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    <title>釈尊伝</title>
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    <title>現地調査の目次</title>
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    <published>2011-10-07T04:32:43Z</published>
    <updated>2011-10-07T06:28:52Z</updated>

    <summary> 　【文書12】 　　　　死後・輪廻はあるか 　　　　　　−−「無記」「十二縁起...</summary>
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        <name>釈尊伝</name>
        
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        <![CDATA[<p> 　【文書12】<br />
　　　　死後・輪廻はあるか<br />
　　　　　　−−「無記」「十二縁起」「無我」の再考−−</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　森　章司</p>

<p>　　はじめに</p>

<p>　仏教では、原始経典から大乗経典そして密教経典にも、またインドから東南アジア・中国そして日本において書かれた祖師たちのどんな著作にも、当然のことながら輪廻や解脱しないかぎりは死後にも生が続くということが書かれている。いまさらその証拠を上げる必要もないであろう。したがってこういう前提に立って死者の冥福を祈る葬送儀礼も営まれてきたし、もし死んで無に帰すとするならば、仏教の世界観・人生観は大きく変わることになるであろう。<br />
　ところが現代日本の仏教学者たちの中には、仏教の説く輪廻や死後は単なる俗説で、それは真の仏教の教えではないとする者が多い。いや圧倒的多数と言うべきかも知れない。例えば以下のように説かれている。当該の書籍が発行された年代順にしたがって紹介する。ただし管見に触れたもののみであり、網羅的に調査したものではない。またこれらの書籍が発行された後で、その見解を訂正された場合もあるかも知れない。もしそういう場合があれば、その著者にはご寛恕を願いたい。</p>

<p>　赤沼智善『原始仏教之研究』（1926年の講演に基づく。1981年5月の法蔵館による復刻版による。pp.70〜71）：三界を三世に亘って輪廻するといふ説相も、その真意が、決して単なる素朴的な客観的なものでないことが解るのである。後世の仏教が、輪廻のことをやかましくいふのは、原始仏教の末期頃から、正統婆羅門教の輪廻思想が撚を戻して、仏教内に混入し、それに本生譚文学が働いて来た結果であると思はれる。（中略）それ故に、仏教の輪廻観は、決して印度の正統派の教理のやうな、単なる素朴的客観的なものでなく、これを我々の現実の生活の上に拉し来って、迷妄の心の所産の生活及び世界を示したものである。<br />
　和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』（1927年2月　岩波書店　p.444）：過去世に於て自分が何であり如何にあったかを説く一切の本生譚や、未来世において自分が何であり如何にあるであらうかを考へる一切の輪廻説は、存在の真相を解せざる凡夫の立場に於て起ったものに過ぎぬ。凡夫の立場に於てはこれらの想像の世界は現実の世界と同じ力を以て人の心に働きかけるであらう。しかしこの想像の世界は形而上学的実在性を持つものではなくしてただ法に基いて有るものである。凡夫の立場が止揚せられるときそれらの一切も止揚せられる。かく考へれば輪廻思想と縁起説を同じ高さの立場に於て結合することの不合理は明らかであると思ふ。<br />
　増谷文雄『仏教論』（1935年12月　理想社出版部　pp.120〜121）：これら不死永生のねがひの種々相は、これら仏教以外の印度に於ける諸々の思想体系のうちに発見しうるのみならず、仏教そのものの中に於ても、息災延命の祈願として、転生輪廻の思想として、また極楽浄土の観念として、きはめて重要なる部分をしめてゐるのであるが、しかし、厳密なる研究の結果によれば、それらは結局、仏教本来の立場における第一義的な原理ではなかったと言ひうるやうである。<br />
　宇井伯寿『仏教思想研究』（1943年1月　岩波書店　p.100）：輪廻の如きも、之を事実と見なすことはあり得ないことである。若し、仏陀自ら輪廻について説いたことがあったとしても、それは、全く、要請たるに留まると見て居たと考へられるのみである。然し、仏陀の説法教化の態度は、後世いふ如く、随機説法であり、応病与薬であって、其対者に応じて、適宜に、善導をなすから、若し、その対者が、例へば、輪廻を事実として信じて居るとすれば、それが大害にならざる限りは、一応、其ままに、許して置いて、或は、徐ろに真説を教へ、或は、善行に努めしめる方針であったと考へられる。<br />
　舟橋一哉『業の研究』（1954年5月　法蔵館　pp.25〜26）：今日学界においては、大体において次のやうに考へられてゐる。釈尊は出家の者に対して勝義の立場から説法せられる時には、事実としての輪廻を積極的に認めることはせられなかったが、在家の者に対して世俗の立場において説法せられる時には、方便の説法として、これを認めるやうな説き方をせられたこともあったであらう、と。（中略）衆生の死後における有無が、仏教の勝義の立場からは、無記であるといふことは、釈尊が勝義の立場では輪廻を積極的に肯定されなかったことを示してゐる。<br />
　雲井昭善『仏教興起時代の思想研究』（1967年3月　平楽寺書店　p.406）：釈尊の輪廻観は、まさしく生死苦に逼悩された有情の姿を、その宗教的価値において説示したものであると理解できる。その限りにおいて、仏教の根本的態度は、輪廻をあくまで仮の世界と見ていたと言ってよかろう。<br />
　水野弘元『原始仏教』（1956年6月　平楽寺書店　pp.68〜69）：元来業報説（この前段では「業報輪廻の説」と表現されている。筆者）は仏教の教学からすれば、低い立場の通俗説に過ぎない。それは業報説が当時の民衆の一般常識であったのであるから、仏教でも先ず、人々がこの常識すらも信じないような異端邪説を抱いているのを是正して、正しい常識的な業報説に向かわせるようにしたのである。したがって業報説は当時の正しい常識説に過ぎず、それから進んで仏教本来の立場に入らせるための予備的な前段階のものに過ぎなかった。仏教本来の立場といえば、それは四諦説や縁起説の上に立つものである。<br />
　ひろさちや『仏教のことば・考え方』（1979年5月　pp.92〜95）：（「この宇宙は、有限か無限か、肉体と霊魂とは、一つであるのか否か、そして、人間は死後も存在し続けるのか」という無記説を紹介した後で）釈尊は見事な比喩によって、青年に、形而上学的な問題に熱中することの危険を教えられたわけである。だから我々も、死後の世界があるのか否か、といった哲学的論議にかかずらうことをやめるべきである。......現代日本人の千人中九百九十九人までが、極楽や地獄の実在を否定するにちがいない。それはそれでいいのだと私は思う。</p>

<p>　以上に紹介したそれぞれの世代を代表する仏教学者たちは、すべての仏教経典のあるいは祖師たちの著作に輪廻や死後の世界が説かれていることは否定できないから、そこでこれを「低い立場の通俗説」で、「凡夫の要請によって説かれた」「仮の世界」と認めたうえで、しかし「第一義的な原理」ではなく、また「勝義の立場」ではなく、だから縁起説や四諦説と同じレヴェルのものと捉えてはならず、したがって「死後の世界があるのか否か、といった哲学的論議にかかずらうことをやめるべき」であるとするのである。<br />
　これに対して輪廻や死後の世界を仏教の教えとして認める学者は少数派で、例えば次のような学者がいる。これも管見に触れた範囲での紹介である。</p>

<p>　玉城康四郎『仏教の思想2　大乗仏教』（1985年6月　法蔵館　p.230）：死後の存在を確信するということだけではもとより最終の解決にはならない。そこでつぎに起こってくる問題は、死後はあるとして、一体われわれはどうなるかという恐怖である。業の思想の示すところによれば、それはまさに死に至るまでの業報によって決定される。仏教では、地獄・餓鬼・畜生から菩薩・仏までの十界を教えているが、実際われわれが死んだ後の状態は、それよりはるかに複雑なものであろう。というのは現在生きている人間の世界だけでも全く千差万別であるからである。<br /></p><p>
　中村元『原始仏教の思想Ⅰ』（中村元選集［決定版］第15巻　1993年8月　春秋社　p.652）：すでに初期の仏教において輪廻（saṃsāra）を説いていたし<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（1）</font></font>、また輪廻の道（magga）をも考えていたようであるが<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（2）</font></font>、経蔵の末期においては、積極的に輪廻の主体を想定する思想が、仏教徒の主張として表明されている。その代表的なものは『パーヤーシ経』<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（3）</font></font>である。（原著が註として掲げるのは、（1）Sn.517;519;638;729;740;746;752、（2）Sn.582、（3）DN.23、「長阿含経」弊宿経、である）</p><p>
　中村元・三枝充悳『バウッダ』（1987年3月　小学館　p.181）：この生まれ変わりである「輪廻」は「転生」とも呼ばれる。この鉄則を「生あるもの」は決して逃れることはできない、という考えが、インド人すべてを支配し、仏教もそれを奉ずる。</p>

<p>　以上は第一義として、あるいは勝義として説かれたと解釈していたかどうかは判らないが、しかし輪廻や死後の世界が仏教の教えとして説かれていたことを認めていると判断することができる。<br />
　もちろん仏教学者がそれぞれの人生観あるいは世界観として、輪廻や死後を認めようとも、あるいは認めまいとも、それは自由である。しかし上に紹介したものは仏教そのものが輪廻や死後をどう考えていたかという解釈であって、個人の人生観・世界観を表白したものではない。もしその仏教が輪廻や死後の存在を説くのは通俗の仮の教えであって、第一義・勝義ではないとするなら、葬送儀礼を主要な活動領域とする現代日本の仏教はその存在意義を失うと言ってよいであろう。<br />
　恐らくこれらの議論の根拠になっているのは、舟橋一哉氏やひろさちや氏の文章中にあるごとく「人間は死後も存在し続けるのか否か」という問いに釈尊は無言をもって答えられたという「無記」説と、第二には和辻哲郎氏あるいは水野弘元氏の文章中に見られる「（十二）縁起」説と、明確には現れていないが、第三には「無我」説があるのではないかと考えられる。すなわち仏教が勝義において輪廻や死後の世界を説くとするなら、「人間は死後も存在し続けるのか否か」という問いに明確に「存続する」と説かれているはずであるし、十二縁起を三世両重的に解釈するのは後世の通俗的解釈であって第一義的には論理的に解釈すべきであるから、輪廻は縁起説にとって本質的なものではないし、仏教が「無我」を旗印にするなら輪廻する主体を措定することができないから仏教が輪廻を説くわけがない、ということであろう。<br />
　しかし果たして仏教が輪廻や死後の世界を説くのは、通俗説であって第一義ではなかったのであろうか。そこで上記の「無記」説・「十二縁起」説・「無我」説を、輪廻や死後があるかないかという視点から再考してみたい。<br />
　もっとも以下の論考は現在我々が持っている、原始仏教聖典と称されるパーリのニカーヤやヴィナヤ、あるいは阿含経や律を材料とするものであって、これらが少なくとも原始仏教と呼ばれる仏教の教えを示していると理解して行うものである。しかしながらこれらは実は後世のものであって、釈尊の教えを含んでいない、これらは仏教ではない、本当の仏教はこの外にあるという聖典観があるとするなら、以下の論述は意味をなさないかも知れない。しかしもしそのような聖典観をもって仏教を語るとするならば、その人が「仏」でないかぎり、その人独自の人生観・世界観を表白したものとみなさなければならないであろう。</p>

<p>　1、「無記」説の再考</p>

<p>　通常の十無記（十難）は次のような内容で、これらに釈尊は無言をもって答えられたとする。<br /></p><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><p>（1）世界は常住であるか（sassato loko）、世界は常住ではないか（asassato loko）</p><p>
（2）世界は無辺であるか（antavā loko）、世界は無辺ではないか（anantavā loko）</p><p>
（3）霊魂と身体は一つであるか（taṃ jīvaṃ taṃ sarīraṃ）、霊魂と身体は別であるか（aññaṃ jīvaṃ aññaṃ sarīraṃ）</p><p>
（4）如来は死後に存在するか（hoti tathāgato param maraṇā）、如来は死後に存在しないか（na hoti tathāgato param maraṇā）、如来は死後に存在しかつ存在しないか（hoti ca na ca hoti tathāgato param maraṇā）、如来は死後に存在するのでもなくかつ存在しないのでもないか（n'eva na hoti na na hoti tathāgato param maraṇā）</p></blockquote><p>
　この外に十四無記があるわけであるが、これは世界は常住かつ無常、常住でもなくかつ無常でもない、世界は有辺かつ無辺、有辺でもなくかつ無辺でもない、を加えたものである。<br />
　三枝充悳氏の『初期仏教の思想』<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（1）</font></font>によれば、（1）と（2）は普通は上記のように「世界」が主語であるが、十四難のうちの『長阿含』28と30は例外的に「我世間」として「我」が入る。ただしこれらは厳密に言えば前者は十六難、後者は十二難と呼ぶべきで、十難・十四難としては上記のものを論ずればよいとされている<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（2）</font></font>。このように世界に我が付け加えられるものが生じたのは、『梵網経』の六十二見のなかのアートマンが混入されたというのが、博士の見解である<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（3）</font></font>。<br />
　もちろんここで問題となるのは（4）であるが、三枝博士の調査によれば、すべては「如来」とされ、これについては例外はない。ただしこれはパーリの五ニカーヤと漢訳の四阿含経を対象としたものであって、後述するようにその他の典籍には例外もある。しかし一般的に体系的な原始仏教聖典として扱われることの多いのは五ニカーヤと四阿含経で、これらの中では少なくとも文面上で問題となっているのは「如来」であって、舟橋一哉氏やひろさちや氏が言うように「衆生」「人間」が主題となっているのではない、ということができる。<br />
　ところが宇井伯寿氏は『印度哲学研究』第3のなかで「十問又は十四難の最後の四句の主題たるタターガタが仏陀を如来と呼ぶのと同一なる為に、これだけに関する四句が特別に意義あるものとせられて居るのを見受ける。詭弁論の場合にはタターガタは如来すなわち仏陀を指したのではないことはいふまでもないし、十問の場合でも決して仏陀の死後の存在不存在を問題としたものではないに相違ない。（中略）今眼前に生存して居る仏陀の面前に於て、又はその仏陀に向かって、仏陀如来は死後存するや存せざるや等の四句が論ぜられ、または問はれたとは、事実上、到底考へらるべくもない」<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（4）</font></font>とされている。<br />
　また仏教辞典までもが「如来」は衆生を意味するとする。例えば『岩波･仏教辞典』は「無記」の項の解説で「釈尊が他の思想家達から世界の常･無常、有限･無限、霊魂と身体との同異、死後の生存の有無など14の形而上学的質問を受け、論争を挑まれたが、沈黙を守って答えなかったことを言う（下線は筆者。以下同じ）」<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（5）</font></font>とし、『新版・仏教学辞典』は「無記」の項の解説でもっと明確に、「（9）如来（ここでは衆生を意味する）は死後に有であるか、（10）無であるか、（11）有にして無であるか、（12）有でも無でもないか（番号は原著が付した無記の番号であって、筆者の整理した番号ではない。筆者註）」<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（6）</font></font></font>としている。<br />
　このような解釈の根拠は、『岩波･哲学思想事典』が「無記」の項の解説で「なおまた註釈家のブッダゴーサ（5世紀頃）は、最後の④のなかの『如来』を、いわゆる仏の称号の一つとしての如来ではなく、有情（satta）を指すと解釈する（この番号も原著が付した番号であるが、その整理のしかたは筆者と等しい。筆者註）」<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（7）</font></font>とするように、ブッダゴーサ（Buddhaghosa）のアッタカターに求められていることが判る。<br />
　このアッタカターとはSumaṅgalavilāsinī  であって、ここでは確かに「如来は死後にあるかないか等というなかの'tathāgata'は'satta'（有情）の趣意である（hoti tathāgata ti ādisu satto tathāgato ti adhippeto）」<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（8）</font></font>としている。しかしこれはDN.1の"Brahmajāla-sutta"（『梵網経』）の他生（para loka）はあるかないか、化生の有情（satta opapAtika）は存在するかしないか、善悪の業の異熟果（sukata-dukkatānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāka）はあるかないか、如来（tathāgata）の死後はあるかないか、についての質問に、あると考えればあると答え、ないと考えればないと答えるべきであるに拘わらず、愚痴（mandatta）・蒙昧（momūhatta）なるが故に、「そうとも考えない、そうではないとも考えない、その他であるとも考えない」と答える「詭弁論（amarā-vikkhepa）」<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（9）</font></font>のなかの'tathāgata'の註釈であって、ここでは'tathāgata'は「他生」「化生の有情」「善悪の業の異熟果」と併置されているし、しかも「あると考えればあると答え、ないと考えればないと答えるべき」であるに拘わらず、「愚痴・蒙昧」の故に「そうとも考えない、そうではないとも考えない、その他であるとも考えない」と答える「詭弁論」のなかに使われているのであるから、これは確かに「衆生」を意味するであろう。しかしこれをもって仏教の無記説のなかの'tathāgata'と同列に考えてよいかどうかは別の問題である。<br />
　実はこのアッタカターを取り上げて、'tathāgata'の意味を検討されたのは水野弘元氏であって、その「tathāgata（如来）の意義用法」なる論文の中で'tathāgata'の用例を綿密に検討されたうえで、「無記説におけるtathāgataも、仏教的な如来も、その起原は等しく、共に『生死輪廻を脱した完全者』の意味を含むものであったと思われる」<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（10）</font></font>と結論を下されている。<br />
　これを受けて石上善応氏も「無記説とパリバージャカ」という論文の中で、これも詳しく検討された後に「仏教の中で、如来はブッダのみと理解し、当時、如来は外に存在しなかったとして、一般の有情（＝人）と同義に解釈したことは、やはり無理があったとみなすべきであろう。ここで論じられている如来は完成された人を指している。いうならば、輪廻せざる完成者を意味しているものであろう」<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（11）</font></font>とされ、水野弘元氏の結論に賛意を表されている。<br />
　しかし水野弘元氏は上記論文の結論を述べられた次の項で、tathāgataに相当する部分が『別訳雑阿含』<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（12）</font></font>において「衆生神我」と訳され、『仏説邪見経』<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（13）</font></font>と『仏説箭喩経』<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（14）</font></font>に「如此」「此」と訳されることがあることや、『大智度論』の巻55あるいは70において<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（15）</font></font>「如来」を「如去」とも解釈していることから「この場合のtathāgataは一般衆生の意味であって、仏教的如来と違うことを説いているために、それにしたがって羅什も「如来」の訳語を用いなかったものであろう」<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（16）</font></font>とも述べられている。<br />
　しかしこの「衆生神我」は「アートマン」のことであって単なる「有情」ではないであろう。また「此」や『大智度論』の解説中の「如去」は、おそらく『別訳雑阿含』の「衆生神我死此生彼、若有若無、亦有亦無、非有非無、非非有非非無」という文章に関連するであろうが、「此」はおそらく「此の世」を意味するのであって、「神我」を意味するのではないであろうし、また「如去」が衆生を意味するとは考えられない。『大智度論』は「如来」の例として、定光仏・釈迦文仏を上げているからである。<br />
　また、博士は『大智度論』の巻2<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（17）</font></font>では「神」と訳されているのも論証とされているが、ここでは「何等十四難。世界及我常世界及我無常。世界及我亦有常亦無常。世界及我亦非有常亦非無常。世界及我有邊。無邊。亦有邊亦無邊。亦非有邊亦非無邊。死後有神去後世。無神去後世。亦有神去亦無神去。死後亦非有神去。亦非無神去後世。是身是神。身異神異」とされている。通常の十四難とは順序が異なるが、ここでは「如来」が「神」と訳されているのかも知れない。しかしこれもおそらくアートマンを意味すると思われるし、続いて「是身是神。身異神異」とされ、この「神」は「霊魂（jīva）」に当たるから、「神」は霊魂を意味するかも知れない。だからこれらをそのまま「衆生」と解釈するのは無理があるであろう。<br />
　なお水野氏は十無記の世間を「有情をも含む」<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（18）</font></font>と解されている。しかし前述したようにパーリの'loka'の部分を「我と世間」とするのは特殊例であり、しかもこのなかの「我」は三枝博士が言われるように、おそらく'ātman'を意味するのであって、これが「有情」をさすとは考えられないから、これを援用して無記は人間の死後に関して述べられたものと解釈するのは正しくないことは言うまでもない。このようにブッダゴーサの註釈からしても、無記説中の「如来」が衆生あるいは人間と解釈するのは誤りと言わざるを得ない。<br />
　これは原始聖典の「無記」説そのものを検討することによっても証明される。例えばSN.22-85では、ヤマカ（Yamaka）という比丘の「私は世尊が説かれた法をこのように理解しています。漏尽の比丘（khīṇāsavo bhikkhu）は身体の破壊によって、滅し、消失して（kāyassa bhedā ucchijjati vinassati）、死後は存在しない（na hoti param maraṇā）」（下線は筆者。以下同じ）という悪見（pāpaka diṭṭhigata）に対して、舎利弗は五蘊の無常・苦・無我を説いた後に、<br /></p><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><p>「友ヤマカよ、どうでしょうか（taṃ kiṃ maññāsi）。あなたは色（受・想・行・識）は如来であると見ますか（rūpaṃ tathāgato ti samanupassasi）」。「いいえ、友よ（no hetaṃ āvuso）」</p><p>「色（受・想・行・識）のなかに如来があると見ますか（rūpasmiṃ tathāgato ti samanupassasi）」「いいえ、友よ（no hetaṃ āvuso）」</p><p>「色（受・想・行・識）とは別に如来があると見ますか（aññatra rūpā tathāgato ti samanupassasi）」「いいえ、友よ（no hetaṃ āvuso）」</p><p>「如来は色・受・想・行・識であると見ますか（rūpaṃ vedanā saññā saṅkhārā viññāṇaṃ tathāgato ti samanupassasi）」「いいえ、友よ（no hetaṃ āvuso）」</p></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><p>「如来は無色・無受・無想・無行・無識であると見ますか（arūpī avedano asaññī asaṅkhāro aviññāṇo tathāgato ti samanupassasi）」「いいえ、友よ（no hetaṃ āvuso）」</p></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><p>「友ヤマカよ、ここに現法において真実・実際（diṭṭheva dhamme saccato thetato）に如来は無所得です（tathāgato anupalabbhiyamāno）。『私は世尊が説かれた法をこのように理解しています。漏尽の比丘は身体の破壊によって、滅し、消失して死後は存在しない』とあなたは記別できますか」</p></blockquote><p>
　　　この問答によってヤマカは悪見を捨てて、法を現観した（dhammo abhisameto）。<br />
と説いている<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（19）</font></font>。ここでは死後の有無に関する無記は「如来」もしくは「漏尽の比丘（khīṇāsavo bhikkhu）」のレヴェルで語られているのであって、衆生ではないことは明白である。<br />
　SN.44は「無記相応（avyākata-saṃyuttaṃ）」と名づけられた章である。その第1経は、<br /></p><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><p>　コーサラの波斯匿王は世尊に質問した。「如来は死後存在するか、......」と。世尊は「それは無記（avyākata）です」と答えられた。その理由を問われて、世尊はガンジス河の砂の量が計れるか、大海の水の量が計れるかと反問され、「如来を色（受・想・行・識）をもって示そうとしても、如来のその色（受・想・行・識）は捨てられ（pahīnaṃ）、根を断たれ（ucchinnamūlaṃ）、ターラ樹の幹が（切られたごとくになり）（tālāvatthukataṃ）、非存在となり（anabhāvakataṃ）、未来にも生じない（āyatim anuppādakataṃ）。だからガンジズ河の砂や大海の水のように計れないとおなじように、存在するというのも、存在しないというのも、存在し存在しないというのも、存在しないのでもなく存在しないのでもないというのも適当ではない（na upeti）」と説かれた。</p></blockquote><p>
とする<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（20）</font></font>。ここでは「如来」は色・受・想・行・識で示すことはできないというのであるが、衆生はもちろん色・受・想・行・識で示され、色・受・想・行・識で示されないということはない。もしそうなら仏教の旗印たる三法印（筆者の言う「無常・苦・無我」説）も成り立たない。「諸行無常」の諸行や、「諸法無我」の諸法はもともとは五蘊を指し、そもそもこれらは有情を指すからである。だから苦諦は要約すれば「五取蘊は苦である」とされるのである。したがってここで論議されている「如来」が衆生を意味するのではないことは明白である。<br />
　その第2経は<br /></p><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><p>　外道の沙門がアヌラーダ（Anurādha）比丘に語りかけた。「如来・無上なる人・最上なる人・最高の利得を得たかの如来は（tathāgato uttamapuriso paramapuriso paramapattipatto taṃ tathāgato）、これらの4つの処で示します（imesu catūsu ṭhānesu paññāpayamāno paññāpeti）。如来は死後存在する、存在しない、存在しかつ存在しない、存在せずかつ存在しないのでもない......」と。これに対してアヌラーダは「如来・無上なる人・最上なる人・最高の利得を得たかの如来は、これらの4つの処の外によって（aƀññatrimehi catūhi ṭhānehi）示します。如来は死後存在する。......」と答えた。外道の沙門たちは彼は愚痴蒙昧だと言って去っていった。</p></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><p>
　　そこでアヌラーダは世尊に確認をしに行った。世尊は無常・苦・無我説を問答体（五蘊は無常であるか、常であるか、無常であるものは苦であるか楽であるか、というように問答によって説かれるもの）で説いた後、「あなたは色（受・想・行・識）は如来であると見ますか。色（受・想・行・識）のなかに如来があると見ますか。色（受・想・行・識）とは別に如来があると見ますか。如来は色・受・想・行・識であると見ますか。如来は無色・無受・無想・無行・無識であると見ますか」と問い、アヌラーダがいちいち「いいえ」と答えると、「ここに現法において真実・実際に如来は無所得です。如来・無上なる人・最上なる人・最高の利得を得たかの如来を、如来は死後存在する、......これらの4つの処の外によって記別する（paññāpayamāno paññāpeti）のは適当ですか（kallaṃ nu taṃ veyyākaraṇaṃ）」と問われた。そこでアヌラーダは「いいえ、そうではありません」と答えた。世尊は「善哉、私は以前も今も、苦しみと苦しみの滅を知らしめる」と言われた。</p></blockquote><p>
とする<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（21）</font></font>。ここでは「如来」は「無上なる人・最上なる人・最高の利得を得たかの如来（tathāgato uttamapuriso paramapuruso paramapattipatto taṃ tathāgato）」と説かれている。一方色・受・想・行・識で示される有情は生老病死を繰り返すから、無常・苦・無我と説かれるのである。この経中の「如来」が衆生を意味するのでないことは明らかである。<br />
　第7経は　<br /></p><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><p>
ヴァッチャ姓の遊行者は大目連の所に行って尋ねた。「世間は常住ですか、......如来は死後存在しますか」と。大目連は「世尊は記別されませんでした」と答えた。......</p></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><p>
大目連は「その因と縁は如来・阿羅漢・正等覚者（tathāgata arahan sammāsambuddha）は眼（耳・鼻・舌・身・意）を『それは私のもの（etam mama）、それは私（eso ham asmi）、それは私のアートマン（meso attā）』と認めない。だから如来はこのように問われて『世間は常住である、......如来は死後存在せず存在しないのでもない、とも答えられなかったのです」と答えた。</p></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><p>
ヴァッチャ姓の遊行者はこれを世尊のところに行って確認した。世尊はこれを印可された。</p></blockquote><p>
とする<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（22）</font></font>。そして第8経では色・受・想・行・識について同じように説かれている。これらでは「如来」は「阿羅漢・正等覚者（arahan sammāsambuddha）」<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（23）</font></font>と呼ばれているのであって、この「如来」が「衆生」を意味するとは考えられない。<br />
　また第9経では<br /></p><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><p>
ヴァッチャ姓の遊行者は世尊に尋ねた。プーラナ・カッサパなど六師外道は弟子たちが死んでどこそこに生まれたと記別している。世尊もそのように説くが、しかしながら渇愛を尽し（acchejji taṇhaṃ）、結縛を断じ（vivattayi saJJojanaṃ）、驕慢を滅ぼすことによって（sammāmānābhisamayā）苦際を尽す（antaṃ akāsi dukkhassa）と説く。一体何がこの身を捨てて他の身に生まれる要素なのですか、と。世尊はそれは渇愛（taṇhā）であると説かれた。</p></blockquote><p>
とする<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（24）</font></font>。無記を議論するなかで渇愛のある者は死後があると明言しているのであって、死後の無記は「如来」に対しての議論であって、衆生の死後ではないことは明白である。<br />
　以上のように無記説の中の「如来」が「衆生」を意味するということはありえない。無記説は輪廻を解脱した「如来」についての死後の有無を問われたときに無記をもって答えたのであって、「衆生」の死後は明確にある、衆生は明確に「輪廻」すると説いているわけである。したがって無記説によって輪廻や死後の世界を説くのは通俗説であるとする根拠の第一は崩れる。</p>

