揵度」（大正22　p.851 上）、および【資料集1-2】p.205 参照。
 
        
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