<p>　2、「十二縁起」説の再考</p>

<p>　縁起説は勝義の説であって、死後の輪廻を説くことは世俗の説であり、両者は次元を異にするという見解は、おそらく十二縁起説を三世両重的に解釈するのは低俗ないしは後世の説であって釈尊の真意ではなく、本来は論理的に解釈すべきであるという考えに基づくのであろう。この最大の論拠は、「これあるとき彼あり（imasmiṃ sati idaṃ hoti)、これ生じるがゆえに彼生ず（imass' uppādā idaṃ uppajjati）、これなきとき彼なく（imasmiṃ asati idaṃ na hoti）、これ滅するがゆえに彼滅す（imass' nirodhā idaṃ nirujjhati）」という宇井伯寿氏の言うところの「相依縁起」が、縁起の真精神を表すと見るところにあるであろう。これは確かに縁起を論理的にも、空間的にも広げて解釈しうる定型句である。<br />
　しかしこの句は漢パの原始仏教聖典において45回現れるが、このうちの41回は十二縁起説の森のいう「説明型」に付帯して説かれ、独立して説かれるものは4回のみである（詳しくは拙著『原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究』1995年3月　東京堂出版　第5章を参照されたい）から、この句はおそらく本来は十二縁起説と関連してあるものであり、これを十二縁起と切り離して解釈することは不適切であろう。なぜなら十二縁起と関連して説かれるものは、<br /></p><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><p>
　これあるとき彼あり、これ生じるがゆえに彼生ず、これ無き時彼なく、これ滅するがゆえに彼滅す。すなわち（yadidaṃ）、無明によって行あり（avijjhāpaccayā saṅkhārā）、行によって識あり、......</p></blockquote><p>
というように示される。要するに「これ」とか「彼」というのは、十二縁起の各項目を指し示す代名詞であって、この句はこの十二項目の間の関係を通則的に示したものであるとしか解釈できないからである。そして十二縁起が縁起説としては遅い成立とするなら、この句もそう早くないはずである。<br />
　したがってこの句を独立させて解釈するのは、少なくとも原始仏教の縁起説の枠を越えるのであり、原始仏教の縁起説はあくまでも十二縁起を代表とする支分を有する縁起であると言わなければならない。それでは十二縁起はどのように解釈すべきであろうか。例えばSN.12-1<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（25）</font></font>、MN.9'Sammādiṭṭhi-sutta'<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（26）</font></font>などは、以下のように説く。<br /></p><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><p>
老死（jarāmaraṇa）とは何か。それぞれの衆生のそれぞれの衆生の部類における（tesaṃ tesaṃ sattānaṃ tamhi tamhi sattanikāye）老（jarā）・老衰（jIraṇatā）・（歯の）欠損（khaṇḍicca）・白髪（pālicca）・皺より（valittaccatā）・寿命の損減（āyuno saṃhāni）・諸根の爛熟（indriyānaṃ paripāka）、これを老という。それぞれの衆生のそれぞれの衆生の部類における死没（cuticavanatā）・破壊（bheda）・滅没（anataradhāna）・死亡（maccumaraṇa）・臨終（kālakiriyā）・諸蘊の破壊（khandhānaṃ bheda）・遺骸の放棄（keḷebarassa nikkheppa）、これを死という。</p></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><p>
生（jāti）とは何か。それぞれの衆生のそれぞれの衆生の部類における生（jāti）・誕生（sañjāti）・出生（okkanti）・生起（abhinibbatti）・諸蘊の出現（khandhānaṃ pātubhāva）・諸処の獲得（āyatanānaṃ paṭilābha）、これを生という。</p><p>
有（bhava）とは何か。三有（tayo bhavā）、すなわち欲有（kāmabhava）、色有（rūpabhava）・無色有（arūpabhava）、これを有という。</p><p>
取（upādāna）とは何か。四取（cattāri upādānāni）、すなわち欲取（kāmupādāna）・見取（diṭṭhupādāna）・戒禁取（sālabbatupādāna）・我語取（attavādupādāna）、これを取という。</p></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><p>
愛（taṇhā）とは何か。六愛身（cha taṇhākāyā）、すなわち色愛・声愛・香愛・味愛・触愛・法愛、これを愛という。</p><p>
受（vedanā）とは何か。六受身、すなわち眼触所生の受・耳触所生の受・鼻触所生の受・舌触所生の受・身触所生の受・意触所生の受、これを受という。</p><p>
触（phassa）とは何か。六触身、眼触・耳触・鼻触・舌触・身触・意触、これを触という。</p><p>
六処（saḷāyatana）とは何か。眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処、これを六処という。</p><p>
名色（nāma-rūpa）とは何か。受（vedanā）・想（saññā）・思（cetanā）・触（phassa）・作意（manasikāra）、これを名という。四大種および四大種所造の色、これを色という。</p><p>
識（viññāṇa）とは何か。六識身、すなわち眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識、これを識という。</p></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><p>
行（saṅkhārā）とは何か。三行、すなわち身行・口行・意行、これを行という。</p></blockquote></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><p>
無明（avijjā）とは何か。苦における無知（aññāṇa）、苦集における無知、苦滅における無知、苦滅道における無知、これを無明という。</p></blockquote><p>
　ここでは「生」も「老」も「死」も、生理的・生物的に解説されているのであって、論理的な解釈が入り込む余地はない。その前の「有」も「三有」すなわち地獄・餓鬼・畜生・人・天という輪廻転生するわれわれ衆生の生存の原理として解説されているのである。<br />
　これは漢訳阿含でも同様であって、例えば『中阿含』29「大拘絺羅経」<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（27）</font></font>では、老死、生、有を「云何知老。謂彼老耄頭白齒落盛壯日衰身曲脚戻體重氣上柱杖而行。肌縮皮緩皺如麻子。諸根毀熟顏色醜惡。是名老也」「云何知死。謂彼衆生彼彼衆生種類。命終無常死喪散滅。壽盡破壞命根閉塞。是名死也」「云何知生如眞。謂彼衆生彼彼衆生種類。生則生。出則出。成則成。興起五陰。已得命根。是謂知生如眞」「云何知有如眞。謂有三有欲有色有無色有。是謂知有如眞」と解説している。<br />
　要するに原始仏教の縁起説は、「無明」があるが故に愛･取という煩悩が起こり、これが再生（有）のもととなって、生老病死を断ちきることができない、ということを説いたものということができる。したがって三世両重ではないとしても輪廻を前提に解釈されていることは明らかである。確かに十二縁起説は新しいかも知れないが、より古いとみられる愛から始まる五支縁起にしても、その本意は変わらない。愛・取という煩悩があることによって、輪廻転生しなければならない生存の原理（有）が生じ、だから来世においても生・老死という苦しみを解決できないということを示すからである。<br />
　このことは他の主要な原始仏教の教えを見ても了解されうる。四諦のうちの苦諦は「生まれも苦であり、老いも苦であり、病も苦であり、死も苦であり、愁・悲・苦・憂・悩も苦であり、怨憎会も苦であり、愛別離も苦であり、求不得も苦であり、要をとってこれを言えば五取蘊は苦である（saṅkhittena pañc'upādānakkhandhā pi dukkhā）」と、いわゆる四苦八苦によって解説される。この中に「生」すなわち「生れる」ことが入っているのは、輪廻転生の「生」がイメージされているのは容易に想像することができる。現在すでにこの世に生まれてきているわれわれにとっては、もし再び生まれ変わることがないとするなら、すなわち輪廻が前提となっていないとするなら、「生れる」は「苦しみ」とはならないはずである。それは集諦が「再生をもたらし、喜・貪をともない、ここかしこにおいて歓喜するところの渇愛、いわゆる欲愛・有愛・無有愛である（yāyaṃ taṇhā ponobhavikā nandirāgasahagatā tatratatrābhinandinī, seyyath' īdaṃ: kāmataṇhā bhavataṇhā vibhavataṇhā）」とされることからも明らかである。すなわち渇愛は「再生」をもたらすから苦しみの原因なのであって、「生」が苦しみであるのも、渇愛があるかぎりさらに輪廻転生して生老病死を続けなければならないということが念頭に置かれているからである。<br />
　また「無常・苦・無我」説は拙著の『原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究』（第4章）で詳述した如く、五取蘊すなわち凡夫は無常・苦すなわち生老病死して、無我なるが故にそれを如何ともなしがたいが、無常・苦・無我なることを如実知見することができれば、「色において厭い離れ（rūpasmim nibbindati）、受において厭い離れ、想において厭い離れ、行において厭い離れ、識において厭い離れ、厭い離れて貪欲を離れ（nibbindam nirajjati）、貪欲を離れるが故に解脱し（virāgā vimuccati）、解脱するにおいて解脱したとの智が生じ（vimuttasmiṃ vimuttamiti nāṇaṃ hoti）、生已につき、梵行已に立ち、所作已に弁じ、更に後有を受けず（khīṇā jāti, vusitaṃ brahmacariyaṃ, kataṃ karanīyaṃ, nāparaṃ itthattāye）と知る（pajānāti)」とされる<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（28）</font></font>。すなわち如実知見すれば離貪し、解脱して、解脱した者は「生が尽きて」「後有を受けない」が、如実知見しえない者は、解脱できず、解脱できない者は「生は尽きず」「後有」が継続して、生死輪廻しなければならないという教えなのである。<br />
　このように「四諦」説や「無常・苦・無我」説などの原始仏教の教えは、すべて衆生は生老病死の「輪廻」の苦しみを繰り返すから、ここから解脱しなければならないという教えであって、縁起説とて例外ではないということである。とするならばむしろ輪廻は縁起説や四諦説や無常・苦・無我説の基礎になっているのであって、輪廻はこれらと一枚のものであり、先に紹介した仏教学者が言うように決してレヴェルが異なる低俗な教えではないということになる。</p>

<p>　3、「無我」説の再考</p>

<p>　先に紹介した中村元氏は『パーヤーシ経』をもって、原始仏教にも輪廻の主体を想定する思想があったとされる。しかしこの経は霊魂（jīva）は見ることができないが、だからといって輪廻がないとは言えないというものであって、これを霊魂が輪廻の主体であると説くと解釈するのは無理があろう。長阿含7「弊宿経」<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（29）</font></font>も同様である。<br />
　これ以外には、少なくとも原始仏教や阿毘達磨文献に限って言えば、霊魂の存在を示唆するものは見いだせない。十難の中に「身体と霊魂は一つであるか（taṃ jīvaṃ taṃ sarIraṃ）、身体と霊魂は別であるか（aññaṃ jīvaṃ aññaṃ sarīraṃ）」という問いが含まれるが、これは霊魂の有・無という問題に直ちには置き換えられないであろう。<br />
　それはさておき今どき、無我（anātman）の我（ātman）が霊魂を指すと解釈する者はいないであろう。だから仏教は無我を説き、輪廻すべき「霊魂」の存在を認めないから、仏教は勝義において輪廻を認めないという主張は成り立たない。<br />
　むしろ原始仏教の教えは「無我」だから輪廻するのである。それは無常・苦・無我説の導入部を見れば明らかである。それは<br /></p><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><p>
色は無我である（rūpaṃ anattā）。もし色が我であるならばこの色は病を起すということもないであろう（rūpaṃ ca attā abhavissa nayidaṃ rūpaṃ ābādhāya saṃvatteyya）。また色において『私の色はこのようであれ、私の色はこのようであるなかれ』とすることができるであろう（labbhetha ca rūpe evaṃ me rūpaṃ hotu evaṃ me rūpaṃ mā ahosIti） 。しかし色は無我であるからその故に色は病を起すのである（yasmā ca rūpaṃ anattā tasmā rūpaṃ ābādhāya saṃvattati）。また色において『私の色はこのようであれ、私の色はこのようであるなかれ』とすることができないのである（na ca labbhati rūpe evaṃ me rūpaṃ hotu evaṃ me rūpaṃ mā ahosīti）。......受・想・行・識......。</p></blockquote><p>
とされる<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（30）</font></font>。これは「無我」だから病気もし、これを如何ともなしがたいというのであって、けっして生老死が論じられているわけではないが、「病」は常に生老死とひとまとめにして把握されているのであるから、この文章を「生」にも「老」にも「死」にも敷衍して解釈することは許されるであろう。そうすれば「無我」であるから病気をするのと同様に、「無我」であるから老いもし、死にもし、また再生もしなければならないということになる。だからこそ五蘊は無常・苦とされるのであって、この「無常」「苦」が生老病死を意味することは、先に紹介した拙著に繰り返し繰り返し論じたところである。したがって仏教は「無我」を説くから輪廻を認めないというより、「無我」であるが故に輪廻するとされているわけである。<br /></p><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"></blockquote>　それでは仏教における「無我（an-ātman）」説のなかのアートマンは何を意味するのであろうか。先に紹介した無記を主題とするSN.44の第10経は<div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><p>
ヴァッチャ姓の遊行者は世尊に尋ねた。「アートマンはありますか（kiṃ nu kho bho Gotama atthattā）」と。世尊は黙っていられた。また尋ねた。「アートマンはないのですか（natthāttā）」と。世尊は黙っていられた。ヴァッチャ姓の遊行者は去っていった。</p><p>その様子を見ていた阿難が「どうして黙っておられたのですか」と尋ねた。世尊は「アートマンはある（atthattā）」と答えたら、常住論者（sassatavāda）に同じることになる。ないと答えれば断滅論者（ucchedavAda）に同じることになる」と答えられ、そして阿難に反問された。「もしアートマンがあるかと問われて『ある』と答えたら、諸法無我（sabbe dhammā anattā）という智が生じるのに順じるだろうか。もし『ない』と答えたら、愚昧なヴァッチャ姓の遊行者は前にはアートマンがあったのに、今はない（ahu vā me nūna pubbe attā, attāso etarahi natthi）と混乱（sammoha）がますます増大するだろう」と。</p></blockquote><p>
とする<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（31）</font></font>。ここでは「アートマン」の有無が、「如来の死後」と同様に無記とされているのである。<br />
　先にも書いたように原始仏教では無常・苦・無我を説くが、これは五取蘊を主語に語られる。要するに煩悩を有する凡夫は'anātman'とされるのである。さりとて上記のように、それでは如来のような煩悩を断じた者は'ātman'を有するとされているわけではない。しかし大乗の『涅槃経』では如来は「常・楽・我・浄」であって、「無常・苦・無我・不浄」と見てはならないとされている。仏はけっして「無我」ではなく、「我」すなわちアートマンを獲得した者として把握されているわけである。そして実は原始仏教でも、Paṭisambhidāmagga（『無礙解道』）には<br /></p></div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 40px; border: none; padding: 0px;"><div><p>
五蘊を無常として観じて随順忍を得（pañcakkhandhe aniccato passanto anulomikaṃ khantiṃ paṭilabhati) 、五蘊の滅は常である涅槃であると観じて、正性決定に入る（pañcannam khandhānaṃ nirodho niccaṃ nibbānaṃ ti passanto sammattaniyāmaṃ okkamati ）。五蘊を苦として観じて随順忍を得、五蘊の滅は楽である涅槃（sukhaṃ nibbānaṃ)であると観じて、正性決定に入る。......五蘊を無我として観じて随順忍を得、五蘊の滅は勝義である涅槃（paramattaṃ nibbānaṃ)であると観じて、正性決定に入る。</p></div></blockquote><div><p>
とされている<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（32）</font></font>。下線を施した部分は、今手元にあるNālandā DevanāgarI Pāli Series版やChaṭṭha Saṅgāyana CD-ROM版では'paramattha'とされているが、ここは五蘊が無常であるに対して、五蘊の滅は常である涅槃であるというように、病（roga）に対して無病（aroga）である涅槃、......空（suñña）に対して勝義空（paramasuñña）である涅槃、......有漏に対して無漏である涅槃、有為に対して無為である涅槃などと反対概念が掲げられるのであるから、ここは'paramattha'ではなく'paramatta'すなわち「勝我」と解すべきであろう。南伝大蔵経の訳者である渡辺照宏氏も「１本にはparamattaṃとあり。『勝性』又は『勝我』と訳すべきか」と註されている<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（33）</font></font>。このように解釈することが許されるとすれば、原始仏教にも涅槃や如来はアートマンとする考え方があったことが判る。そうすれば、原始仏教がアートマンが存在すると説かなかったのは、原始仏教の教えが凡夫を主題として、仏の境地を説くことがなかったまでの話ということになる。<br />
　もしそうなら、仏教のアートマンは実はウパニシャッドが説くアートマンと同じようなものを指していたと解釈することができるかもしれない。ウパニシャッドでもわれわれ衆生がアートマンと合一していないから輪廻を繰り返すとするのであって、構造的には仏教と共通しているということができるからである。<br />
　それはともかく、この「無常・苦・無我」説は先にも紹介したように、色受想行識が無常・苦・無我であることを如実知見すれば、色受想行識において厭離し、離貪し、解脱し、解脱したとの知見が生じ、「生已につき、梵行已に立ち、所作已に弁じ、再びこの状態に戻ってこないと知る」とされる。最後の句は原始仏教聖典での悟りを表す定型句であって、阿羅漢果を得たということを表し、この中の「再びこの状態に戻ってこない（nāparaṃ itthattāye）」という「この状態」というのは「輪廻の生存」をさし、この輪廻の生存を解脱するのが悟りということになる。ここからも無我説は阿羅漢果を得ないかぎり衆生は輪廻転生を繰り返すということを前提とする教えであることが解る。</p>

<p>　　結　語</p>

<p>　現代の多くの仏教学者が、仏教が輪廻・死後を説くのは通俗的な教えとしてであって第一義・勝義としてではないという根拠は、第1に無記説、第2に縁起説、第3に無我説の解釈の仕方によると考えられるが、以上によって少なくとも原始仏教聖典によるかぎりはそういう解釈は許されないということが論証されたものと信じる。要するに原始仏教でも輪廻や死後のあることは、縁起や四諦あるいは無常・苦・無我という仏教の第一義諦・勝義諦のレヴェルで説かれていた、いやむしろその根底にあったということである。<br />
　しかし仏教が無我を説く以上輪廻の仕組みを説明することが難しいのも事実である。そのために補特伽羅（pudgala, puggala）、非即非離蘊我、窮生死蘊、果報識、細意識、一味蘊、根本識などを説く部派が現われたとされる。また大乗瑜伽行派の阿頼耶識もその流れにあるものと考えられる。<br />
　したがって仏教が輪廻を説くとしても、それではそのシステムはどのようなものであったのかということは別の問題として立てられなければならない。しかしこれはまた別の論文として扱うべき大きな課題であるので、ここでは原始仏教が輪廻をどのように考えていたかというその基本的な姿勢だけを述べるに止めて、この論の結びとしたいと思う。<br />
　その基本姿勢というのは別に取り立てて説明するまでもない。われわれはいま生を受けて生きている。少なくとも母親の胎内から生れてから現在までとにかく生存を続けている。仏教の経典などが輪廻や死後を説くのを、仏教の本当の教えではないとする仏教学者も、この数十年という間、生存し続けてきたこと自体は否定しないであろうし、それをも無記とはしないであろう。またこの生存をも縁起で解釈してはいけないとも言わないであろうし、四諦説や無常・苦・無我説とは別の次元ともしないであろう。<br />
　原始仏教はこういう生存のあり方を五蘊で説明したわけであるが、このような五蘊としての生存が生前にも続いてきたし、死後にも続くと考えるのである。この世に死んで次の生に生れる前に「中有」という存在を認める考え方も（例えば説一切有部）、そのような存在のあり方を認めない考え方もあるが（例えば南方上座部）、「中有」を立てる考え方では、「本有」と次の「生有」の間に形式は違うけれども五蘊によって成り立っている存在がある、と考えるだけのことである。この「本有」にもし霊魂というものを考える必要がなければ、「中有」にも霊魂の存在を考える必要もないし、もし補特伽羅を考える必要がなければ死後にもそのようなものを考える必要がないということである。<br />
　仏教の考え方の基本は、短期的に考えれば昨日と今日の間にコンマを打ち、今日と明日の間にコンマを打てばすむことであるし、長期的に考えればこの世に生れてきたときにコンマを打ち、この世から去るときにコンマを打てばよいことであって、いずれにしても解脱を得ないかぎりは生存は続くというのである。確かに昨日の私と今日の私は、五蘊が消滅しながら連続しているとしても理解しやすいが、生前の私と死後の私の連続性を五蘊の相続で納得するのは難しい。しかし原始仏教聖典から輪廻を理解するとすれば、以上のようになるのではなかろうか。</p>

<p>注<br />
（1）東洋哲学研究所　1978年7月　pp.45〜54<br />
（2）p.50<br />
（3）p.59<br />
（4）岩波書店　1965年9月　p.292<br />
（5）岩波書店　1989年12月　p.781左<br />
（6）法蔵館　1995年4月　p.438中。なお、南伝大蔵経の第23巻のUdānaでも「十無記」中の「如来」に註を付して、「如来tathāgataの言語は有情・生類の意なり」と解説している。p.206<br />
（7）1998年3月　p.1565左<br />
（8）vol.Ⅰ　p.118<br />
（9）vol.Ⅰ　p.27<br />
（10）『印度学仏教学研究』5-1　昭和32年1月　p.50<br />
（11）『佐藤博士古稀記念　仏教思想論叢』山喜房仏書林　昭和47年10月9日　p.12<br />
（12）大正2　p.455中を指示されるが、実際には445中と448下である。<br />
（13）大正1　p.917上<br />
（14）大正1　p.917中<br />
（15）大正25　pp.454中以下、545下、547中<br />
（16）p.50<br />
（17）p.74下<br />
（18）p.49<br />
（19）vol.Ⅲ　pp.109〜<br />
（20）vol.Ⅳ　pp.374〜<br />
（21）vol.Ⅳ　pp.380〜<br />
（22）vol.Ⅳ　pp.391〜<br />
（23）vol.Ⅳ　pp.395〜<br />
（24）vol.Ⅳ　pp.398〜<br />
（25）vol.Ⅱ　pp.2〜<br />
（26）vol.Ⅰ　pp.49〜<br />
（27）大正1　p.462中〜<br />
（28）SN.22-59  vol.Ⅲ pp.66~67 、Vinaya  vol.Ⅰ p.13　他<br />
（29）大正1　p.44上〜<br />
（30）SN. 22-59  vol.Ⅲ  pp.66~67 、Vinaya  vol.Ⅰ p.13　他<br />
（31）vol.Ⅳ　pp.400〜<br />
（32）NDPS  vol.Ⅱ　pp.503〜505<br />
（33）南伝大蔵経41　p.199</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（2004.11.6）</p></div>]]>
        <![CDATA[<p><br />
［目次］</p>

<p>はじめに<br />
1,　「無記」説の再考<br />
2,　「十二縁起」説の再考<br />
3,　「無我」説の再考<br />
結語</p>]]>
    </content>
</entry>

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    <title>現地調査の概要</title>
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    <published>2011-10-07T04:32:06Z</published>
    <updated>2011-10-07T06:34:12Z</updated>

    <summary> ［論文の概要］ 　仏教では、原始経典から大乗経典そして密教経典にも、またインド...</summary>
    <author>
        <name>釈尊伝</name>
        
    </author>
    
        <category term="3-12【文書12】" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.sakya-muni.jp/">
        <![CDATA[<p><br />
［論文の概要］</p>

<p>　仏教では、原始経典から大乗経典そして密教経典にも、またインド、東南アジア、中国そして日本において書かれた祖師たちのどんな著作にも、当然のように輪廻や解脱しないかぎりは死後にも生が続くということが説かれている。しかしながら現代日本の仏教学者たちの多くは、仏教の説く輪廻や死後は単なる俗説で、それは真の仏教の教えではないと主張する。</p>

<p>　しかしはたして仏教が輪廻や死後の世界を説くのは通俗説であって、第一義ではなかったのであろうか。おそらくこれらの主張の根拠になっているのは、釈迦仏教の基本的な教えである「無記」「十二縁起」「無我」説であろうから、これらを輪廻や死後があるかないかという視点から再考したのが本論である。</p>

<p>　なお本稿は、東洋大学文学部発行の『東洋学論叢』第30号（東洋大学文学部紀要第58集　インド哲学科篇30　平成17年3月30日）に掲載されたものを、発行者の許可を得てここに転載させていただいたものです。記して謝意を呈します。<br />
　なお転載に際してもとの形式が崩れています。引用・参照される場合は元誌をご利用下さい。 </p>]]>
        
    </content>
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    <title>現地調査の概要</title>
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    <published>2011-05-12T06:32:02Z</published>
    <updated>2011-05-12T06:41:30Z</updated>

    <summary>［本報告の概要］ 　本研究の研究成果は全16冊にわたる「モノグラフ」の中に詳しく...</summary>
    <author>
        <name>釈尊伝</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.sakya-muni.jp/">
        <![CDATA[<p>［本報告の概要］<br />
　本研究の研究成果は全16冊にわたる「モノグラフ」の中に詳しく報告している。本報告会ではあらためて、この研究の意味や目的・方法論などをふりかえり、たとえば釈尊の行動パターンを明らかにすることや、釈尊の生涯を釈尊教団の形成史と発展史に重ね合わせるなどの基礎研究に力を注いだことにより、今まで詳らかではなかった釈尊の生涯の全体像を浮かび上がらせることができたことを報告した。 </p>]]>
        
    </content>
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    <title>現地調査の目次</title>
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    <id>tag:www.sakya-muni.jp,2011://1.571</id>

    <published>2011-05-12T06:29:01Z</published>
    <updated>2011-05-12T07:04:10Z</updated>

    <summary>　　「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」の研究成果報告 　　　　　　　　　　　...</summary>
    <author>
        <name>釈尊伝</name>
        
    </author>
    
        <category term="3-11【文書11】" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.sakya-muni.jp/">
        <![CDATA[<p>　　「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」の研究成果報告</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　森　章司</p>

<p>　＊本稿は立正佼成会が援助してくださっていた「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」が、昨年度（2010年度）末をもって一応の終結を迎えたため、2011年1月22日に立正佼成会の法輪閣会議室において行われた、その研究成果報告会の原稿として書かれたものです。報告会では時間の制約があって割愛せざるを得なかった部分もありますので、本稿には当日実際にお話させていただきました内容以外のものも含まれております。</p>

<p>はじめに<br />
　お早うございます。17年もの長きにわたる物心両面においての立正佼成会や皆さんの支えがなければ、この研究は成り立ちえませんでした。おかげさまでいまだ不十分ではありますが、今回ご報告するような成果を上げることができましたことを本当に喜んでおります。衷心より感謝申し上げます。ありがとうございました。<br />
　なおこの研究は私を代表者といたしまして、私の教え子の何人かに手伝ってもらっての共同研究という形で進めてまいりました。配布していただきました「資料」の［3］に、この間に私どもが刊行させていただきました論文名や資料集名を載せてあります。そこに担当者の名前が載っておりまして、これらの人たちでございます。本来ならばこの人たちもここにいなければならないのですが、今はちょうど卒業論文の審査や入学試験の時期に当たっておりまして、どうしても出席できないということでありますので欠席させていただいております。ご諒承ください。</p>

<p>この研究の意味<br />
　それでは早速本題に入らさせていただきます。この研究は「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」と申しますが、なぜこのような研究を志したのかということから、始めたいと存じます。<br />
　中村元先生の『ゴータマ・ブッダ』という大著や、水野弘元先生の『釈尊の生涯』などを代表として、釈尊の伝記を主題とした書物は外国のものも入れると240冊を上回るほどたくさんでておりますので、あるいはお釈迦さまの生涯はすでに明らかになっていると思っておられる方がいらっしゃるかも知れません。<br />
　しかしこれらの伝記の前半部分は菩提樹下の成道からはじまりまして、梵天勧請、初転法輪、ウルヴェーラ・カッサパなどの迦葉三兄弟の教化、マガダ国の王であったビンビサーラ王の帰依と竹林精舎の寄進、二大弟子といわれる舎利弗と目連の帰信と、釈尊が成道後はじめて生まれ故郷のカピラヴァットゥに帰られるところまででありまして、後半部分は釈尊が入滅される記事になっています。その中間にその他の記事が若干記されておりますが、それはわずかなもので、しかもそれらは年代記のなかに位置づけられておりません。したがって仏伝としては、前半部分と後半部分だけといってよいと思います。<br />
　スリランカの伝承によれば前半部分の成道からカピラヴァットゥへの帰郷まではちょうど1年間であり、後半部分の最後の入滅の記事もせいぜい1年くらいのものですから、釈尊45年間の布教活動の中心部分のほぼ43年間は空白のままに残されていることになります。</p>

<p>原始仏教聖典<br />
　ところでわれわれがこの研究のために用いた原始仏教聖典と呼ばれるものは、南方の仏教徒が使っているパーリ語で書かれた経蔵と律蔵、それに中国において漢訳された経蔵に相当する阿含経と、四分律、五分律などという「律蔵」がこれに当たります。このうちのパーリの経蔵と律蔵に含まれる経の数は、数え方によって違いが出てきますが、資料の［1］に書いておきましたように約6,500経くらいになります。これが南伝大蔵経という叢書では46冊に収められています。漢訳は１つの経が『法華経』のように複数回翻訳されるという場合がありますので、これよりも多く、両方併せれば15,000くらいの数になるでしょう。<br />
　そしてこれらには釈尊が「どこで」「だれに」「どのような法を説かれた」ということが書かれているのですから、実は原始仏教聖典は「釈尊の言行録」といってよいのです。いわばすべてが日記帳のようなものですから、これをもとに釈尊の伝記が書かれればよいはずなのです。ところが釈尊の完全な伝記がないというのはどうしたことでしょうか。<br />
　実はこの日記帳には肝心の「日付」が書いてないのです。ご承知のように仏教のお経はすべて「如是我聞。一時佛在王舎城耆闍崛山中。與大比丘衆万二千人倶」というような形で始まります。この中の「一時」は「あるとき」ということで、時間が特定されていないわけです。もし「一時」のところに、釈尊が何歳の時にとか、成道何年に、ということが書き記されていたとしたら、釈尊の伝記はいとも簡単にでき上がるということになります。しかしどういう理由によるものかわかりませんが、日付の部分が失われているために、せっかく日記帳が残っていても、伝記が書けないということになってしまっているのです。<br />
　しかしパーリの「律蔵」の「大　度」、漢訳では「受戒　度」にあたりますが、これにはお釈迦さまが成道されるシーンから始まりまして、お釈迦さまがカピラヴァットゥに帰られるシーンまでが記されています。これは誰が見てもお釈迦さまが成道された直後のことであることは明らかですから、中村先生も水野先生もこれを利用して、『ゴータマ・ブッダ』や『釈尊の生涯』の前半部分を書かれたのです。<br />
　また「大般涅槃経」という経典は、王舎城の耆闍崛山すなわち霊鷲山で不退法を説かれるところから始まり、お釈迦さまがクシナーラーの沙羅双樹のあいだで入滅されるシーンで終わります。これは誰が見ても、お釈迦さまの生涯の最後の部分の記録であるということがわかりますから、中村先生も水野先生もこれを利用して、『ゴータマ・ブッダ』や『釈尊の生涯』の後半部分を書かれたのです。<br />
　実は2,000年も前からいくつもの「仏伝経典」と呼ばれるお経が編集されていますが、これらも全部同じです。要するに古今を問わず、洋の東西を問わず、釈尊の伝記が書かれた書物は「受戒　度」と「涅槃経」をネタにしているのです。<br />
　この「大　度」と「大般涅槃経」という経典は、先に申し上げましたパーリの経典が6,500ほどある、その中のたった２つにあたります。仏伝経典の作者も中村先生も水野先生も、お釈迦さまの伝記を書かれる時に、6,500もある原始仏教聖典の中のたった２つしか使っていないということになるわけです。これらの記述をどれだけ詳しく紹介するか、どのように解釈するか、どのように色付けするかによって、たくさんの「釈尊伝」が生まれているにすぎません。<br />
　<br />
研究の目的<br />
　このように釈尊の生涯はいまだ明らかにはなっておりません。そこで私たちは釈尊の成道から入滅に至るまでの、釈尊の全生涯をカバーする「年譜」を書き、6,500のすべての原始仏教聖典が釈尊が何歳の時に説かれたものかということを特定した「目録」を作り上げたいというおおそれた野望を抱きました。そして曲がりなりにもできあがりましたのが、研究成果報告書として提出させていただきました「釈尊および釈尊教団史年表」と「釈尊年齢にしたがって配列した原始仏教聖典目録」です。<br />
　まだ「年表」は46ページという薄っぺらいものですし、「目録」の方も、原始仏教聖典のすべてがきっちりと釈尊の何歳の時と特定できているわけでありません。ほとんどの経典が「何歳から何歳くらいまで」の経とか、「何歳以後の経」といった程度に終わっておりまして、特定できているのは1割弱程度のものではないかと思います。しかも１つ１つの経の内容は、私たちがコンピュータに蓄積していた生のデータをそのまま編集したものですから、万事整備されておりませんので、公表させていたがくところまでには至っておりません。<br />
　しかしその質はともかくとして、「釈尊の生涯をカバーした年表」とか「釈尊がいつ説かれたかということを基準にして配列した聖典目録」などを作ることができるなどとは、世界中の仏教学者のだれも夢想だにしなかったことだと思います。いまだ不十分なものですが、仏教の歴史2500年の間に誰もなしえなかったことを成し遂げたということで、共に誇りに思っていただいてよいのではないかと思います。</p>

<p>研究の方法<br />
　ところで皆さんは、これら「年表」や「目録」がどのように作られ、どの程度のものに仕上がっているのかということにもっとも強い関心をお持ちではないかと思います。それが荒唐無稽なものであるならば、まったく意味はないからです。<br />
　そこでまず考え方の基本のところからお話させていただきます。たとえば原始仏教聖典には阿闍世（アジャータサットゥ）という人物が出て参ります。提婆達多とつるんで父であったマガダの国王ビンビサーラを殺して王となったとされる人物です。ところで経にはこの阿闍世が「太子」の身分で登場するものもありますし、「王」の身分で登場するものもあります。私たちはこの研究によって、提婆達多の破僧事件は釈尊72歳、成道38年目のことであったと考えておりますので、阿闍世が王子として登場する経はそれ以前の経ということになりますし、王として登場する経はそれ以後の経ということになります。もちろん破僧そのものを描く経典は釈尊72歳の時の経であるということになります。<br />
　またわれわれは二大弟子とよばれる舎利弗・目連は、釈尊より先に、釈尊が77歳の時に亡くなったと考えておりますので、彼らが登場する経はそれ以前ということになります。<br />
　また舎衛城の祇園精舎が仏教のサンガに寄進されましたのは釈尊が48歳の時のことでしたから、舎衛城が舞台となっている経はそれ以降ということになります。<br />
　あるいは制度的なことを申し上げれば、釈尊の育て親であった摩訶波闍波提が比丘尼になることが許され、最初の比丘尼となったのは釈尊58歳のことと考えておりますので、比丘尼が登場する経はそれ以後の経ということになります。<br />
　このように経典に残されている場所とか登場人物とか制度に関わるさまざまな記述を手掛かりにして、刑事コロンボが犯人を追いつめるようにしていけば、すべての経の「いつ」が特定できなくとも、「いつごろ」ということはわかってくるであろうというのが方法論の基礎です。<br />
　もちろん提婆達多の破僧事件が釈尊72歳の時で、最初の比丘尼が釈尊58歳の時に誕生したという年次推定そのものが難しいわけですが、そこまでお話しすると、それだけで何時間もかかりますので、それは省略させていただきます。すでに論文を発表してありますし、ホームページにも掲載してありますので、もし関心があればそちらの方をご覧ください。<br />
　なお釈尊の生涯中に教えがもし変化しているとすれば、どのように変化をしたかという要素も加えれば、さらに面白い結果が出てくるでしょう。しかしこれはまだ調べておりません。「目録」ができましたので、これによってそれがあぶり出されてくるかも知れません。<br />
　<br />
今までこれがなされなかった理由<br />
　しかしこのようなことは誰もが思いつくことで、私たちだけにしか思いつけないというものではないと思います。おそらくちょっとした頭の持ち主なら、だれしも考えることでしょう。それにも拘わらず仏教の歴史の中で今まで誰もやろうとしなかったのはどうしたわけでしょうか。これには次のような理由が上げられると思います。<br />
　1つは、原始仏教聖典の数があまりにも膨大であるということです。先ほどパ・漢併せた原始仏教聖典の数は15,000ほどになると申し上げました。要するに日付の部分を失った日記帳が15,000ページもあり、この１ページずつに書かれている手掛かりを全部記憶しておかなければならないとすれば、誰でも二の足を踏むでしょう。<br />
　しかも1つ1つの経にある手掛かりは、他の15,000の経に書かれている手掛かりと複雑に関連しあっているのですから、1つの経を分析するためには常に15,000の経の手掛かりとどのように関連しあっているかを考えなければなりません。よく刑事物のテレビ番組で黒板に事件に関連する人物と場所と時間の関係図を描いているシーンがでてまいりますが、それが500人の人物と、500の場所、それに時間は45年ということになれば、それを黒板に描いて処理することは不可能でしょう。それをひとりの人間が頭の中で処理することも、超人でないければ不可能です。しかし性能の高いコンピュータを誰もが気軽に使える時代になって、誰をも超人にしてくれる時代になりました。2000年前のお坊さんはもちろん、中村先生も水野先生もコンピュータはお使いになっていなかったでしょう。中村先生や水野先生がこのような研究をなされなかった第1の理由です。<br />
　また第2の理由は、中村先生や水野先生が共同研究という手法を用いられなかったということがあげられると思います。というよりも共同研究という手法は考えられなかったのです。おそらく中村先生も水野先生も膨大なカードをお作りになっていたであろうと思います。実は私もコンピュータを使い始める前までは膨大なカードを作っておりました。しかし私のカードは私のものであって、たとい私が私のカードを開放しても、他の人には使いこなせません。また使いこなせたとしても、調べものをするときにいちいち私のところに来てもらわなければなりません。またカードは一度カードボックスからとり出して、それを床一面に広げて、あっちにやったりこっちにやったりした作業を終えると、1枚1枚を元あった場所に戻してやらなければなりません。１つの調べものをするのに、何百枚のカードをとり出して、それをまた元に戻すのはたいへん面倒で、ついつい別のところにストックしておく羽目になるというのが常でした。ということになるとせっかくのカードが死んでしまうことになります。ところがこれもコンピュータのよいところで、いったん蓄積されたデータベースはほんの数秒でCDにコピーして、誰でもいつでも自由に使えるようになりますし、いちいち元のカードボックスに戻す労力もいりません。コンピュータのデータは、フォーマットさえきちんとしてあれば、どのような形式に並べ替えるのも自由自在で、それも瞬間的にできます。共通のソフトとデータ作成の基準を統一しておけば、複数の者が協力して１つのデータベースを構築することもできます。共同研究にはこのデータベースの共有ということが非常に大切で、コンピュータは共同研究をも容易にしてくれたわけです。<br />
　もちろん共同研究をしなければならない理由は、膨大な原始仏教経典やその注釈文献などからできるだけ厳密にデータを収集するにはできるだけ多くの協力者が必要だからです。またその知識を共有しさえしておけば、１人ではやれない多方面の研究テーマを、同じデータを用いて、同じ研究方法でやることができます。１人では凡庸でも、3人寄れば文殊の智慧を実地に実践できるわけで、特に酒を飲みながらの議論で、この効用を実感いたしました。このような共同研究をおやりになれなかったというのが、中村先生や水野先生がこのような研究をなされなかった第2の理由だと思います。<br />
　しかしこのような共同研究は言うは易いですけれども、なかなか実施することはできません。それなりの資金が必要ですし、場というものがなければなりません。そしてこの2つ条件を提供して下さったのが立正佼成会でございます。したがってこの夢のような研究が可能になりましたのは、コンピュータと立正佼成会のおかげといってよいと思います。改めて御礼を申し上げます。</p>

<p>基礎研究<br />
　ところでこのようないわば道具立ては整ったとしても、経典の「一時」を特定する決め手にはなりえません。コンピュータにデータ・ベースが蓄積されても、コンピュータが勝手に処理・分析してくれるわけではありません。実はできたらそこまでやりたいと考えておりましたが、そのシステムを構築することはできませんでした。したがってわれわれはまだコンピュータの機能のごく一部分の、検索とコピーとソートとリレーションといったごく初歩的な機能しか使いこなせていないのではないかと思っております。<br />
　したがってコンピュータに蓄積したデータを使いこなすためには、結局はわれわれの頭を使うしかありませんでした。機械的に処理できませんでしたので、データの１つ１つを私たちの頭で分析するしかなかったということです。あるいは経典の文章の背後や行間は私たちの頭を使って明らかにするしかなかったといってもよいかも知れません。そしてこの面を端的に表現するキーワードは「基礎研究」です。<br />
　資料の［2］と［3］に研究経過と研究成果をつけておきました。これをご覧ください。この研究は当時中央学術研究所の所長をされていた天谷さんの時に始めることができるようになりましたが、当初は天谷さんも、そのすぐ後に次長をされることになった沢田さんももちろん、私自身もこんなに長い期間をかけるつもりはございませんでした。5年くらいの間に一応の決着をつけるつもりで、はじめはパーリ聖典だけを資料にしようと思っておりましたが、やっぱり漢訳も使いたい、いやいや仏伝経典などの後の文献もきちっと見ておかなければならないというように、だんだん欲がでまして、データの集積に手間取り、最初の報告書を出させていただきましたのは研究が発足してから4年目のことでした。そしてまたその後しばらく6年くらいの間は、報告書が出ると思えば「資料集」ばかりで、論文といえば由旬の長さはどれくらいかとか、婆羅門の修行者はどんな生活をしていたかとかいうような、お釈迦さまの伝記とは直接関係のないものばかりで、天谷さんや沢田さんはやきもきされていたのではないかと思います。ひょっとするとこの10年間くらいは、森の詐欺にあったと感じられていたかもしれません。<br />
　しかし今さらの言い訳で申し訳がないのですが、このような基礎的な研究こそがこの研究の背骨になっているということで、お許しいただきたいと思います。<br />
　基礎研究につきましてはいくつも申し上げたいことがございますが、ここでは２つだけ紹介させていただきます。1つは釈尊の行動パターンを明らかにしたことと、もう一つは釈尊の生涯を釈尊教団の形成史と発展史に重ね合わせることができたということです。このような視点は、中村先生も水野先生も、お持ちではなかったと思います。</p>

<p>釈尊の行動パターン<br />
　まず第1に基礎研究によって、釈尊の行動パターンが明らかになったということについてお話させていただきます。<br />
　資料［4］に書いておきましたように、漢・パの原始仏教聖典のうちで釈尊がおられたところが明示されている経の数は10,861でありまして、そのうち舎衛城を舞台とする仏説の原始仏教聖典の数は5,784で、全体に占める割合は5784/10861＝53.25％ということになります。また王舎城を舞台とする仏説の原始仏教聖典の数は3,539で、全体に占める割合は3539/10861＝32.58％でありまして、この２つの都で全部の経典の85％を占めます。<br />
　したがって釈尊の活動地の中心は舎衛城と王舎城で、釈尊はこの間を何度も何度も往復されたであろうと推測しなければなりません。しかしそれをたとえば1年の間に3回も4回も往復されたと考えるか、あるいは2、3年に1回しか往復されなかったと考えるかによって、釈尊の生涯の印象はものすごく違ってきます。もし前者ならば釈尊は現代の総理大臣のように、今日はここだと思ったら明日はそちらというような、慌ただしい人生であったことになりますし、後者ならガンジス河の流れのように比較的ゆったりとした人生であったということになります。<br />
　このどちらのパターンであったかを知るためには、まず釈尊は1年間をどのように過ごされたか、ということがわからなければなりません。結論のみを申し上げればインドには雨期があるので、その期間中は遊行できません。また雨期の前後には雨期に入る準備をしたり、雨期が終わったら衣替えをしたりしなければなりませんし、さらにその前後には全国から比丘たちが釈尊に会いに集まりますので、釈尊は彼らに応対しなければなりません。したがって釈尊は1年間のうちで、自由に遊行ができるのは3ヶ月しかないということがわかりました。<br />
　それでは次に釈尊は3ヶ月を使って、どのように遊行されたかということになります。舎衛城と王舎城の間の距離は北のクシナーラー、ヴェーサーリーのルートを取るのと、ベナレスを経由するガンジス河沿いのルートを取るのとでは若干の相違がありますが、両方とも約600kmくらいのものです。江戸時代の参勤交代の大名の移動距離は1日に40kmくらいであったといいます。これは時速5kmで1日8時間歩くという見当になります。釈尊もこのスピードで遊行されていたとするならば、片道は15日で往復は30日、3ヶ月の間に少なくとも計算上は3往復することができることになります。<br />
　しかし1日3時間くらいしか歩かれなかったし、寄り道したり、一ヶ所に数日とどまることがあったということも予想されますから、1日にせいぜい平均10kmしか移動されなかったとすると、片道だけで60日かかり、とても往復はできないということになります。<br />
　このように1日の移動距離を知るためには、お釈迦さまは1日をどのように過ごされたかということも問題となるし、遊行はどのように行われたのか、１人でさっさと歩かれたのか、大名行列のように大人数だったのか、舟や馬車に乗られたのかなどということも問題となります。詳細は省略しますが、結論は後者でございまして、釈尊の生涯は非常にゆったりとしたものでした。<br />
　釈尊の行動範囲は、資料［5］の地図に書きましたような範囲でありまして、それほど大きくはありません。しかし1日に平均して10kmくらいしか進まれなかったとすると、西のほうのクル国とか、パンチャーラ国、あるいは東の方のアンガ国などには、そうたびたび行かれたはずはないということになります。ある経典には釈尊はスーラセーナ国のヴェーランジャーというところから、ガンジス河にそって下りまして、パヤーガの渡し（今のアッラハバード）を通り、ベナレスを経由して、ヴェーサーリーに行かれたという記述があります。おそらくこれがもっとも長い遊行であったであろうと思われますが、この遊行は優に3ヶ月はかかったであろうと推測されます。経典には淡々と記述されておりますので、この遊行の苦労がわかりませんが、このように釈尊の行動パターンを知ることによってこの遊行はたいへんであったろうなということが想像されるわけです。なおこの年は西インドのヴェーランジャーでも飢饉でありましたが、東の方のヴェーサーリーでも飢饉でありまして、この年はヒンドゥスタン平野は大飢饉に見舞われていたことがわかります。私たちの結論では釈尊56歳から57歳にかけてのことです。</p>

<p>釈尊教団形成史<br />
　基礎研究の成果の第2は、サンガの形成史と発展史を釈尊の生涯に重ね合わせることができるようになったということでございます。<br />
　これを年表に表してみますと資料［7］のようになります。先ほどスリランカの伝承では、成道からカピラヴァットゥへの帰郷までは1年の間の事柄と解釈していると申し上げましたが、サンガの形成史と重ね合わせますと、年表に書きましたように、14年間くらいのことにならざるを得ません。<br />
　ちょっと余談になりますが、律蔵が規定するサンガの厳密な定義は「羯磨を行いうる比丘あるいは比丘尼の集団」ということになります。羯磨というのはkamma（パーリ）あるいはkarma（サンスクリット）でありまして、行為を意味します。仏教ではこれを普通「業」と訳しますが、これは個人の行為を表す場合でありまして、集団の行為を表す時には「羯磨」と音写して、区別しているわけでございます。<br />
　このサンガとしての行為は資料の［6］に書いておきましたように、①議題に必要な人数が揃っており、②その時点にその界（sImA　縄張り）にいるサンガの構成員が1人の漏れもなく出席していて、③その全員が賛成するという3つの条件が具わった時に有効となります。たとえば比丘になってその集団に加入したい人がいて、その人を比丘として認めてよいかどうかという議題を扱う場合には、10人以上のサンガでなければならないと定められています。これを「十衆白四羯磨具足戒」といいます。これが「律蔵」の定める正式の具足戒の方法です。「具足戒」というのは一人前の出家修行者である比丘としての資格が具わったということです。<br />
　このようなサンガの意思を決定する方法は、この「十衆白四羯磨具足戒」が定められたときに初めて行われましたから、正式なサンガはこの時に成立したということになります。サンガというのは羯磨を行うことができる集団であり、羯磨の方法はこの時に初めて定められたからです。<br />
　そして先ほどお話しました「律蔵」の「受戒　度」は正確にいえば、この「十衆白四羯磨具足戒法」がどのように制定されるに至ったかということを主題としているわけでありまして、「仏伝」ではなく「釈尊教団形成史」なのです。「教団形成史」に関係しない事績は、ここからは除外されているわけでありまして、ここから除外されているものも加えてやらないと本当の釈尊の伝記は書けないということになります。<br />
　ともかくこのような視点で「受戒　度」を読んでみますと次のようになります。<br />
　「律蔵」の「受戒　度」が仏の成道から始まるのは、仏典の編集者たちにとって、このとき「三宝帰依」の対象である「仏宝」が成立したという認識があったからです。それではなぜここに「仏宝」が成立したことが書かれなければならなかったかといえば、「十衆白四羯磨具足戒法」が制定される以前には、「三宝」に帰依することを表明することが比丘となる条件と定められていたからです。これを「三宝帰依具足戒」といいます。釈尊は成道後最初の雨期をこの菩提樹下で過ごされました。<br />
　次に初転法輪が記されておりますのは、これによって三宝帰依の第2の対象である「法宝」が成立したという認識があったことを示しています。初転法輪では四諦が説かれましたが、後の仏教徒にとっては四諦こそが「仏教（仏の教え）」なのです。<br />
　そしてこれによって五比丘が次々と「善來比丘具足戒」によって出家して釈尊の弟子となりました。善來比丘具足戒というのは、出家を希望する者に、釈尊が「よく来た比丘よ、法はよく説かれた。わたしのもとで正しく苦しみを滅するために励めよ」といわれることによって比丘となることを許されるという方式でありまして、「三宝帰依具足戒」が許される以前には、これが具足戒の方法でありました。<br />
　なおこれは釈尊個人の判断で釈尊がご自分の直弟子にするという方法でありまして、後に「十衆白四羯磨具足戒法」が正規の具足戒法となったわけですが、釈尊にはこの特権が入滅するまで残されておりました。原始仏教聖典では釈尊と日常生活を共にする比丘は「1250人の大比丘サンガ」とか「500人の大比丘サンガ」と表現されておりますが、これがそれによって形成されたサンガです。年表では「釈尊と直弟子たちのサンガ」と表現してあります。<br />
　この五人が釈尊の弟子になった後、釈尊は続いて無常・苦・無我の教えを説かれまして、彼らが解脱を得ました。「受戒　度」にはそのとき「世界に6人の阿羅漢が存在することになった」と書かれています。仏典の編集者たちはこの時、帰依の対象となる第３の「僧宝」が成立したと認識しているわけです。これは仏と仏の法によって聖者となった者たちという観念的なものでありまして、具体的なサンガではありません。<br />
　このようにして釈尊は鹿野苑において第２回目の雨期を過ごされまして、雨期が明けると直弟子たちを「１つの道を２人して行くなかれ」と地方に教化に出されまして、自らはウルヴェーラ・カッサパを教化するために6年間の修行をしたウルヴェーラーに戻られました。ウルヴェーラ・カッサパは螺髻梵志と呼ばれる出家修行者でありまして、なかなか手ごわくその過程で第３回目の雨期を過ごされました。しかし雨期が終わる頃にその折伏に成功されて、弟のナディー・カッサパとガヤー・カッサパも釈尊に信従するようになりました。「律蔵」がこの記事を記しますのは、他の宗教で出家している者も、仏教の比丘となる場合はきちんと仏教のしきたりに従って、もう一度出家し直さなければならないということを示したものです。<br />
　三迦葉を教化された後に釈尊はウルヴェーラーの近くの町ガヤーの近くのガヤーシーサに移られました。ウルヴェーラーは小さな村でしたので、大勢の出家者たちの生活を支えることができませんので、大都会であったガヤーに移られたわけです。そしてそこに6年ほど留まられました。諸国に布教に出した弟子たちが出家希望者を連れて還ってくるのを待っていなければならなかったからです。釈尊はこれらの出家希望者をすべて「善來比丘具足戒」で出家させられましたから、この頃の仏教の出家修行者のすべては「釈尊と直弟子たちのサンガ」のメンバーとなったわけで、このころはこれが「釈尊教団」でもあったわけです。立正佼成会でいえば、まだ本部以外に教会がなかった時代に相当するでしょう。釈尊はこの6年の間は彼らの教育に専心されたということになります。<br />
　このような状態が6年ほど続いたわけですが、諸国に布教に出された弟子たちが行ったり来たりするのに疲れ果てたのを見られて、釈尊は出先の各地で弟子たちが三宝帰依によって、自分たちの弟子を取ることを許されました。これが「三宝帰依具足戒」で、釈尊成道後9年目のことでした。そしてこの時はじめて「仏弟子たちのサンガ」の祖型が形成され、地方に教会ができるもととなりました。なおこのときにこの地球上に存在する仏教の出家者からなる「釈尊教団」というものの祖型も形成されたということになります。このときインド各地で釈尊の直弟子たちによって教化された比丘たちは、釈尊の顔を見たこともないし、声を聴いたこともなかったでしょうが、しかし「三宝に帰依する」ということで１つに統一されていたわけです。<br />
　このような経過をへて、「十衆白四羯磨具足戒」が制定されることになりますが、以上のような経過が物語られるのは、「十衆白四羯磨具足戒」が制定される以前に、これらとは異なる方式で比丘となった者もまた有効であるということを示すためです。現代の法律ではこれを「不遡及」の原則といいます。またこのような因縁譚が記されるのは、法律には前文があるように、この法律の立法趣旨を物語ろうとしたものです。<br />
　このように比丘の集団が規則を有する組織的な集団となったのは、釈尊が成道されてから12年後のことでありましたが、これには次のようなきっかけがありました。釈尊は直弟子たちに自分の弟子を取ってよいと許されましたので、直弟子たちはインド各地で自分たちの弟子を取りました。しかしこの時にはまだ出家を許してよい条件も決められていませんでしたし、出家修行者がどのように暮らすべきかという生活規則もなく、もちろんサンガ運営の規則もできていませんでした。そこで現に一家を支えている壮年男子も、将来の働き手として期待されている青年も、手当たり次第に出家させるということが生じて、そこで「ゴータマがやってきて、夫を奪い、子を奪い、家系を断絶させる」という轟々たる非難が生じるようになりました。また出家修行者のなかにはだらしない服装をして、意地汚く食を乞い、まるで礼儀作法を弁えていない修行者が続出して、これにたいしても激しい非難が生じるようになりました。釈尊の目の届かないところでさまざまな不行跡が起こってしまったわけです。<br />
　そこでまず手始めに釈尊は出家したら10年間は和尚について、日常生活を共にして教育を受けなければならないこと、和尚となる者は出家して10年以上を経過し、それなりの境地に達していること、という和尚と弟子の制度を制定され、次に具足戒を与える場合はそのサンガの最低人数は10人であること、具足戒を与えてよい条件として満20歳以上の男子であること、伝染病を患っていないこと、犯罪者でないことなどという規則を制定されました。この時になってサンガは名実ともに組織的な集団に生まれ変わったということができます。「仏弟子たちのサンガ」は羯磨によって集団の意思を決定できる、いわば法人格を有する集団なのです。また私が「釈尊教団」と呼んでおりますのは、地上に存在するすべての「仏弟子たちのサンガ」と「釈尊と直弟子たちのサンガ」を統括したものですが、これもただ三宝帰依という抽象的なもので結ばれたものではなく、律蔵という共通する規則を守っていることによって結ばれた組織体に変りました。しかし今から2500年も前のインドで、しかも律は随犯随制とよばれておりますように、日常的に改廃されるこの規則を全国のサンガが等しく守るということは並大抵なことではありません。しかしこの規定はいわば法律ですから違反すれば罰則が課せられます。この罰則がある規定にそれぞれのサンガが恣意的に対応しているということでは、統括組織としての「釈尊教団」は機能を失うことになります。そこで全国のサンガが随犯随制される律の規定を、速やかに周知・徹底されるシステムも作られました。それが布薩であり雨安居であり、雨安居の最後に行われる自恣であり、遊行でした。時間がございませんので、これにつきましてはすでにご報告させていただいております「モノグラフ」をぜひお読み下さい。<br />
　なお先ほど釈尊の行動範囲はそれほど大きくなかったと申し上げました。地図に示しました仏教中国とよばれる地域に限定されていたわけです。しかしそれは結果的にそうだったというのではなく、行動パターンやサンガのことを考えますと、それが必然であったということができます。まず雨安居の前後には全国から比丘が釈尊のところにやってきます。釈尊が辺地に行かれるとそれは大変難しいものになりますから、お釈迦さまは中央におられる必要があります。また釈尊はいつも大勢の比丘に囲まれた「釈尊と直弟子たちのサンガ」として行動されておりました。1,250人や500人は大げさですが、一桁少なく読んだとしてもかなりの大人数ですから、この大人数の比丘たちの4ヶ月の生活を丸ごと面倒見なければならないとすれば、それは大都会でなければなりません。舎衛城や王舎城が釈尊の活動の中心になるのは当然なのです。<br />
　パーリの注釈書がいうように、このようなシステムが釈尊成道後1年の間に作られたとはとても考えられません。しかも1年では出家して10年たった比丘というのは存在しないはずですから、和尚と弟子の制さえも作られるはずはありません。したがってこれは少なくとも最初の仏弟子ができてから10年は経過していなければならないということになります。<br />
　ここまではサンガの形成史でありまして、これからがサンガの発展史でありますが、時間がなくなりましたので、以下は省略させていただきます。ただし『涅槃経』は釈尊のサンガに対する遺言書のような内容をもつお経で、このなかにいくつかの遺言が含まれているわけですが、その１つだけを紹介させていただきます。それは釈尊が亡くなられる時に阿難に対して、「もはや私たちの師はいないと思うかも知れないが、そう考えてはならない。あなたたちに私が説いた法と律が、私の死後のあなたたちの師である」とおっしゃられたという言葉です。それまでの釈尊教団は問題が起きるとその都度釈尊にお伺いをたてて、釈尊が直接その決済をなされておりました。そういう意味では釈尊教団というのは釈尊の指揮命令下にある集団であったわけです。そこで釈尊は自分がなき後は、自分が説いた法と律がサンガの統括原理になるのだぞと、遺言されたわけです。その時に釈尊は「あなたたちが望むならば、些細な戒律の条項は廃止してもよいぞ」とも申されました。このような釈尊の遺言を受けて、摩訶迦葉は釈尊滅後にこれからの教団がよりどころとすべき法と律に異論が出るようなことではまずいと考えて結集を行いました。そのときに些細な条項を廃止してよいという遺言も紹介されましたが、何も足さない、何も引かないという方針を決めました。すなわち釈尊滅後によりどころとする法と律がここに確定されたわけです。したがって見方によっては、釈尊教団はこのとき釈尊の指揮命令下にある集団から、仏の教えをよりどころとする「仏教教団」に変ったということになります。これが現在まで連綿として続いている南方上座部の仏教です。<br />
　以上のように、サンガの形成史と釈尊の生涯を重ね合わせてみますと、また別の釈尊伝が見えてくるわけでございます。</p>

<p>おわりに<br />
　この他、基礎研究といたしましては、釈尊がどこで雨安居を過ごされたかという雨安居地の調査や、釈尊がどこでどんな経を説かれているかという調査、あるいは当時のインド人の就学年齢は何歳で、結婚の平均年齢は何歳というライフサイクルの調査などを、それこそ徹底的に行いました。先ほどの行動パターンやサンガの研究なども含めて、これらはすでに「モノグラフ」において報告させていただき、そのほとんどはインターネット上のホームページにアップしてございますので、ぜひともご覧いただきたいと存じます。そしてこれらが、釈尊や仏弟子たちのさまざまな事績の年代推定のためにたいへん役に立っていることはいうまでもありません。いわばこれらは外堀を埋め、内堀を埋めるという作業でございまして、このような作業をやっておりましたので、最後の仕上げの「年表」と「目録」の編集という本丸攻略は1年もかかりませんでした。<br />
　このように今回提出させていただきました「年表」と「目録」は、きちんとした学問的基礎に立った、しっかりしたものであると考えておりますが、評価は皆さんに委ねたいと存じます。<br />
　しかしながらこの「年表」と「目録」はいまだ外部にまで公表する段階には至っておりませんし、何よりも肝心の私たちの「釈尊伝」を書いておりません。私はやりたかったこと、やらなければならないことの95％はやらせていただいたと思っておりますが、残りの5％がこれらの仕事です。いわば画竜点睛を欠いているわけでございます。そこでこの残務整理を行うために、自主的な研究会である「釈尊伝研究会」というのを立ち上げまして、すでに2回の研究会を行いました。この研究会も中央学術研究所に本部を置かせていただきまして、今まで通りにコンピュータや書籍を利用させていただけることになっております。私も歳をとりまして、そう長い間研究は続けられないと思いますので、5年を目処に何とかまとめたいと考えております。<br />
　これをもちましてこの研究の成果報告を終わらせていただきたいと存じます。長い間のご支援と本日のご静聴、まことにありがとうございました。</p>

<p><br />
資料</p>

<p>［1］パーリの原始仏教聖典の数<br />
経蔵　　　17,520<br />
　DN.　　　　　34<br />
　MN.　　　　 152<br />
　SN.　　 　  7,762　　＊SamantapAsAdikAによる。実数は約3,000<br />
　AN.　　　　9,557　　＊SamantapAsAdikAによる。実数は約2,900<br />
　KN.　　　  　　15<br />
律蔵　　　　397<br />
　比丘戒　　　  227<br />
　比丘尼戒　　  132　 　＊比丘尼に独自のもののみ<br />
　　度　　　　　22<br />
　附随　　　　　16<br />
合計　　　17,917　　　＊実数は約6,500</p>

<p><br />
［2］研究の経過<br />
第１期：準備期（平成4年〜平成5年）<br />
第2期：データ蓄積作業期（平成6年〜平成10年）<br />
第3期：基礎研究作業期（平成11年〜平成14年）<br />
第4期：基礎研究作業+個別研究作業期（平成15年〜平成21年）<br />
第５期：まとめ（平成22年）</p>

<p>［3］研究の成果<br />
（1）「中央学術研究所紀要」モノグラフ篇「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」全16冊<br />
第1号「基礎研究篇Ⅰ」1997（平成9）年7月刊<br />
　【論文１】「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」の目的と方法論　 森　章司<br />
　【論文２】原始仏教時代の暦法について　森　章司<br />
　【論文３】釈尊の出家・成道・入滅年齢と誕生・出家・成道・入滅の月・日　森　章司<br />
　【資料集１-１】原始仏教聖典に見られる年齢記事一覧［Ⅰ］−−" JAtaka-aTThakathA "篇　中島克久<br />
第2号「資料集篇Ⅰ」2000（平成12）年7月刊<br />
【資料集2-1】原始仏教聖典の仏在処・説処一覧──マガダ国篇　金子芳夫<br />
第３号「資料集篇Ⅱ」2000（平成12）年9月刊<br />
　【資料集3】仏伝諸経典および仏伝関係諸資料のエピソード別出典要覧　森　章司・本澤綱夫・岩井昌悟<br />
第４号「資料集篇Ⅲ」2001（平成13）年11月刊<br />
　【資料集2-2-1】原始仏教聖典の仏在処・説処一覧──祇園精舎（経蔵）篇　金子芳夫<br />
第５号「資料集篇Ⅳ」2002（平成14）年5月刊<br />
　【資料集2-2-2】原始仏教聖典の仏在処・説処一覧──祇園精舎（律蔵）篇　金子芳夫<br />
第6号「基礎研究篇Ⅱ」2002（平成14）年10月刊<br />
　【論文４】由旬（yojana）の再検証　森　章司・本澤綱夫<br />
　【論文５】原始仏教聖典資料に記された釈尊の雨安居地と後世の雨安居地伝承　岩井昌悟<br />
　【資料集１-２】原始仏教聖典に見られる年齢記事一覧［Ⅱ］　中島克久<br />
第７号「基礎研究篇Ⅲ」2003（平成15）年11月刊<br />
　【論文６】原始仏教聖典におけるバラモン修行者──jaTila（螺髻梵志）とvAnaprastha（林住者）──　森　章司<br />
　【論文７】『仏説十二遊経』の仏伝伝承──成道後12年間の雨安居地を中心にして──　岩井昌悟<br />
第８号「資料集篇Ⅴ」2004（平成16）年3月刊<br />
　【資料集2-3】原始仏教聖典の仏在処・説処一覧── コーサラ国篇　 金子芳夫<br />
第９号「個別研究篇Ⅰ」2004（平成16）年5月刊<br />
　【論文８】摩訶迦葉（MahAkassapa）の研究　森　章司・本澤綱夫<br />
　【論文９】「半座を分かつ」伝承について　 岩井昌悟<br />
　【資料集４】古典インド法典類の年齢記事資料──幼児期の浄法（saMskAra）と住期（ASrama）を中心に──　中島克久<br />
第10号「個別研究篇Ⅱ」2005（平成17）年4月刊<br />
　【論文10】MahApajApatI GotamI の生涯と比丘尼サンガの形成　森　章司・本澤綱夫<br />
　【資料集５】原始仏教聖典における釈尊の雨安居記事　岩井昌悟<br />
　【資料集６】本縁部経典に見られる年齢記事一覧　中島克久<br />
第11号「個別研究篇Ⅲ」2006（平成18）年10月刊<br />
　【論文11】提婆達多（Devadatta）の研究　森　章司・本澤綱夫<br />
　【論文12】阿難以前の侍者伝承と雨安居地伝承　岩井昌悟<br />
第12号「資料集篇Ⅵ」2007（平成19）年4月刊<br />
　【資料集7】VisAkhA MigAramAtA 関係資料　岩井昌悟・本澤綱夫・カタプンニョー比丘<br />
第13号「基礎研究篇Ⅳ」2008（平成20）年3月刊<br />
　【論文13】「仏を上首とするサンガ」と「仏弟子を上首とするサンガ」　森　章司<br />
　【論文14】「釈尊のサンガ」論　森　章司<br />
　【論文15】パーリ仏典に見るjanapadaとraTTha　森　章司・金子芳夫<br />
第14号「基礎研究編Ⅴ」2009（平成21）年5月刊<br />
　【論文16】遊行と僧院の建設とサンガの形成　森　章司<br />
　【論文17】釈尊雨安居地伝承の検証　岩井昌悟<br />
　【論文18】釈尊雨安居地伝承の総括的評価　森　章司<br />
　【論文19】コーサンビーの仏教　森　章司・本澤綱夫<br />
第15号「資料集篇Ⅶ」2009（平成21）年10月刊<br />
　【資料集2-4】原始仏教聖典の仏在処・説処一覧──その他国篇　金子芳夫<br />
第16号「基礎研究編Ⅵ」2010（平成22）年1月刊<br />
　【論文20】サンガにおける紛争の調停と犯罪裁判　森　章司<br />
　【論文21】紛争解決法としての多数決とその理念　森　章司<br />
　【論文22】原始仏教聖典などにみる就学・結婚などの平均年齢----原始仏典、JAtaka-aTThakathA、　本縁部経典、インド法典などを資料として----　森　章司・中島克久<br />
（2）外部の研究誌での報告<br />
「コーサラ国波斯匿王と仏教---その仏教帰信年を中心に」森　章司（『印度哲学仏教学』第21号　北海道印度哲学仏教学会　2006年10月）<br />
「釈尊のサンガは存在したか−−『現前サンガと四方サンガ』序説」森　章司（『福田亮成先生古稀記念　密教理趣の宇宙』　智山勧学会事務局　2007年3月）<br />
「『現前サンガ』と『四方サンガ』」森　章司（『東洋学論叢』第32号　東洋大学文学部　2007年3月）<br />
（3）立正佼成会内部資料＝非公開（2010年11月30日）<br />
　①「釈尊および釈尊教団史年表」1冊<br />
　②「釈尊年齢にしたがって配列した原始仏教聖典目録」全5冊<br />
　　「第Ⅰ部　説時による目録」（第１分冊）：過去世〜釈尊47歳<br />
　　「　　　　　同　　　　　」（第2分冊）：釈尊48歳〜50歳<br />
　　「　　　　　同　　　　　」（第3分冊）：釈尊51歳〜57歳<br />
　　「　　　　　同　　　　　」（第4分冊）：釈尊58歳〜入滅後<br />
　　「第Ⅱ部　回想・参考記事による目録」：過去世〜入滅</p>

<p>［4］原始仏教聖典の仏在処・説処<br />
舎衛城を舞台とする仏説の原始仏教聖典＝5784/10861＝53.25％<br />
王舎城を舞台とする仏説の原始仏教聖典＝3539/10861＝32.58％</p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p></p>

<p>［5］仏教中国略地図</p>

<p>　 &amp;</p>

<p><br />
［6］羯磨（パーリ：kamma、サンスクリット：karma）の成立要件<br />
①議題に必要な人数が揃っており、<br />
②その時点にその界（sImA　縄張り）にいるサンガの構成員が1人の漏れもなく出席していて、<br />
③その全員が賛成する。</p>

<p>［7］釈尊教団形成・発展史年表</p>

<p>　</p>]]>
        <![CDATA[<p><br /></p><p>［目次］</p><p>
（1）はじめに<br />
（2）この研究の意味<br />
（3）原始仏教聖典<br />
（4）研究の目的<br />
（5）研究の方法<br />
（6）今までこれがなされなかった理由<br />
（7）基礎研究<br />
（8）釈尊の行動パターン<br />
（9）釈尊教団形成史<br />
（10）おわりに<br />
　資料</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>Resources for East Asian Language and Thought</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.sakya-muni.jp/00/00-04/resources-for-east-asian-language-and-thought.html" />
    <id>tag:www.sakya-muni.jp,2010://1.567</id>

    <published>2010-12-18T02:15:28Z</published>
    <updated>2010-12-18T02:17:21Z</updated>

    <summary>東アジア歴史と思想の為のオンラインのデーターベース、索引、辞典などを編纂しており...</summary>
    <author>
        <name>釈尊伝</name>
        
    </author>
    
        <category term="0004リンク集" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.sakya-muni.jp/">
        <![CDATA[<div><span class="Apple-style-span" style="color: rgb(68, 51, 0); font-family: 'MS UI Gothic', Arial, Osaka, Times, sans-serif; line-height: 18px; ">東アジア歴史と思想の為のオンラインのデーターベース、索引、辞典などを編纂しており、その中心である「仏教専門語漢英辞典」は現在のところ、５万語彙を含み、この分野においては最も主要なインターネットリソースとなっている。</span></div><a href="http://www.acmuller.net/">http://www.acmuller.net/</a>]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>現地調査の概要</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.sakya-muni.jp/fieldwork/3-1010/post-93.html" />
    <id>tag:www.sakya-muni.jp,2010://1.565</id>

    <published>2010-12-13T00:21:58Z</published>
    <updated>2010-12-21T05:04:37Z</updated>

    <summary>【1】本目録制作の目的 　本「釈尊年齢にしたがって配列した原始仏教聖典目録」は、...</summary>
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        <name>釈尊伝</name>
        
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        <![CDATA[<p><br /></p><p>【1】本目録制作の目的<br />
　本「<b>釈尊年齢にしたがって配列した原始仏教聖典目録</b>」は、立正佼成会の一機関である中央学術研究所の委託を受けて行ってきた「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」が、本年（2010年）の11月末をもって終了するにともない、その成果報告書の一部として制作されたものである。</p>

<p>【2】本目録制作の意図<br />
　この研究は原始仏教聖典を基礎資料として釈尊の伝記を書き上げるということを最終目的としている。この目録はその準備段階として、これを文章にまとめれば自然に釈尊の伝記ができ上がるということをめざして、釈尊の年齢にそって原始仏教聖典を配列したものである。<br />
　またわれわれはこの研究をさまざまな作業仮説を設けて進めてきたので、この目録はその編集を通じてその仮説が正しかったかどうかを検証するという意図をも併せ有している。この研究はほぼ完了したとはいうものの、なお細部の研究や総括・検証の作業が残されており、今後は「釈尊伝研究会」としてこれを継続して行うことになっているので、より完成度の高いものをつくるための作業の一環として制作されたということもできる。</p>

<p>【3】本目録全体の構成<br />
　この目録は、この研究の成果として作り上げた別紙「釈尊および釈尊教団史年表」の年度ごとの事績を時間軸として、<b>その時説かれた経</b>あるいは<b>その事績を回想している経</b>にはどのようなものがあるかということを、経名とページ、その仏在処・説処、概要ならびに対応経を示したものである。したがって本「目録」は「<b>第Ⅰ部　説時による目録</b>」と「<b>第Ⅱ部　回想・参考記事による目録</b>」の2部構成となっている。第Ⅰ部は釈尊の生涯のどの時点において説かれた経にはどのようなものがあるかを示したものであり、第Ⅱ部は釈尊の生涯のどの時点の事績を回想している経にはどのようなものがあるかを示したものである。<br />
　たとえば釈尊が80歳の誕生日を迎えられた時に、出家した日のことを回想された経があったとするならば、「80歳の誕生日」の経として配列したものが第Ⅰ部であり、「出家した日」の記事として配列したものが第Ⅱ部であるということになる。<br />　言うなれば「説時」とは、経蔵が「一時（ekaṃ samayaṃ）」と示し、律蔵が「その時（tena samayena）」と示す、この「一時」「その時」をさすことになる<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（1）</font>。しかしながら原始仏教聖典自身は、この「一時」「その時」がいつの時点であるかを特定していないのが常であり、成道直後と入滅直前の事績にそれが明示されているのみである<font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（2）</font>。本研究の最終目的は、これらの「一時（ekaṃ samayaṃ）」あるいは「その時（tena samayena）」がいつの時点であるかを特定して、釈尊の生涯のすべての事績をカバーした伝記を執筆することにあるが、本「聖典目録」はその素材であり、また完璧な釈尊伝を作成するための検証作業であるということができる。<br /></p><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">（1）原始仏教聖典は釈尊が入滅されたその年の雨安居に、摩訶迦葉をはじめとする仏弟子の主立った者500人が王舎城に集まって、釈尊の教えのうちの法（経）を阿難が説き、律をウパーリが説いたものを確認しあったものとされているから、理屈の上からいえばこれが「説時」であるともいいうる。しかし阿難もウパーリも、釈尊が在世中のいずれかの時点に説かれたことを復唱したのであり、ここにいう「説時」とはこの釈尊在世中のいずれかの時点を指すと理解されたい。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">（2）原始仏教聖典はすべて釈尊の言行録といってよいのであるが、それらは日付の失われた日記帳のようなものであるから、釈尊がどのような事績を残されたのかは詳しくわかっているのに、それを時系列ないしは年齢にしたがって編集できないために、今まで釈尊の全生涯をカバーする伝記というものが存在しなかったのである。仏伝経典と称されるものがあるが、これは釈尊の成道直後（と入滅直前）の、生涯のほんの一瞬間の、ほんの一部の事績を記したものであることはしばしば指摘してきたところである。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;"><br /></blockquote>

<p>【4】本目録に収録した文献の種類<br />　本「目録」は「原始仏教聖典目録」を標題としているが、これには大きく分ければ3種類の文献が含まれている。<br />　1つは「<b>原始仏教聖典</b>（以後A文献と呼ぶ）」であり、これには主にパーリ語で書かれた「経蔵」（パーリ語の<i>Dīgha-Nikāya</i>など5ニカーヤと、漢訳の長阿含経など4阿含・別訳雑阿含ならびに法顕訳「大般涅槃経」などの単経、サンスクリットの<i>Mahāparinirvāṇa-sūtra</i>）と「律蔵」（パーリ語の<i>Vinaya</i>と漢訳の四分律・五分律・十誦律・摩訶僧祇律・根本有部律）などが含まれている。ただし釈尊がどこで、誰に説かれたのかが明示されていない、したがって「説時」を想定しにくい<i>Dhammapada</i>や<i>Suttanipāta</i>、仏説ではない<i>Theragāthā</i>, <i>Therīgāthā</i>, <i>Apadāna</i>や仏説とは見なしがたい<i>Itivuttaka</i>, <i>Buddhavaṃsa</i>などは除外している。ただしこれらにも本目録で取り上げた釈尊自身や釈尊教団に関するさまざまな事績が記されている場合は「参考経」として利用した。<br />　2つめは「<b>後期の原始仏教聖典</b>（以後B文献と呼ぶ）」であり、これには主にパーリ語で書かれた<i>Nidānakathā</i>などの経蔵・律蔵に対する注釈書や、漢訳された「修行本起経」などの仏伝経典や経蔵・律蔵に対する注釈書、ならびに論蔵などが含まれている。<br />　3つめは「<b>後世の釈迦仏教文献</b>（以後C文献と呼ぶ）」であり、これには主に東南アジアや中国において釈尊の生涯に関して記述された<i>Jinakālamālī</i>などや「釈迦譜」などが含まれている。<br />　したがってこの「目録」には「原始仏教聖典」以外の文献も含まれていることになるが、あえてこれに「原始仏教聖典」の名を冠したのは、「後期の原始仏教聖典」はもちろん「後世の釈迦仏教文献」も、すべて「原始仏教聖典」をよりどころとして、これを注釈ないしは解釈するという立場で成立したものであるからである。</p>

<p>【5】本目録に採録した聖典の単位<br />　以上において「経」と呼んできたものは、実際にはわれわれが上記の研究を行うためにコンピュータの中に蓄積してきた「釈尊伝データ」と呼んでいるもののデータ1件づつをいう。<br />　「釈尊伝データ」は次のような原則のもとに作られている。「A文献」のうちの経蔵については、原則として1つの経が1データである。ただし『涅槃経』のような長い経で、時間的には長期にまたがり、空間的には1ヶ所に限定できないものは、主に釈尊がおられる場所を単位としていくつかに分割している。その要領は「モノグラフ」第2号、4号、5号、8号、15号に掲載した「仏在処・説処一覧」の凡例を参照願いたい。<br />　また「A文献」のうちの律蔵の経分別については、原則として1つの条文が1データであるが、その条文の制定の因縁に複数のエピソードがあったり、判例の部分にも複数のエピソードが含まれているような場合には、そのエピソードごとに作られている。犍度分については、それぞれの犍度を単位とするのではなく、原則として１つのエピソードを単位としてデータが作られている。<br />　「B文献」「C文献」は原則として釈尊の事績ごとにデータが作られている。たとえば『過去現在因果経』などの仏伝経典にはたくさんの釈尊の事績が記述されており、たとえば事績の数が50であったとすれば、１つの『過去現在因果経』が50のデータに分割されていることになる。ただし事績は細分するのではなく、あるまとまりを１つとして考えている。これについては「モノグラフ」第3号に掲載した「仏伝諸経典および仏伝関係諸資料のエピソード別出典要覧」を参照願いたい。</p>

<p>【6】「<b>第Ⅰ部　説時による目録</b>」の構成<br /></p><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">（1）第Ⅰ部の「説時による目録」は、釈尊の何歳＝成道何年の事績項目のもとに［当該経］［同時経］［からまで経（実際には54.301〜60.501経という形で表示）］［以後経］という順序に示してある。これらは「A文献」については以下のような意味である。<br />　なお本目録では釈尊の事績を54.301とか60.501という数字で整理している。整数部分は出胎を誕生とする釈尊の満年齢を表し、小数点第１位の「0.1」「0.2」「0.3」「0.4」「0.5」はそれぞれ「雨安居前」「雨安居中」「雨安居後」「この年」「この頃」、そして小数点第2位以下はその期間中の事績の順序を表す。たとえば'54.301'は釈尊54歳の雨安居後の第１番目の事績を表し、'60.501'は釈尊60歳前後の第1番目の事績を表す。事績にこのような番号をふった理由については、「釈尊および釈尊教団史年表」の凡例（4）ならびに（6）を参照されたい。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;"><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">　①［<b>当該経</b>］というのは、その経に書かれている事績がそのまま説時を表す場合であって、たとえば「ある時世尊はバーラーナシーの近郊の仙人堕処鹿野苑におられた。その時世尊は5人の比丘たちに対して中道と四諦の教えを説かれた」というような場合である。われわれは初転法輪は釈尊36歳＝成道2年の雨安居前のことであったと考えているから、この経は釈尊35歳の雨安居前の事績番号では36.101「［釈尊］仙人堕処鹿野苑において5比丘に初めて法輪を転じる」の「当該経」ということになる。経蔵と律蔵にはこの初転法輪を描く経がいくつもあるから、もちろんそのすべてが［当該経］である。しかしもし入滅のありさまを描く経の中でこの初転法輪の場面を振り返っているとするならば、その経自身は入滅を表す［当該経］になるが、初転法輪を振り返る部分は36.101「［釈尊］仙人堕処鹿野苑において5比丘に初めて法輪を転じる」の［回想経］となる。</blockquote></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;"><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">　②［<b>同時経</b>］というのは、もしこの釈尊36歳＝成道2年の、仙人堕処鹿野苑を仏在処とする経において、中道や四諦ではなくたとえば四念処を説かれている経典があるとすれば、それは「36.101［釈尊］仙人堕処鹿野苑において5比丘に初めて法輪を転じる」の［同時経］となる。もちろんこのような経がいくつもあり、しかもこれが初転法輪の時点の教えであることが明白であるならば、初転法輪の場面にこの四念処を説かれたという事績が加わり、「36.101［釈尊］仙人堕処鹿野苑において5比丘に初めて法輪を転じる」とは別に、「36.102［釈尊］仙人堕処鹿野苑において5比丘に対して四念処を説く」という事績を設けることになるが、このような新たな事績を設けるほどの事績ではないと判断した場合に36.101の［同時経］とした。</blockquote></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;"><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">　③「<b>からまで経</b>」というのは、その経典の説時を特定することはできないが、いくつかの情報をもとにして、たとえば釈尊48歳から、77歳までの間と判断されるような場合である。たとえばその経が祇園精舎を舞台とし、そこには舎利弗と目連が登場する以外に、特段の年代を想定する情報が含まれないような場合である。われわれは祇園精舎が給孤独長者によって寄進されたのは釈尊48歳＝成道14年であって、年表では「48.103［給孤独長者］成道後初めて舎衛城を訪れた釈尊に祇園精舎を寄進する」と処理しており、また舎利弗・目連が釈尊に先立って入滅したのは釈尊が77歳＝成道43年の時で、「77.501［舎利弗・目連］入滅する」と処理しているので、この経は「48.103［給孤独長者］成道後初めて舎衛城を訪れた釈尊に祇園精舎を寄進する」から、「77.501［舎利弗・目連］入滅する」まで経になるわけである。<br />そしてこのような経は「から」に相当する釈尊48歳のところに収録し、［48.103〜77.501経］と示している。そしてその後に77.501がどのような事績であるかがわかるように「＜以前経＞［舎利弗・目連］入滅する。」と記しておいた。</blockquote></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;"><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">　④［<b>以後経</b>］というのは、たとえばその経が祇園精舎を舞台とする以外の他の有用な情報を含んでいない場合は、その経は「48.103［給孤独長者］成道後初めて舎衛城を訪れた釈尊に祇園精舎を寄進する」の以後経となる。その経は祇園精舎が建設されてから、釈尊が入滅されるまでのいずれかの時点の経ということを意味する。</blockquote></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;"><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">　⑤なお理屈の上からは［以前経］という概念もありうる。たとえばその経にはマガダのビンビサーラ王が登場する以外に有用な情報を含んでいないような場合であって、われわれは阿闍世がビンビサーラから王位を奪ったのは釈尊72歳＝成道38年の時であって、年表では「72.306［阿闍世＝22〜26歳］マガダ国の王となる」と処理しているから、この経は釈尊72歳の［以前経］であることになる。しかし経には原則として仏在処が示され、たとえばそれが王舎城の竹林精舎や舎衛城の祇園精舎である場合には、竹林精舎が寄進された「44.101［ビンビサーラ王］竹林園を「仏を上首とする比丘サンガ」に寄進する」や「48.103［給孤独長者］成道後初めて舎衛城を訪れた釈尊に祇園精舎を寄進する」の以後経であることになるから、したがって以前情報を含んでいる経はすべて「からまで経」になるので［以前経］に相当する経は存在しない。</blockquote></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">（2）ただし以上の概念は「B文献」や「C文献」にはあてはまらない。これらの文献は先述したように、「A文献」を注釈ないしは解釈するという立場で制作されたものであって、客観的にいえば「仏説」ではないから「説時」という概念は成り立たないからである。たとい形式上は「仏説」という形をとっているとしても、釈尊がある時点で「原始仏教聖典」に記されている事績を振り返るということになるのであるから、いわばすべてが釈尊が自身の事績を語る回想経ということになる。<br />　しかしながら「説時」を基準に配列した「目録」の第Ⅰ部にこれらを含めたのは、「B文献」や「B文献」が、原始仏教聖典の内容をどのように解釈し、再構成し、あるいは脚色したかということを知るためには、「A文献」と並記した方が分かりやすいと考えたからである。<br />　そこで「B文献」や「C文献」は原則としてすべて［当該経］ないしは［同時経］として扱っており、［からまで経］や［以後経］、それに第Ⅱ部に収録すべき［回想経］はない。ただしヴィパッシン仏などの過去仏の事績やアビダルマ文献などの事績項目を解釈するものなどは［参考経］とした。<br />　そこで釈尊が成道される以前の事績には「A文献」がないにかかわらず、「B文献」や「C文献」が挙げられるという奇妙な形となった。原始仏教聖典の「経」は仏説であるから、すべては釈尊が成道されて以降に説かれたことになって、すべては回想経となるに拘わらず、「B文献」や「C文献」はこれらも「当該経」「同時経」として扱ったがためである。<br />　なおたとえば釈尊が提婆達多と妻を取り合ったという嫁取りのような神話は後世に創作された説話であるから年表には反映していない。このようなものは「15.502［釈尊］ラーフラの母（5歳）と結婚」の同時経として扱った。<br />　以上のように［当該経］［同時経］の概念は、「A文献」と「B文献」「C文献」において違いがあるが、これを無視してこの両者を並記した。それらはその事績を主題とするか、あるいは同時ないしは同時期の事績を主題とするという点では共通するからである。むしろ上記のような概念つけは、この「目録」を編集するわれわれ自身の作業規範というべきものであって、でき上がったものを素直に見ていただければ、それほどの違和感はないはずである。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">（3）最後に「<b>不明経</b>」を掲げた。これらはそのデータのなかに、例えば教えの内容のみで、それが「どこ」で「誰」に説かれたというような「説時」を推定すべき情報が含まれていないものである。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">（4）聖典名はパーリ文献はすべてPAli Text Society（PTS）本、漢訳文献はすべて大正新脩大蔵経であり、ページは該当データの頭のページを示してある。１つの経の中に複数の事績が含まれる場合もすべて当該データの頭のページを示してあるので注意されたい。<br />　以上の他に用いた文献も多いが、ここではその一々を記すことは省略する。「モノグラフ」に記した論文あるいは資料集をご参照願いたい。ホームページ（http://www.sakya-muni.jp/）の検索機能をお使いいただけば、容易に見いだされるはずである。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">（5）聖典名の前に※を付したものは、この聖典の中に<b>矛盾情報</b>が含まれるということを示す。たとえば<i>DN.16 Mahāparinibbāna-s.</i>には舎利弗が登場する。それは釈尊が王舎城から最後の雨安居を過ごされたヴェーサーリーの近郊の竹林村に行かれる途中のナーランダーのパーヴァリカ・アンバ林でのことであって、われわれはこれを釈尊78歳の雨安居後のことであったと考えている。しかるにわれわれは年表において舎利弗と目連はその前年の釈尊の77歳頃に入滅したとしているから、明らかにその時点では舎利弗は死んでいなければならず、この時点に登場するのは矛盾ということになる。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">　われわれが舎利弗・目連が釈尊77歳の時に入滅したと考えたのは、この他の漢訳やサンスクリットの『涅槃経』にはこの場面では舎利弗は登場せず、ここに舎利弗が登場するのは特異な伝承であって、逆に漢訳聖典やパーリの注釈書には舎利弗・目連は釈尊の入滅前に死亡したという伝承があるからであって、こちらの方を採用したからである。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">　このような矛盾が生じる原因は大きく分けて次の２つのケースが考えられる。１つは舎利弗の死のように、聖典自身の中に異伝承が含まれ、そのいずれかを採用すると他には矛盾が生じるというケースである。そしてもう１つは、われわれの釈尊や釈尊教団史にかかわる事績の年次想定に誤りがあるというケースである。もちろん矛盾がある場合は、その原因を追及して、できるだけ解決することが必要であるが、現時点ではこれを精細に行う余裕がないので、とりあえず現時点でのわれわれの考えを「聖典概要」の後に※を付して示しておいた。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">（6）「A文献」の聖典名の後にはその聖典の「仏在処」と「仏説処」を示した。<br />「仏在処」とは経蔵では「如是我聞。一時仏在羅閲祇耆旧童子菴婆園中」とか'Evaṃ me sutaṃ. Ekaṃ samayaṃ Bhagavā Rājagahe viharati Jīvakassa komārabhaccassa Ambavane'とする下線を施した部分に相当し、同じく律蔵が「爾時世尊遊羅閲城耆闍崛山中」とか'Tena samayena Buddho Bhagavā Rājagahe viharati Gijjhakūṭe pabbate'とする下線を施した部分に相当する。またこの仏在処の国名・地名が記されているものは、その経に釈尊が登場することをも意味する。<br />　しかし長い聖典で釈尊が経のはじめにおられるところから住処を移動される場合は、当然のことながら「如是我聞。一時仏在○○」などとは示されない。そこでこのような場合の釈尊がおられる場所を「説処」とした。詳しくは「仏在処・説処一覧」の凡例をご覧いただきたい。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">　なお経の中には釈尊が登場しないものがあり、この場合は仏在処は記されない。しかし仏弟子たちの住処は記されるので、この場合は説処に相当する部分に（　）でくくって示した。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">　また「B文献」「C文献」は仏説ではないから客観的にいえば「仏在処」「説処」はないはずであるが、<i>Jātaka</i>のaṭṭhakathāなどには「この本生物語は仏が舎衛城の近くの祇園精舎におられた時に話されたものである」などとしてそれが示されているし、他の経典でも釈尊の所在が示されていることがあり、その場合には「仏在処」として処理している。<br />（7）「聖典概要」はその経のあらましである。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;"><br /></blockquote>

<p>【7】「<b>第Ⅱ部　回想・参考記事による目録</b>」の構成<br /></p><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">（1）第Ⅱ部の「回想・参考記事による目録」は釈尊の何歳＝成道何年の事績名の後に［回想経］［参考経］という順序に示してある。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">　これらは「A文献」については以下のような意味である。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;"><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">①［<b>回想経</b>］というのは、釈尊がある時点で過去の事績を回想して話されるものである。</blockquote></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;"><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">②［<b>参考経</b>］というのは、釈尊の事績ではなくたとえばヴィパッシン仏などの過去仏の事績や、<i>Theragātā</i>や<i>Apadāna</i>など仏弟子の説いたもので「仏説」の形をとらないが項目となっている事績に関連するものである。</blockquote></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">（2）上述のように「B文献」や「C文献」には回想経はない。［参考経］については「A文献」と異ならない。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">（3）その他の事項はすべて第Ⅰ部にのっとっている。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;"><br /></blockquote>

<p>【8】本目録作成のための便宜的措置<br />　「説時」を決定する際にいくつかの便宜的処理を施している。あまりにも便宜的すぎるという批判がありうることは十分予想しているが、現時点ではやむを得ない措置であった。<br /></p><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">（1）仏在処によってその経の「説時」を判断しなければならないようなとき、対応する複数の経典において仏在処が異なる場合がある。登場人物も内容も相似しているのに、これらを別の経として扱うことは不適切であると考えて、いずれかの仏在処を採用した。その際、祇園精舎とか竹林精舎などは、仏在処が不明な時に仮に舎衛城や竹林精舎とするという聖典自身の伝承があるので、もしこのような一般的な仏在処でない場所が含まれている場合には、この場所を仏在処とした。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">（2）われわれは研究によって釈尊はそれほど遊行に明け暮れられたわけではなく、むしろ1年のうちで遊行期間はわずか3ヶ月くらいであったと考えている。しかも1日の移動距離はわずか1由旬（約11.5km）ほどであったから、1年にたとえば王舎城から舎衛城に移動するのがせいぜいのところであって、この間を往復するようなことはなかったであろう。もちろんそれでも生涯の中では舎衛城や王舎城などはしばしば訪れられたであろうが、しかし仏教中国の圏外にある地方の都市や村には何度も訪れられるということはなかったと考え、それらの都市や村を仏在処とする経はすべて同一時点のものであると考えた。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">（3）パーリのSN.とAN.には仏在処が示されない経が数多く存在する。しかし漢訳の雑阿含や増一阿含はすべての経に仏在処が示されている。おそらくパーリ聖典でも仏説の経である限り仏在処が示されるべきところが、何らかの原則のもとに省略されたのであろう。おそらく舎衛城の祇樹給孤独園が仏在処であるものが省略されたか、あるいは仏在処が省略されている一連の経の最初に記された場所がそれであろう。しかしもし前者であるならばわざわざ仏在処を舎衛城の祇樹給孤独園と明示するものがあるのが不思議であるし、もし後者であったとするならば、王舎城の竹林園を仏在処とすると考えられる経の中に、その時１人の天がジェータ林を輝かせて世尊の前に現れたというような記述があったり、王舎城を仏在処とする一連の経の中に、その時舎利弗はバーラーナシーにいたなどという場合があるのが理にあわない。このように仏在処が記述されない経をどのように処理するかという問題が残されているが、一応ここでは後者を採用した。そしてもしこれによって矛盾が生じる場合には矛盾経として指摘しておいた。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">（4）実は仏在処が明示されない経が他にも存する。それは釈尊が登場しない経であって、釈尊が登場しないのであるから仏在処が示されないのは当然であり、この場合は漢訳の経典も同じである。釈尊のおられない場所での仏弟子たちの行動が経として残されたということもありうるであろうが、しかし建前として「仏説」である原始経典に釈尊が登場しないのは、通常の経としては原則外といわなければならない。そこで本目録ではこのような経はすべて釈尊入滅後の経として処理した。釈尊の入滅後に行われた結集記事も原始聖典の中に組み込まれているのであるから、このようなこともありうると考えたからである。しかしこのように処理すると、釈尊入滅後の経に釈尊の入滅前に死亡したと考えられている舎利弗が登場するという経が存在するから矛盾となる。このような場合も目録においては「矛盾経」として指摘しておいた。<blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;"><br /></blockquote></blockquote>

<p>【9】おことわり<br />　本「目録」はわれわれが研究のために蓄積してきた「釈尊データ」をそのまま利用している。したがって完成度という点において欠ける次のようないくつかの事項が生じている。ご寛恕いただきたい。<br /></p><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">（1）経の中には短い文章の中にたくさんの釈尊の事績が簡単に記されているものがある。このような場合は事績に応じて細分すべきであるが、もとのデータが分割されていないためどれか１つの事績に代表させた。「目録」には経の概要も合わせ示したので、この概要をお読みいただければ、当該データの中にどのような事績が含まれているかはお分かりいただけるはずである。<br />　ただしそれが［回想経］あるいは［参考経］扱いとなる場合は、1つのデータをその事績の数だけ複製して、それぞれの事績の項目下に収めた。要するに1つのデータを何度も使い回すような形となったわけであり、同じ「聖典概要」が何度も現れるのはこのためである。<br />　換言すれば、「第Ⅰ部」に掲げた経は元のデータ数と一致し、１つの経が複数のの項目に掲げられることはないが、「第Ⅱ部」においてはデータを複製したため、「第Ⅱ部」に掲げた経数は元データ数よりも多くなっているということになる。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">（2）この目録は我々がデータを蓄積し、分析するために用いているデータ処理ソフトであるFileMaker社のFileMaker Pro 9に書き込まれたデータから必要項目を選び出して、バーチャルなテキストを作り出し、これをそのままプリントしたものである（このソフトではバーチャルなテキストをワープロなどのテキストとして書き出すことができないため）。このソフトと通常用いるワープロソフトとの間には、例えばパーリ語やサンスクリット語に用いられる特殊符号の付いた文字や特殊な漢字にはフォントの互換性がないため、データの段階ではそれを修正していない。したがってプリントされた聖典名や聖典概要には文字化けした文字が含まれている。また不体裁な余白が多いこともここに由来している。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">（3）このデータはわれわれが研究するためにさまざまな工夫を行っている。たとえば漢訳聖典では人名や国名などの固有名詞はさまざまに翻訳されるので、どのような翻訳語であろうと１人の人物あるいは１つの国名が簡単に検索できるように、それぞれに4桁の番号を与えている。目録にはこのような番号は不必要であるが、われわれがデータとして用いる場合にはこれは必要であるので、これがこのまま残っている。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">（4）本データは長年月にわたって複数の者が入力したものである。そこで特に「聖典概要」の部分においては叙述に精粗の違いがあり、また用語や文体がばらばらで不統一である。本来ならこれを統一する努力をするべきであるが、時間の制約があってこれもこのまま残されている。</blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;"><br /></blockquote><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="text-align: right;margin-top: 0px; margin-right: 0px; margin-bottom: 0px; margin-left: 20px; border-top-style: none; border-right-style: none; border-bottom-style: none; border-left-style: none; border-width: initial; border-color: initial; padding-top: 0px; padding-right: 0px; padding-bottom: 0px; padding-left: 0px; ">以上　　</blockquote>]]>
        目次
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    <title>現地調査の目次</title>
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    <published>2010-12-13T00:19:58Z</published>
    <updated>2010-12-13T00:21:11Z</updated>

    <summary> 「釈尊年齢にしたがって配列した原始仏教聖典目録」凡例 　　　　　　　　　　　　...</summary>
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        <name>釈尊伝</name>
        
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「釈尊年齢にしたがって配列した原始仏教聖典目録」凡例

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　森　章司

【1】本目録制作の目的
本「釈尊年齢にしたがって配列した原始仏教聖典目録」は、立正佼成会の一機関である中央学術研究所の委託を受けて行ってきた「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」が、本年（2010年）の11月末をもって終了するにともない、その成果報告書の一部として制作されたものである。

【2】本目録制作の意図
この研究は原始仏教聖典を基礎資料として釈尊の伝記を書き上げるということを最終目的としている。この目録はその準備段階として、これを文章にまとめれば自然に釈尊の伝記ができ上がるということをめざして、釈尊の年齢にそって原始仏教聖典を配列したものである。
またわれわれはこの研究をさまざまな作業仮説を設けて進めてきたので、この目録はその編集を通じてその仮説が正しかったかどうかを検証するという意図をも併せ有している。この研究はほぼ完了したとはいうものの、なお細部の研究や総括・検証の作業が残されており、今後は「釈尊伝研究会」としてこれを継続して行うことになっているので、より完成度の高いものをつくるための作業の一環として制作されたということもできる。

【3】本目録全体の構成
この目録は、この研究の成果として作り上げた別紙「釈尊および釈尊教団史年表」の年度ごとの事績を時間軸として、その時説かれた経あるいはその事績を回想している経にはどのようなものがあるかということを、経名とページ、その仏在処・説処、概要ならびに対応経を示したものである。したがって本「目録」は「第Ⅰ部　説時による目録」と「第Ⅱ部　回想・参考記事による目録」の2部構成となっている。第Ⅰ部は釈尊の生涯のどの時点において説かれた経にはどのようなものがあるかを示したものであり、第Ⅱ部は釈尊の生涯のどの時点の事績を回想している経にはどのようなものがあるかを示したものである。
たとえば釈尊が80歳の誕生日を迎えられた時に、出家した日のことを回想された経があったとするならば、「80歳の誕生日」の経として配列したものが第Ⅰ部であり、「出家した日」の記事として配列したものが第Ⅱ部であるということになる。
言うなれば「説時」とは、経蔵が「一時（ekaM samayaM）」と示し、律蔵が「その時（tena samayena）」と示す、この「一時」「その時」をさすことになる（1）。しかしながら原始仏教聖典自身は、この「一時」「その時」がいつの時点であるかを特定していないのが常であり、成道直後と入滅直前の事績にそれが明示されているのみである（2）。本研究の最終目的は、これらの「一時（ekaM samayaM）」あるいは「その時（tena samayena）」がいつの時点であるかを特定して、釈尊の生涯のすべての事績をカバーした伝記を執筆することにあるが、本「聖典目録」はその素材であり、また完璧な釈尊伝を作成するための検証作業であるということができる。
（1）原始仏教聖典は釈尊が入滅されたその年の雨安居に、摩訶迦葉をはじめとする仏弟子の主立った者500人が王舎城に集まって、釈尊の教えのうちの法（経）を阿難が説き、律をウパーリが説いたものを確認しあったものとされているから、理屈の上からいえばこれが「説時」であるともいいうる。しかし阿難もウパーリも、釈尊が在世中のいずれかの時点に説かれたことを復唱したのであり、ここにいう「説時」とはこの釈尊在世中のいずれかの時点を指すと理解されたい。
（2）原始仏教聖典はすべて釈尊の言行録といってよいのであるが、それらは日付の失われた日記帳のようなものであるから、釈尊がどのような事績を残されたのかは詳しくわかっているのに、それを時系列ないしは年齢にしたがって編集できないために、今まで釈尊の全生涯をカバーする伝記というものが存在しなかったのである。仏伝経典と称されるものがあるが、これは釈尊の成道直後（と入滅直前）の、生涯のほんの一瞬間の、ほんの一部の事績を記したものであることはしばしば指摘してきたところである。

【4】本目録に収録した文献の種類
本「目録」は「原始仏教聖典目録」を標題としているが、これには大きく分ければ3種類の文献が含まれている。
1つは「原始仏教聖典（以後A文献と呼ぶ）」であり、これには主にパーリ語で書かれた「経蔵」（パーリ語のDIgha-NikAyaなど5ニカーヤと、漢訳の長阿含経など4阿含・別訳雑阿含ならびに法顕訳「大般涅槃経」などの単経、サンスクリットのMahAparinirvANa-sUtra）と「律蔵」（パーリ語のVinayaと漢訳の四分律・五分律・十誦律・摩訶僧祇律・根本有部律）などが含まれている。ただし釈尊がどこで、誰に説かれたのかが明示されていない、したがって「説時」を想定しにくいDhammapadaやSuttanipAta、仏説ではないTheragAthA, TherIgAthA, ApadAnaや仏説とは見なしがたいItivuttaka, BuddhavaMsaなどは除外している。ただしこれらにも本目録で取り上げた釈尊自身や釈尊教団に関するさまざまな事績が記されている場合は「参考経」として利用した。
2つめは「後期の原始仏教聖典（以後B文献と呼ぶ）」であり、これには主にパーリ語で書かれたNidAnakathAなどの経蔵・律蔵に対する注釈書や、漢訳された「修行本起経」などの仏伝経典や経蔵・律蔵に対する注釈書、ならびに論蔵などが含まれている。
3つめは「後世の釈迦仏教文献（以後C文献と呼ぶ）」であり、これには主に東南アジアや中国において釈尊の生涯に関して記述されたJinakAlamAlIなどや「釈迦譜」などが含まれている。
したがってこの「目録」には「原始仏教聖典」以外の文献も含まれていることになるが、あえてこれに「原始仏教聖典」の名を冠したのは、「後期の原始仏教聖典」はもちろん「後世の釈迦仏教文献」も、すべて「原始仏教聖典」をよりどころとして、これを注釈ないしは解釈するという立場で成立したものであるからである。

【5】本目録に採録した聖典の単位
以上において「経」と呼んできたものは、実際にはわれわれが上記の研究を行うためにコンピュータの中に蓄積してきた「釈尊伝データ」と呼んでいるもののデータ1件づつをいう。
「釈尊伝データ」は次のような原則のもとに作られている。「A文献」のうちの経蔵については、原則として1つの経が1データである。ただし『涅槃経』のような長い経で、時間的には長期にまたがり、空間的には1ヶ所に限定できないものは、主に釈尊がおられる場所を単位としていくつかに分割している。その要領は「モノグラフ」第2号、4号、5号、8号、15号に掲載した「仏在処・説処一覧」の凡例を参照願いたい。
また「A文献」のうちの律蔵の経分別については、原則として1つの条文が1データであるが、その条文の制定の因縁に複数のエピソードがあったり、判例の部分にも複数のエピソードが含まれているような場合には、そのエピソードごとに作られている。犍度分については、それぞれの犍度を単位とするのではなく、原則として１つのエピソードを単位としてデータが作られている。
「B文献」「C文献」は原則として釈尊の事績ごとにデータが作られている。たとえば『過去現在因果経』などの仏伝経典にはたくさんの釈尊の事績が記述されており、たとえば事績の数が50であったとすれば、１つの『過去現在因果経』が50のデータに分割されていることになる。ただし事績は細分するのではなく、あるまとまりを１つとして考えている。これについては「モノグラフ」第3号に掲載した「仏伝諸経典および仏伝関係諸資料のエピソード別出典要覧」を参照願いたい。

【6】「第Ⅰ部　説時による目録」の構成
（1）第Ⅰ部の「説時による目録」は、釈尊の何歳＝成道何年の事績項目のもとに［当該経］［同時経］［からまで経（実際には54.301〜60.501経という形で表示）］［以後経］という順序に示してある。これらは「A文献」については以下のような意味である。
　なお本目録では釈尊の事績を54.301とか60.501という数字で整理している。整数部分は出胎を誕生とする釈尊の満年齢を表し、小数点第１位の「0.1」「0.2」「0.3」「0.4」「0.5」はそれぞれ「雨安居前」「雨安居中」「雨安居後」「この年」「この頃」、そして小数点第2位以下はその期間中の事績の順序を表す。たとえば&apos;54.301&apos;は釈尊54歳の雨安居後の第１番目の事績を表し、&apos;60.501&apos;は釈尊60歳前後の第1番目の事績を表す。事績にこのような番号をふった理由については、「釈尊および釈尊教団史年表」の凡例（4）ならびに（6）を参照されたい。
　①［当該経］というのは、その経に書かれている事績がそのまま説時を表す場合であって、たとえば「ある時世尊はバーラーナシーの近郊の仙人堕処鹿野苑におられた。その時世尊は5人の比丘たちに対して中道と四諦の教えを説かれた」というような場合である。われわれは初転法輪は釈尊36歳＝成道2年の雨安居前のことであったと考えているから、この経は釈尊35歳の雨安居前の事績番号では36.101「［釈尊］仙人堕処鹿野苑において5比丘に初めて法輪を転じる」の「当該経」ということになる。経蔵と律蔵にはこの初転法輪を描く経がいくつもあるから、もちろんそのすべてが［当該経］である。しかしもし入滅のありさまを描く経の中でこの初転法輪の場面を振り返っているとするならば、その経自身は入滅を表す［当該経］になるが、初転法輪を振り返る部分は36.101「［釈尊］仙人堕処鹿野苑において5比丘に初めて法輪を転じる」の［回想経］となる。
　②［同時経］というのは、もしこの釈尊36歳＝成道2年の、仙人堕処鹿野苑を仏在処とする経において、中道や四諦ではなくたとえば四念処を説かれている経典があるとすれば、それは「36.101［釈尊］仙人堕処鹿野苑において5比丘に初めて法輪を転じる」の［同時経］となる。もちろんこのような経がいくつもあり、しかもこれが初転法輪の時点の教えであることが明白であるならば、初転法輪の場面にこの四念処を説かれたという事績が加わり、「36.101［釈尊］仙人堕処鹿野苑において5比丘に初めて法輪を転じる」とは別に、「36.102［釈尊］仙人堕処鹿野苑において5比丘に対して四念処を説く」という事績を設けることになるが、このような新たな事績を設けるほどの事績ではないと判断した場合に36.101の［同時経］とした。
　③「からまで経」というのは、その経典の説時を特定することはできないが、いくつかの情報をもとにして、たとえば釈尊48歳から、77歳までの間と判断されるような場合である。たとえばその経が祇園精舎を舞台とし、そこには舎利弗と目連が登場する以外に、特段の年代を想定する情報が含まれないような場合である。われわれは祇園精舎が給孤独長者によって寄進されたのは釈尊48歳＝成道14年であって、年表では「48.103［給孤独長者］成道後初めて舎衛城を訪れた釈尊に祇園精舎を寄進する」と処理しており、また舎利弗・目連が釈尊に先立って入滅したのは釈尊が77歳＝成道43年の時で、「77.501［舎利弗・目連］入滅する」と処理しているので、この経は「48.103［給孤独長者］成道後初めて舎衛城を訪れた釈尊に祇園精舎を寄進する」から、「77.501［舎利弗・目連］入滅する」まで経になるわけである。
そしてこのような経は「から」に相当する釈尊48歳のところに収録し、［48.103〜77.501経］と示している。そしてその後に77.501がどのような事績であるかがわかるように「「＜以前経＞［舎利弗・目連］入滅する。」と記しておいた。
　④［以後経］というのは、たとえばその経が祇園精舎を舞台とする以外の他の有用な情報を含んでいない場合は、その経は「48.103［給孤独長者］成道後初めて舎衛城を訪れた釈尊に祇園精舎を寄進する」の以後経となる。その経は祇園精舎が建設されてから、釈尊が入滅されるまでのいずれかの時点の経ということを意味する。
　⑤なお理屈の上からは［以前経］という概念もありうる。たとえばその経にはマガダのビンビサーラ王が登場する以外に有用な情報を含んでいないような場合であって、われわれは阿闍世がビンビサーラから王位を奪ったのは釈尊72歳＝成道38年の時であって、年表では「72.306［阿闍世＝22〜26歳］マガダ国の王となる」と処理しているから、この経は釈尊72歳の［以前経］であることになる。しかし経には原則として仏在処が示され、たとえばそれが王舎城の竹林精舎や舎衛城の祇園精舎である場合には、竹林精舎が寄進された「44.101［ビンビサーラ王］竹林園を「仏を上首とする比丘サンガ」に寄進する」や「48.103［給孤独長者］成道後初めて舎衛城を訪れた釈尊に祇園精舎を寄進する」の以後経であることになるから、したがって以前情報を含んでいる経はすべて「からまで経」になるので［以前経］に相当する経は存在しない。
（2）ただし以上の概念は「B文献」や「C文献」にはあてはまらない。これらの文献は先述したように、「A文献」を注釈ないしは解釈するという立場で制作されたものであって、客観的にいえば「仏説」ではないから「説時」という概念は成り立たないからである。たとい形式上は「仏説」という形をとっているとしても、釈尊がある時点で「原始仏教聖典」に記されている事績を振り返るということになるのであるから、いわばすべてが釈尊が自身の事績を語る回想経ということになる。
しかしながら「説時」を基準に配列した「目録」の第Ⅰ部にこれらを含めたのは、「B文献」や「B文献」が、原始仏教聖典の内容をどのように解釈し、再構成し、あるいは脚色したかということを知るためには、「A文献」と並記した方が分かりやすいと考えたからである。
そこで「B文献」や「C文献」は原則としてすべて［当該経］ないしは［同時経］として扱っており、［からまで経］や［以後経］、それに第Ⅱ部に収録すべき［回想経］はない。ただしヴィパッシン仏などの過去仏の事績やアビダルマ文献などの事績項目を解釈するものなどは［参考経］とした。
そこで釈尊が成道される以前の事績には「A文献」がないにかかわらず、「B文献」や「C文献」が挙げられるという奇妙な形となった。原始仏教聖典の「経」は仏説であるから、すべては釈尊が成道されて以降に説かれたことになって、すべては回想経となるに拘わらず、「B文献」や「C文献」はこれらも「当該経」「同時経」として扱ったがためである。
なおたとえば釈尊が提婆達多と妻を取り合ったという嫁取りのような神話は後世に創作された説話であるから年表には反映していない。このようなものは「15.502［釈尊］ラーフラの母（5歳）と結婚」の同時経として扱った。
以上のように［当該経］［同時経］の概念は、「A文献」と「B文献」「C文献」において違いがあるが、これを無視してこの両者を並記した。それらはその事績を主題とするか、あるいは同時ないしは同時期の事績を主題とするという点では共通するからである。むしろ上記のような概念つけは、この「目録」を編集するわれわれ自身の作業規範というべきものであって、でき上がったものを素直に見ていただければ、それほどの違和感はないはずである。
（3）最後に「不明経」を掲げた。これらはそのデータのなかに、例えば教えの内容のみで、それが「どこ」で「誰」に説かれたというような「説時」を推定すべき情報が含まれていないものである。
（4）聖典名はパーリ文献はすべてPAli Text Society（PTS）本、漢訳文献はすべて大正新脩大蔵経であり、ページは該当データの頭のページを示してある。１つの経の中に複数の事績が含まれる場合もすべて当該データの頭のページを示してあるので注意されたい。
　　　以上の他に用いた文献も多いが、ここではその一々を記すことは省略する。「モノグラフ」に記した論文あるいは資料集をご参照願いたい。ホームページ（http://www.sakya-muni.jp/）の検索機能をお使いいただけば、容易に見いだされるはずである。
（5）聖典名の前に※を付したものは、この聖典の中に矛盾情報が含まれるということを示す。たとえばDN.16 MahAparinibbAna-s.には舎利弗が登場する。それは釈尊が王舎城から最後の雨安居を過ごされたヴェーサーリーの近郊の竹林村に行かれる途中のナーランダーのパーヴァリカ・アンバ林でのことであって、われわれはこれを釈尊78歳の雨安居後のことであったと考えている。しかるにわれわれは年表において舎利弗と目連はその前年の釈尊の77歳頃に入滅したとしているから、明らかにその時点では舎利弗は死んでいなければならず、この時点に登場するのは矛盾ということになる。
　　　われわれが舎利弗・目連が釈尊77歳の時に入滅したと考えたのは、この他の漢訳やサンスクリットの『涅槃経』にはこの場面では舎利弗は登場せず、ここに舎利弗が登場するのは特異な伝承であって、逆に漢訳聖典やパーリの注釈書には舎利弗・目連は釈尊の入滅前に死亡したという伝承があるからであって、こちらの方を採用したからである。
　　　このような矛盾が生じる原因は大きく分けて次の２つのケースが考えられる。１つは舎利弗の死のように、聖典自身の中に異伝承が含まれ、そのいずれかを採用すると他には矛盾が生じるというケースである。そしてもう１つは、われわれの釈尊や釈尊教団史にかかわる事績の年次想定に誤りがあるというケースである。もちろん矛盾がある場合は、その原因を追及して、できるだけ解決することが必要であるが、現時点ではこれを精細に行う余裕がないので、とりあえず現時点でのわれわれの考えを「聖典概要」の後に※を付して示しておいた。
（6）「A文献」の聖典名の後にはその聖典の「仏在処」と「仏説処」を示した。
「仏在処」とは経蔵では「如是我聞。一時仏在羅閲祇耆旧童子菴婆園中」とか&apos;EvaM me sutaM. EkaM samayaM BhagavA RAjagahe viharati JIvakassa komArabhaccassa Ambavane&apos;とする下線を施した部分に相当し、同じく律蔵が「爾時世尊遊羅閲城耆闍崛山中」とか&apos;Tena samayena Buddho BhagavA RAjagahe viharati GijjhakUTe pabbate&apos;とする下線を施した部分に相当する。またこの仏在処の国名・地名が記されているものは、その経に釈尊が登場することをも意味する。
しかし長い聖典で釈尊が経のはじめにおられるところから住処を移動される場合は、当然のことながら「如是我聞。一時仏在○○」などとは示されない。そこでこのような場合の釈尊がおられる場所を「説処」とした。詳しくは「仏在処・説処一覧」の凡例をご覧いただきたい。
　　　なお経の中には釈尊が登場しないものがあり、この場合は仏在処は記されない。しかし仏弟子たちの住処は記されるので、この場合は説処に相当する部分に（　）でくくって示した。
また「B文献」「C文献」は仏説ではないから客観的にいえば「仏在処」「説処」はないはずであるが、JAtakaのaTThakathAなどには「この本生物語は仏が舎衛城の近くの祇園精舎におられた時に話されたものである」などとしてそれが示されているし、他の経典でも釈尊の所在が示されていることがあり、その場合には「仏在処」として処理している。
（7）「聖典概要」はその経のあらましである。

【7】「第Ⅱ部　回想・参考記事による目録」の構成
（1）第Ⅱ部の「回想・参考記事による目録」は釈尊の何歳＝成道何年の事績名の後に［回想経］［参考経］という順序に示してある。
　　　これらは「A文献」については以下のような意味である。
①［回想経］というのは、釈尊がある時点で過去の事績を回想して話されるものである。
②［参考経］というのは、釈尊の事績ではなくたとえばヴィパッシン仏などの過去仏の事績や、TheragAtAやApadAnaなど仏弟子の説いたもので「仏説」の形をとらないが項目となっている事績に関連するものである。
（2）上述のように「B文献」や「C文献」には回想経はない。［参考経］については「A文献」と異ならない。
（3）その他の事項はすべて第Ⅰ部にのっとっている。

【8】本目録作成のための便宜的措置
「説時」を決定する際にいくつかの便宜的処理を施している。あまりにも便宜的すぎるという批判がありうることは十分予想しているが、現時点ではやむを得ない措置であった。
（1）仏在処によってその経の「説時」を判断しなければならないようなとき、対応する複数の経典において仏在処が異なる場合がある。登場人物も内容も相似しているのに、これらを別の経として扱うことは不適切であると考えて、いずれかの仏在処を採用した。その際、祇園精舎とか竹林精舎などは、仏在処が不明な時に仮に舎衛城や竹林精舎とするという聖典自身の伝承があるので、もしこのような一般的な仏在処でない場所が含まれている場合には、この場所を仏在処とした。
（2）われわれは研究によって釈尊はそれほど遊行に明け暮れられたわけではなく、むしろ1年のうちで遊行期間はわずか3ヶ月くらいであったと考えている。しかも1日の移動距離はわずか1由旬（約11.5km）ほどであったから、1年にたとえば王舎城から舎衛城に移動するのがせいぜいのところであって、この間を往復するようなことはなかったであろう。もちろんそれでも生涯の中では舎衛城や王舎城などはしばしば訪れられたであろうが、しかし仏教中国の圏外にある地方の都市や村には何度も訪れられるということはなかったと考え、それらの都市や村を仏在処とする経はすべて同一時点のものであると考えた。
（3）パーリのSN.とAN.には仏在処が示されない経が数多く存在する。しかし漢訳の雑阿含や増一阿含はすべての経に仏在処が示されている。おそらくパーリ聖典でも仏説の経である限り仏在処が示されるべきところが、何らかの原則のもとに省略されたのであろう。おそらく舎衛城の祇樹給孤独園が仏在処であるものが省略されたか、あるいは仏在処が省略されている一連の経の最初に記された場所がそれであろう。しかしもし前者であるならばわざわざ仏在処を舎衛城の祇樹給孤独園と明示するものがあるのが不思議であるし、もし後者であったとするならば、王舎城の竹林園を仏在処とすると考えられる経の中に、その時１人の天がジェータ林を輝かせて世尊の前に現れたというような記述があったり、王舎城を仏在処とする一連の経の中に、その時舎利弗はバーラーナシーにいたなどという場合があるのが理にあわない。このように仏在処が記述されない経をどのように処理するかという問題が残されているが、一応ここでは後者を採用した。そしてもしこれによって矛盾が生じる場合には矛盾経として指摘しておいた。
（4）実は仏在処が明示されない経が他にも存する。それは釈尊が登場しない経であって、釈尊が登場しないのであるから仏在処が示されないのは当然であり、この場合は漢訳の経典も同じである。釈尊のおられない場所での仏弟子たちの行動が経として残されたということもありうるであろうが、しかし建前として「仏説」である原始経典に釈尊が登場しないのは、通常の経としては原則外といわなければならない。そこで本目録ではこのような経はすべて釈尊入滅後の経として処理した。釈尊の入滅後に行われた結集記事も原始聖典の中に組み込まれているのであるから、このようなこともありうると考えたからである。しかしこのように処理すると、釈尊入滅後の経に釈尊の入滅前に死亡したと考えられている舎利弗が登場するという経が存在するから矛盾となる。このような場合も目録においては「矛盾経」として指摘しておいた。

【9】おことわり
本「目録」はわれわれが研究のために蓄積してきた「釈尊データ」をそのまま利用している。したがって完成度という点において欠ける次のようないくつかの事項が生じている。ご寛恕いただきたい。
（1）経の中には短い文章の中にたくさんの釈尊の事績が簡単に記されているものがある。このような場合は事績に応じて細分すべきであるが、もとのデータが分割されていないためどれか１つの事績に代表させた。「目録」には経の概要も合わせ示したので、この概要をお読みいただければ、当該データの中にどのような事績が含まれているかはお分かりいただけるはずである。
　　　ただしそれが［回想経］あるいは［参考経］扱いとなる場合は、1つのデータをその事績の数だけ複製して、それぞれの事績の項目下に収めた。要するに1つのデータを何度も使い回すような形となったわけであり、同じ「聖典概要」が何度も現れるのはこのためである。
　　　換言すれば、「第Ⅰ部」に掲げた経は元のデータ数と一致し、１つの経が複数のの項目に掲げられることはないが、「第Ⅱ部」においてはデータを複製したため、「第Ⅱ部」に掲げた経数は元データ数よりも多くなっているということになる。
（2）この目録は我々がデータを蓄積し、分析するために用いているデータ処理ソフトであるFileMaker社のFileMaker Pro 9に書き込まれたデータから必要項目を選び出して、バーチャルなテキストを作り出し、これをそのままプリントしたものである（このソフトではバーチャルなテキストをワープロなどのテキストとして書き出すことができないため）。このソフトと通常用いるワープロソフトとの間には、例えばパーリ語やサンスクリット語に用いられる特殊符号の付いた文字や特殊な漢字にはフォントの互換性がないため、データの段階ではそれを修正していない。したがってプリントされた聖典名や聖典概要には文字化けした文字が含まれている。また不体裁な余白が多いこともここに由来している。
（3）このデータはわれわれが研究するためにさまざまな工夫を行っている。たとえば漢訳聖典では人名や国名などの固有名詞はさまざまに翻訳されるので、どのような翻訳語であろうと１人の人物あるいは１つの国名が簡単に検索できるように、それぞれに4桁の番号を与えている。目録にはこのような番号は不必要であるが、われわれがデータとして用いる場合にはこれは必要であるので、これがこのまま残っている。
（4）本データは長年月にわたって複数の者が入力したものである。そこで特に「聖典概要」の部分においては叙述に精粗の違いがあり、また用語や文体がばらばらで不統一である。本来ならこれを統一する努力をするべきであるが、時間の制約があってこれもこのまま残されている。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　以上 
        
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    <title>現地調査の目次</title>
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    <published>2010-06-01T01:12:31Z</published>
    <updated>2010-06-01T01:36:04Z</updated>

    <summary>　【文書09】「釈尊伝の研究」を通して見えてきたブッダの真実−−釈尊教団は存在し...</summary>
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        　【文書09】「釈尊伝の研究」を通して見えてきたブッダの真実−−釈尊教団は存在したか−−

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　森　章司（東洋大学名誉教授）

　本稿は2010年5月8日（土）に、国立オリンピック記念青少年総合センターにおいて行われた、日本テーラワーダ仏教協会主催の「大ウェーサーカ祭」の記念講演として行った講演原稿を、同協会の許しを受けてアップしたものである。なお番号のついた「小見出し」のような形になっているものは、講演の際にスクリーンに映写するために作成したパワー・ポイントのための原稿である。


（1）「釈尊伝の研究」を通して見えてきたブッダの真実−−釈尊教団は存在したか−−森　章司（東洋大学名誉教授）＊背景にアジャンター第26窟仏涅槃像の写真

　ご紹介いただきました森でございます。よろしくお願いいたします。本日は今スクリーンに映っておりますように、「『釈尊伝の研究』を通して見えてきたブッダの真実−−釈尊教団は存在したか−−」というテーマでお話させていただきたいと思います。実はこの「釈尊伝の研究」というのは、「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」という具体的な研究を指しています。この研究の成果はインターネット上に公開しておりまして、この写真はそのトップページに掲げてあるものでございます。ここにはお釈迦さまはどのような方だったかお釈迦さまのサンガはどのようなものだったか仏弟子たちはどのような活動をしていたかお釈迦さまたちはどのような生活をされていたかという文章が書き込んでありますが、これがこの研究の目指しているところを簡単に表したものです。これをもっと縮めていいますと、単にお釈迦さまの生涯の事績を時系列にしたがって並べるだけではなく、体温の感じられるような、生き生きとしたお釈迦さまの姿を描いてみたいということでございます。（2）「モノグラフ」第16号の写真

　この写真は、この1月に出しました第16冊目の「研究報告書」でありまして、発行所が「中央学術研究所」となっておりますが、これはこの研究を援助して下さっている研究所の名前でございます。ちょっと読みとりにくいと思いますが、この報告書に掲載しました論文は、「サンガにおける紛争解決の調停と犯罪裁判」という論文と、「紛争解決法としての多数決とその理念」という論文と、「原始仏教聖典などに見る就学・結婚などの平均年齢」という3つの論文でありまして、お釈迦さまと仏弟子たちの生き生きとした活動状況を知るための具体的な研究テーマはこのような細部にまで及んでいるわけでございます。この研究は平成4年（1992年）に数人の研究者に手伝っていただいて始めたものでありまして、もうやがて20年になろうとしております。42.195キロのマラソンに譬えますと、今はいちばん苦しいといわれる30キロから35キロを越えたところではないかと思います。その過程におきまして、スマナサーラ長老にもお出まし頂きまして、シンポジウムを催したこともございます。したがってまだ終了したわけではないのですが、今日はこの20年になんなんとする研究で分かってきたことの一端をお話させていただきたいということでございます。

（3）お釈迦さまの誕生・成道・般涅槃の日テーラワーダ仏教ウェーサーカ月の満月の日日本仏教仏生会（潅仏会　花祭り）＝4月8日成道会＝12月8日涅槃会＝2月15日

　ところで今日は、ウェーサーカ祭の行事でございますので、本題に入ります前に、お釈迦さまの誕生日と、成道日、般涅槃の日にちについて少しばかりお話をさせていただきたいと思います。と申しますのは、テーラワーダ仏教では、お釈迦さまの誕生・成道・入滅はともにヴェーサーカ月の満月の日ということになっておりまして、ヴェーサーカ月は今の暦で5月頃に相当しますので、今ごろにお祝いをするわけでございます。ところが日本仏教ではスクリーンに出しましたように、誕生日は4月8日、成道日は12月8日、涅槃日は2月15日ということになっておりまして、誕生・成道・入滅は別の日になっております。もちろんこれは中国に伝わった伝承をもとにしているわけでございますが、簡単に結論のみを申し上げますと、もともとは中国の伝承でも、お釈迦さまの誕生・成道・入滅の日にちは同じ日でありまして、しかもヴェーサーカ月ということですから、テーラワーダ仏教の伝承となんら違いがありませんでした。ところがインドの伝統的な暦では1年を何の月から始めるかということで異なった伝承がありまして、1年はチャイトラ月の白分（新月の翌日から満月まで）から始まるとインド政府が決めたのは1957年のことですから、まだ最近のことです。それまではてんでんばらばらな暦を使っていたわけです。かてて加えて中国では時代によってさまざまな暦が使われておりまして、王朝が変るとその権威を誇示するために暦を変えたといわれるほどでありますから、時代によってヴェーサーカ月を何月と翻訳するかということで違いができてしまったというわけでございます。しかしだからといって、本来はすべて同じ日にお祝いを行うべきなのに、違う日に行うことになったというのはおかしいのですが、お祭りの多い方がお寺に来ていただく機会が多くなるという深慮遠謀があるのかも知れません。要するにさまざまな伝承をつまみ食いして使っているということになります。ただしテーラワーダ仏教の伝承ではヴェーサーカ月の満月の日、すなわち15日とするわけですが、中国の伝承では8日とするところに違いがあります。なぜこのような違いが生じたのかはわかりません。ただし中国には伝承の中の１つとして、不思議なことに般涅槃だけは15日とする伝承もありますので、涅槃会を2月15日とするのは、それをつまみ食いしたわけです。ちなみにお釈迦さまは80歳で入滅されたとされています。これは数え年齢で数えた80歳か、満年齢で数えた80歳かご存知でしょうか。実はこれは満年齢です。中国古代には年齢を満で数えるという習慣はありませんでしたが、インドにはこの習慣があったのです（数え年齢も行われていました）。しかしこの80歳と数えた誕生日はヴェーサーカ月ではなくアーサールハという月の満月の日です。アーサールハ月の満月の日というのは、お釈迦さまがお母様のマハーマーヤーのお腹の中に入られた時であります。お釈迦さまも菩提樹下で成道されるまでは、生まれ変わり、死に変りされていたわけでありまして、前の世に死んで今の世に生まれ変わるのは、母親のお腹の中に生まれるという形になるのですから、今世の始まりは受胎の時ということになるわけです。お釈迦さまの正確な伝記を書くためには、このように誕生日が何時で、年齢の数え方はどうであったかということは基礎的な知識になりますので、このような研究もいたしました。本日はウェーサーカのお祭りということにちなんで、参考のために申し上げさせていただきました。ということでお話させていただきたいことはたくさんあるのですが、今日はあまり一般には知られていない、また知られているとしても誤解の多い、「サンガ」についてお話をさせていただくことにしました。

（4）サンガ『広辞苑』そうぎゃ【僧伽】：［仏］（梵語saMgha　和合衆・衆と訳）仏教の修行者の集まり。仏教の教団。『岩波　仏教辞典』僧伽　そうぎゃ：サンスクリット語saMghaに相当する音写。〈衆〉〈和合衆〉と漢訳。原義は集団・集会。......　これが仏教に採用されて修行者の集まり、教団の称とされた。

　スクリーンには『広辞苑』と『岩波仏教辞典』の、サンガの音写語である「僧伽」の解説を紹介させていただきました。この解説の執筆者がどのような具体的なイメージをもってこのように解説しているかわかりませんが、これによるとサンガには、5人とか10人とかの修行者たちからなる「集団」という意味と、すべての修行者を統合した組織体である「教団」という意味の、2つの意味があると理解されているといってよいのではないかと思います。前者の修行者の集団は、１つのお寺で共同生活しているお坊さんたちの集団を想像すればよろしいでしょう。そしてもう１つの「教団」はバチカンを本部とするカトリック教団のようなものを想像すると分かりやすいと思います。今ここでは前者を仮に「仏弟子たちのサンガ」とよび、後者を「釈尊教団」とよぶことにしたいと思います。

（5）カトリック教団の組織ローマ教皇全世界で2,500教区（日本は16教区　東京・大阪・長崎は大教区）責任者は司教（大司教）小教区＝教会（日本は796　*2008年）責任者は司祭（神父）

　カトリックの教会組織は、スクリーンに映したようになっています。下のほうからいいますと、2008年の統計では日本には796の教会があるそうです。これを「小教区」といいまして、その責任者は司祭です。一般には神父さんとよばれています。そしてこの「小教区」を統括するのが「教区」でありまして、日本には16の教区があるそうです。歴史とか規模などで一部の教区は大教区とよばれまして、その責任者は司教もしくは大司教です。この教区は全世界で2,500くらいあるそうでございまして、そのすべてを統括するのは「ローマ教皇」です。日本では宗教法人として法人格を持っているのは教区でありまして、１つ１つの教会は法人格を持っておりません。したがって日常的な教会の管理・運営は教区の司教が行うことになりますが、しかしこれはローマ教皇から委任をされているわけでありまして、聖職者の任免や、神父さんの勤務地の移動や、教会財産の取得や処分、あるいは教会の設置や廃止のような重大な意思決定の権限はローマ教皇にあるわけでございます。中央集権的に上下関係がきちんと整備されたピラミッド型の秩序や組織をヒエラルヒーといいますが、このヒエラルヒーということばは、もともとはこの教会組織をさすことばでした。このようにカトリックの場合は、整然と目に見える形で教団というものが存在し、その具体的な姿がバチカンであるわけです。しかし仏教にはバチカンに相当するようなものはありません。仏教に世界の総本山というものがあるなどということも聴いたことはありません。それでは『広辞苑』や『岩波仏教辞典』がいう「教団」はどのようなものをイメージしているのでしょうか。

（6）現前僧伽と四方僧伽『仏教大辞典』小学館：（サンガの項）......出家者である比丘の集団（4人以上）を比丘サンガといい、比丘尼の集団を比丘尼サンガといって、これらがそれぞれ共同生活を営んでいた。これを現前サンガという。これに対してサンガのすべてを観念的に１つの集団としてとらえたものを四方サンガという。

　今スクリーンに出しましたのは、小学館から発行された『仏教大辞典』の（サンガ）の項の解説です。ここには、「......出家者である比丘の集団（4人以上）を比丘サンガといい、比丘尼の集団を比丘尼サンガといって、これらがそれぞれ共同生活を営んでいた。これを現前サンガという。これに対してサンガのすべてを観念的に１つの集団としてとらえたものを四方サンガという。」と解説しております。仏教学の世界にもはやり廃りがありまして、１つの新説が立てられてこれが一世を風靡したかと思うと、やがてそれが否定されていくということがございます。これは学問としては当然のことでしょう。今スクリーンに出しました「現前サンガ」ということばや、「四方サンガ」ということばもその１つではないかと思います。ともかくこのことばは、現時点ではスクリーンに出しましたように理解されていますが、しかしこれは誤りであり、やがてこのような解説は消えていくと思います。辞書に書いてあることをはっきりと間違っていると申し上げると支障があるのではないかと心配してくださる方もいらっしゃるかも知れませんが、それは大丈夫です。なぜならこれは私が書いた解説文で、それを書いた本人が間違いだといっているのですから、苦情がでる心配はありません。この辞典が出版されましたのは1988年のことで、「釈尊伝の研究」を始める4年前のことになります。したがいまして当時の私は学界の常識にしたがって執筆したわけですが、この研究をやっている過程で、これが誤りであると気がついたわけでございます。なぜこれが誤りであるかという理由を申し上げると、少なくとも1時間はかかりますから、今ここでは細かなことは申し上げません。しかし今の解説に書かれているような意味の「現前サンガ」という概念や、「四方サンガ」という概念は存在しない、ということだけは申し上げておきます。ただこの解説の「四方サンガ」のところで「四方サンガ」は観念的なものだというところは注目していただきたいと思います。現在の日本の仏教学界では、これが「教団」に相当すると考えられているといってよいでしょう。しかし本来「サンガ」というのは「組織的な集団」を意味しますから、「観念的」にしか存在しないなら「教団」は存在しないというべきでしょう。仏教聖典は三蔵と呼ばれますが、その中の１つに律蔵、パーリ語ではヴィナヤというものがあります。この中にはサンガの運営法が規則として定められています。しかしこのサンガは出家修行者としての5人とか10人の集団としてサンガ、ここでいう「仏弟子たちのサンガ」を指しておりまして「釈尊教団」をさすものではありません。また経蔵にも「サンガ」ということばはたくさん出てきますが、そのすべては「仏弟子たちのサンガ」を指しているといってよいでしょう。要するに三蔵の中には、「釈尊教団」なるものが存在したことを示す直接証拠は見いだせないといってよいと思います。しかし実はごくわずかですが、それが「釈尊教団」を意味するのではないかと推測できるようなサンガの用法が見いだされます。

（7）阿難尊者（アーナンダ）とお釈迦さまの問答「世尊が比丘サンガに関して何かを語られない間は般涅槃されることはないだろうと考えて、心安らかになりました」「阿難よ、比丘サンガは私に何を期待しているのか」提婆達多（デーヴァダッタ）とお釈迦さまの問答「世尊は歳をとられました。比丘サンガを自分に付嘱してください、自分がブッダとなって比丘サンガを指導しましょう」「舎利弗・目連にすら比丘サンガを付嘱しない。いわんや唾を食う卑しい者においてをや」

　それが今スクリーンにでている、アーナンダやデーヴァダッタとお釈迦さまの間に交わされたことばの中に含まれるサンガです。アーナンダのことばは『涅槃経（マハー・パリニッバーナ　スッタンタ）』に残されているもので、お釈迦さまがヴェーサーリーで80歳の誕生日を迎えられた時に重い病気にかかられますが、その時のことばです。アーナンダはサンガの行く末を心配したわけですが、このサンガは「釈尊教団」のことでしょう。またデーヴァダッタのことばはお釈迦さまにサンガを譲れと要求したときのものです。このサンガもやっぱり「釈尊教団」のことでしょう。「仏弟子たちのサンガ」なら、デーヴァダッタはもうとっくの昔から、ヴァッジ族の若い比丘を中心とする自分のサンガを持っていたからです。しかもデーヴァダッタはみずからが「仏になる」とまでいっているのですから、これは「釈尊教団」のようなものでなければなりません。もし観念的なものなら、それを「譲れ」ということばは使われないでしょう。譲れるものは物質とか組織であって、観念は譲れません。「指導する」ということばもそうで、組織体なら指導できるけれども、観念的なものは指導できません。このようにここで使われているサンガということばがは、「教団」を意味すると思われます。そしてまた別に、「釈尊教団」が存在していなければならなかったと考えられる状況証拠があります。

（8）釈尊教団が存在した状況証拠具足戒（釈尊教団のメンバーとなる任命権）波羅夷罪（釈尊教団から追放する免職権）それが具足戒であり、波羅夷罪です。パーリ語でいいますとウパサンパダーであり、パーラージカです。具足戒は一人前のお坊さんとしての資格を授与することで、波羅夷罪は盗みや殺人などの重罪を犯した者からお坊さんとしての資格を剥奪することです。そしてこれらは１つ１つの「仏弟子たちのサンガ」が行います。しかし1つ1つの「仏弟子たちのサンガ」が行うとしても、それが全世界の仏教において公認されたものでなければ意味がありません。例えば私が日本テーラワーダ仏教協会のサンガで具足戒を授けられたのに、タイのお寺に行ったら比丘として認めてもらえなかったというのでは、はなはだ困ることになります。あるいは私が波羅夷罪を犯して日本テーラワーダ仏教協会のサンガから比丘としての資格を剥奪されたのに、スリランカに行けば比丘として認められるというのでは、これもはなはだ不都合です。このように考えると、カトリック教会のように形ははっきりとはしていないけれども、「釈尊教団」というものが存在すると考えざるを得ません。言葉を換えていえば、あるお寺で具足戒を与えることは、「釈尊教団」の一員になる資格を与えることを意味し、あるお寺で１人の比丘を波羅夷罪の処分をすることは、「釈尊教団」から追放することを意味しなければならないということです。とはいいながら「釈尊教団」という形は見えませんから、やっぱりこれは抽象的・観念的なものだったのでしょうか。しかし私はそうは考えません。

（9）「釈尊教団」の組織レギュラー・チェーン店的な組織ではなく＝イトーヨーカドーフランチャイズ・チェーン店的な組織＝セブンイレブン

　ちょっとあまりに下世話すぎて表現が悪いのですが、それにあまりに具体的すぎてもし差し障りがあればお許しいただきたいのですが、私は「釈尊教団」はフランチャイズ・チェーン店のような組織と考えています。これに対する組織がレギュラー・チェーン店的な組織です。具体的な例を挙げるとセブンイレブン的な組織と、イトーヨーカドー的な組織ということになります。イトーヨーカドーの店舗は全国各地にいくつもあり、私が住んでいる埼玉県の草加市にも草加店と新田店という2店舗があります。しかしイトーヨーカドーはレギュラー・チェーン店ですから、あくまでも「株式会社イトーヨーカドー」の支店で、運営の面ではかなりの部分は各地の支店に任されているとしても、最終的には資金調達やその建物・施設の設置、人材の配置、商品の購入・管理などはすべて本部の責任のもとで行われており、もちろん独立採算的な会計制度は持っているでしょうが、最終的には利益も損失も本部で一括して「決算報告書」が作成されます。したがって各地のイトーヨーカドーの店長や主立ったスタッフは、本社で採用されて各地の支店に派遣されるのですから、時々転勤があるし、支店の開設や閉鎖は本部で決定されます。最近各地のデパートが閉鎖されて話題になっておりますが、これも本社が決めることです。要するにカトリック教団はイトーヨーカドーのような組織体なのです。しかしセブンイレブンはフランチャイズ・チェーン店でありまして、全国にあるセブンイレブンの店舗は、もともとはそれぞれが独立した小売商店です。したがって土地や店舗、設備・備品は小売店主のものであり、資金も人事も商品の購入・管理なども一切は小売店の責任のもとに行われ、利益も損失もまた小売店のものということになります。しかし加盟料（ロイヤリティ）を払って、商品はセブンイレブン系統の仕入れルートによって仕入れ、ディスプレイや商品の管理などについてのノウハウを本部であるセブンイレブン・ジャパンから提供してもらっていますので、全国どこに行っても、セブンイレブンにはあの7とローマ字のiをかたどったロゴマークの看板が掲げられています。しかしセブンイレブンはもともとは個人商店なのですから、全国に散在するすべてのセブンイレブンの店舗や人材を統括管理するような組織は存在しません。「釈尊教団」を構成する１つ１つの「仏弟子たちのサンガ」も、個人商店であるセブンイレブンのように自主的に運営されておりました。「仏弟子たちのサンガ」が持っていた権利は次のようなものです。

（10）「仏弟子たちのサンガ」に与えられていた権利行政人事権　固定資産の所有権・運営権司法裁判権処罰権

　カトリック教団では、人事権も固定資産の所有権も、裁判権も処罰権も、すべてローマの教皇庁が握っていますが、「釈尊の教団」ではすべて「仏弟子たちのサンガ」に移譲されておりました。「釈尊教団」がフランチャイズ・チェーン店方式の緩やかな組織体であるという証拠です。しかし立法権はお釈迦さまが握っていらっしゃいました。亡くなった時に、小さな戒は廃止してよいと遺言されましたが、仏弟子たちはどんな小さな戒も廃止せず、どんな小さな戒も制定しないでいこうと決議しましたので、お釈迦さまが定められたそのままが現在まで伝わっています。このように「仏弟子たちのサンガ」は、立法権を除く行政権と司法権を有する、自主的に運営される集団であったということができます。しかしながらこれらが「釈尊教団」として１つにまとまるためには、セブンイレブンの１つ１つの店舗が本部に支払うロイヤリティのようなものと、本部が１つ１つのセブンイレブンに提供するノウハウといったようなものがなければなりません。

（11）釈尊教団を統一するもの三宝帰依法と律（私たちに残されたものでいえば経蔵と律蔵）＊すべての戒条は「最初の犯行者で、戒が制定されるまでは無罪」

　それは言うまでもなく、三宝帰依とお釈迦さまの説かれた「法」と「律」です。「三宝帰依」は１つ１つのサンガや一人一人の修行者が本部に支払うロイヤリティであり、「法」と「律」は本部から提供されるノウハウといってよいでしょう。「法」と「律」は、現在の私たちに残されたものでいえば「経蔵」と「律蔵」に相当します。しかしこれが単に理念に終わってしまったら組織化はできません。具体的であって、しかも実効性のあるものでなければなりません。「法」はどちらかといえばぼんやりしたものですから、そういう意味では本部から提供されるノウハウは「律」であったといってよいでしょう。「律」は違反すると罰則がある「法律」ですから、きわめて具体的なものです。しかも「律」の条文には、どの条文にも必ず「最初の犯行者で、戒が制定されるまでは無罪」ということばがつけられています。「律」ははじめから体系的に整備されたものではなく、犯罪が行われたたびごとにお釈迦さまがそれに応じて定められたものです。ですからその条文が作られるきっかけを作った最初の犯行者は、その時点では条文がありませんから、無罪ということになるわけです。しかしいったん「殺人を行ったものは波羅夷罪に処す」という条文が作られたら、無条件に波羅夷罪となり、罪を逃れることはできません。そんな条文があることは知らなかったという理由は通用しないわけです。要するにすべての出家修行者は昨日定められた律の条文をも含めて、すべてを知っていなければならないという前提なのです。例えば現代の日本でも、日常的に法律や法令は改廃されています。そこで今は、国会で成立した法律は、直ちにインターネット上で公示され、誰でも知ることができるようになっています。インターネットが発達するまでは、速やかに「官報」というものが発行されて、国民のすべてが知らなかったといわせないようなシステムになっておりました。しかし今から2,500年前のインドでこのようなことが可能だったのでしょうか。「律の条文が定められた以後は無条件に罪である」といわれても、定められた条文を知りうる手段を持っていなければ、法律はあってもなきが如きことになって、「釈尊教団」といってもしょせん観念的なものになってしまいます。ところが驚くべきことに、本部が提供するノウハウが全国の修行者に速やかに届けられる、そのシステムが構築されていたのです。昨日定められた法律が、今日インドの隅々にまで届くということはさすがに無理であったと思いますが、しかし去年定められた法律は、今年にはインドのすみずみにまで届いていたのではないかと思います。

（12）釈尊教団を統一するシステム布薩　月2回（法と）律を確認する会雨安居　雨期の3あるいは4ヶ月合宿して法と律を深く学ぶ自恣　雨期合宿の修了試験遊行（諸仏の常法）　雨安居の前後にお釈迦さまに会って法と律に関する教えを受ける

　そのシステムが、今スクリーンに出しました布薩と雨安居と自恣と遊行です。皆さんはテーラワーダ仏教のお坊さま方の日常もご覧になっているでしょうから、先刻ご承知のことと思いますが、布薩は月に2回主に律を確認する会です。もし新たに制定されたり、あるいは廃止されたりした条文があれば、この時に確認するわけです。雨安居は雨期の3ヶ月あるいは4ヶ月の間合宿して法と律を深く学ぶ機会といってよいと思います。自恣はその最後に行われる雨期合宿の修了試験とでもいってよいでしょう。これらはすべての出家修行者は必ず行うべしと戒律で定められた義務ですから、これによって法と律はすべての修行者に徹底されることになります。遊行は戒律で定められた義務ではありませんが、「諸仏の常法」とされています。雨安居の前後、特に雨安居明けにお釈迦さまのところに行って法と律に関する教えを受けるという習慣です。このときに新しく制定された律の情報などを仕入れるわけです。もちろん遊行の途中には各地のサンガに立ちよって情報交換します。このように遊行も「釈尊教団」を１つに統一させるための非常に重要なシステムとして機能していたということができますが、当時の交通事情からすると、これを義務化することはできなかったのでしょう。しかも全国からお坊さんが集まると、おそらく何千人、何万人になったでしょうから、これを受け入れるのは並大抵のことではありません。これも義務化することができなかった理由でしょう。このように「釈尊教団」は緩やかな組織ではありましたが、それを統一するロイヤリティーに相当するものも、本部から提供してもらうノウハウも、それを実現するシステムも備えていました。私たちの目に見えているのは１つ１つの「仏弟子たちのサンガ」でありますが、その背後にお釈迦さまの法と律を中心とする、全世界のすべてのサンガが網の目のようにつながりあっていたということになります。もちろんロイヤリティである三宝帰依は、仏教徒であることの条件のアルファでありオメガであって、出家する時にこれを誓うことから始まり、集会が行われる都度にこれが唱えられるのですから、これが徹底されないはずはありません。このように１つ１つの「仏弟子たちのサンガ」は、三宝帰依と律の規定を守るという原理と、それを実効性あらしめるシステムが有効に働くことによって「釈尊教団」は形成されていたのです。お釈迦さまの在世中は、セブンイレブン・ジャパンに相当する本部はもちろんお釈迦さまご自身でしたので、「釈尊教団」の形はまだ見えやすかったのですが、お釈迦さまが入滅されて以降は、さらにこれが見えにくくなりました。しかしそれが具体的に姿を現した瞬間がありました。それが結集（サンギーティ）です。

（13）「釈尊教団」が姿を現した瞬間お釈迦さまの遺言で行われた王舎城の第1結集（500結集）法と律に疑義が生じて行われたヴェーサーリーの第2結集（700結集）仏教の伝統を守るために行われたアソーカ王時代の第３結集（1000結集）

　お釈迦さまの亡くなる直前の様子を伝えた『涅槃経』は、お釈迦さまのサンガへの遺言を集めたお経といってよいと思います。その遺言の１つに「阿難よ、あなたは師の教えは終わった、もはやわれらの師はいないと思うかも知れない。しかし阿難よ、このように見てはならない。あなたたちのために私が説き、制した「法」と「律」が、私の死後のあなたたちの師である」ということばがあります。今も申し上げましたとおり、「釈尊教団」はお釈迦さまの説かれる法と律によって１つにまとめられていました。お釈迦さまの生存中は、何か疑問があれば本部であるお釈迦さまに確認すればそれでよかったのですが、亡くなってしまった後には確認できません。そこでお釈迦さまはこれからは「釈尊教団」の本部は自分ではなく、自分が説いた「法」と「律」だぞと遺言されたのです。摩訶迦葉はこの遺言にしたがって、お釈迦さまが亡くなってすぐに全国の有力な直弟子たちを集めて、これからの「釈尊教団」がよりどころとして行くべき「法」と「律」はこれこれであると、「釈尊教団」の権威の下にその編集を行ったのです。しかし「釈尊教団」は緩やかな組織体であったために、この結集に参加しなかった有力な弟子ができてしまいました。それがプラーナでありまして、プラーナは一時は、「結集をしたことはよい。しかし自分は自分が釈尊の面前において受けた「法」と「律」を保持していく」と嫌みを言ったと伝えられています。また第2結集は、仏滅後100年後にヴェーサーリーというところで、律の解釈をめぐって紛争が起こった時に開かれました。そしてそれからさらに135年くらい後に仏教の伝統に乱れが生じ、布薩が行われなくなったので、アソーカ王の時代に第３回めの結集が行われました。「釈尊教団」がよりどころとする法と律に解釈の食い違いができると、「釈尊教団」を１つにまとめることができなくなりますから、このような問題が起こった時には結集を行い、「釈尊教団」としての意思を統一をしたわけです。ちなみに大乗仏教のお寺やお坊さんはこの「法」と「律」をよりどころとしておりませんので、「釈尊教団」の一員ではありません。また特に日本仏教のお坊さんは、「律」にしたがって具足戒を受けているわけではありませんので、釈迦仏教から言えばお坊さんでさえありません。しかし中国や韓国のお坊さんは、よりどころとする「法」は違っても「律」は同じ系統のものによって具足戒を受けていますから、「釈尊教団」の一員としては認められなくとも、お坊さんとしては認められてよいでしょう。

（14）なぜ「釈尊教団」は緩やかな組織だったのか縁起という世界観＝絶対で唯一なるものを認めないサンガや個人に自主性を認めた

　少々余談になりますが、キリスト教が中央集権的なヒエラルヒーのきちんとした組織であったのに、仏教が非常に緩やかな組織になったのにも理由があります。キリスト教は神が絶対唯一の価値で、イエス・キリストはその預言者ですから、聖書は絶対です。したがって上意下達的な組織となり、異端が極端に廃されます。しかし仏教の世界観の基本は縁起ですから、むしろ唯一絶対なるものを認めません。そこでサンガや個人にも自主性が認められ、個性が尊重されるわけで、このような世界観を基礎とする組織が中央集権的なものになるはずはありません。宗教裁判のようなものも起こりえないわけです。

（15）仏教学者が描く最初期の修行者像と真実樹下に住み−−僧院においてただ１人で遍歴し−−集団の定住生活をし糞掃衣を着て−−こざっぱりした衣を着て乞食を常とする−−食堂での食事やお呼ばれもする

　以上のようにお釈迦さま時代の仏教の修行者たちは、それぞれがいずれかの「仏弟子たちのサンガ」に属していると同時に、「釈尊教団」という大きな組織にも属していました。僧院が建てられたのも、布薩や自恣や雨安居を行うために必要な施設だったからでありまして、もちろん近くの園林に出て、静かに１人で瞑想することも勧められましたが、基本は僧院での集団生活でした。また旅に出ることもありましたが、それはお釈迦さまに会ったり、よき師を求めたり、情報を交換したりという目的を持った旅でありまして、一処不定の目的地を持たない遍歴ではありませんでした。原則としては一ヶ所に定住しておりました。ところが多くの仏教学者はスクリーンに赤字で書きましたように、最初期の仏教の修行者は樹下に住み、ただ１人で遍歴し、糞掃衣を着て、乞食を常とする生活をしていたと主張しています。しかしもしお釈迦さまの教えが、学者のいうようなものを目指していたとするなら、仏教徒たるべき最低の要件に「サンガに帰依する」ということは入ってこなかったはずです。また、そもそも樹下に住み、ただ１人で遍歴し、糞掃衣を着て、乞食を常するというような修行方法は、お釈迦さまが捨てられた「苦行」に属します。「中道」こそ覚りに至る道であると確信されたお釈迦さまがこのような生活法を勧められるはずはありません。したがって提婆達多がこのような生活法を規定化することを提案した時に、お釈迦さまはこれを拒否されたのです。また、もしサンガの生活が基本でなかったなら、サンガとして行うべき布薩や自恣を出家修行者が１人の漏れもなく行うべき定例行事として定められなかったでしょう。そしてもしこのような制度がなかったら「釈尊教団」というまとまりは成立しなかったはずです。仏教学者が最初期の仏教の修行者像として描くイメージは、ただ１人深山幽谷に住んで、人々とは接触しない、仙人のような独覚（縁覚）でありまして、それはお釈迦さまが目指したものではありませんでした。そもそも仏教学者たちは、現在まで残されたパーリ語で書かれた経蔵や律蔵を信用しないという傾向があります。これらは後世の仏教徒がねつ造したもので、お釈迦さまの教えではないとでもいいたいようです。しかし私は布薩や雨安居や自恣や遊行は、お釈迦さまの教えを忠実に全世界の修行者に行き渡らせるための制度として定められたものであり、入滅後に行われた結集もお釈迦さまの遺言によって、お釈迦さまの教えを「釈尊教団」の心柱に据えるという意図のもとに行われたとするなら、現在に残されている聖典こそお釈迦さまの教えを忠実に伝えていると考えなければならないと思います。

（16）ゴータマ・ブッダの直弟子というべきテーラワーダ仏教ブッダと直弟子たちの教えと生活と修行のありさま＝テーラワーダ仏教のお坊さまを見よ

　そしてこれらの聖典がお釈迦さまの教えを忠実に伝えるものであるならば、現在のテーラワーダ仏教は聖典に書かれていることを忠実に実行しているわけでありますから、テーラワーダ仏教こそお釈迦さまの教えとその修行方法をそのまま伝えている、まさしくゴータマ・ブッダ直系の仏教であるといえると思います。換言すれば、お釈迦さまやその弟子たちの教えと生活と修行のありさまを知りたいなら、テーラワーダ仏教のお坊さまを見よということになります。日本テーラワーダ仏教協会の教えに従っている皆さんは、まさしくゴータマ・ブッダの直弟子ということになります。これからも私の「釈尊伝の研究」は続きます。スマナサーラ長老を初めてとして、日本テーラワーダ仏教協会の皆様方には、ぜひとも引き続きこの研究にご支援をたまわりたいということをお願いいたしまして、私のお話を終わらせていただきたいと思います。ご静聴ありがとうございました。 
        <![CDATA[<div><br /></div>［目次］&nbsp;<div>（1）「釈尊伝の研究」を通して見えてきたブッダの真実&nbsp;</div><div>（2）「モノグラフ」第16号&nbsp;</div><div>（3）お釈迦さまの誕生・成道・般涅槃の日&nbsp;</div><div>（4）サンガ&nbsp;</div><div>（5）カトリック教団の組織&nbsp;</div><div>（6）現前僧伽と四方僧伽&nbsp;</div><div>（7）阿難尊者（アーナンダ）・提婆達多（デーヴァダッタ）とお釈迦さまの問答&nbsp;</div><div>（8）釈尊教団が存在した状況証拠&nbsp;</div><div>（9）「釈尊教団」の組織&nbsp;</div><div>（10）「仏弟子たちのサンガ」に与えられていた権利&nbsp;</div><div>（11）釈尊教団を統一するもの</div><div>（12）釈尊教団を統一するシステム&nbsp;</div><div>（13）「釈尊教団」が姿を現した瞬間</div><div>（14）なぜ「釈尊教団」は緩やかな組織だったのか</div><div>（15）仏教学者が描く最初期の修行者像と真実</div><div>（16）ゴータマ・ブッダの直弟子というべきテーラワーダ仏教</div>]]>
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    <title>現地調査の概要</title>
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    <published>2010-06-01T01:08:49Z</published>
    <updated>2010-06-01T01:36:41Z</updated>

    <summary><![CDATA[［本講演の概要］&nbsp;　本講演がお釈迦さまの誕生・成道・般涅槃のお祝いをす...]]></summary>
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        <name>釈尊伝</name>
        
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        <![CDATA[<div><br /></div>［本講演の概要］<div>&nbsp;　本講演がお釈迦さまの誕生・成道・般涅槃のお祝いをするウェーサーカ祭にちなんでのものであったことから、これらの日にちについてのテーラワーダ仏教の伝承と日本仏教の伝承が異なっている理由をお話しした後に本題に入る。</div><div>&nbsp;　「釈尊教団は存在したか」という副題に表されているように、サンガ特にすべての仏教の出家修行者と各地に散在するすべての出家修行者の集団を統括するような「釈尊教団」とでも呼ぶべきサンガが存在し、それがどのようなものであったかを述べたものであり、これを通してテーラワーダ仏教の特質を考えようとしたものである。 </div>]]>
        
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    <title>日本テーラワーダ仏教協会</title>
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    <published>2010-02-26T06:15:57Z</published>
    <updated>2010-02-26T06:22:12Z</updated>

    <summary>釈尊の説かれたテーラワーダ仏教を学び、伝えるために活動している『日本テーラワーダ...</summary>
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        <name>釈尊伝</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.sakya-muni.jp/">
        <![CDATA[<p>釈尊の説かれたテーラワーダ仏教を学び、伝えるために活動している『日本テーラワーダ仏教協会』のサイトです。<br /><a href="http://www.j-theravada.net/">
http://www.j-theravada.net/</a></p>]]>
        
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    <title>本論文の概要</title>
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    <published>2010-02-09T23:30:32Z</published>
    <updated>2010-05-18T05:26:47Z</updated>

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        <name>釈尊伝</name>
        
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        <![CDATA[<p>　本稿は【論文20】「サンガにおける紛争の調停と犯罪裁判」の姉妹篇であって、この論文が扱った7つの紛争調停法・犯罪裁判法のなかの1つである、教義教学に関する論争（諍論諍事）の調停法である「多人語ヴィナヤ（yebhuyyasikā）」の行い方とその理念を考察したものである。<br />
　この「多人語ヴィナヤ」は一般的には「多数決」と現代語訳され、サンガが民主的・平等に運営されていたという通説の最大の根拠となっている。しかしながらそれはまさしく誤解であって、「多人語ヴィナヤ」はサンガのリーダーの考えに同調する者たちが多数を占めるように、根回し・談合は愚か、票数を操作するなどの不正行為までが行われ、もしこれが失敗してサンガのリーダーの意思に反する結果になったときには、投票そのものが無効にされなければならないというものなのである。<br />
　したがって「多人語ヴィナヤ」はサンガの意思を民主的・平等に多数によって決定するために行われるのではなく、サンガに紛争が起こったときに、そのリーダーが自分の考えに同調する者が多数になるような工作をしたうえで投票し、自分の考えに同調する者が多数を占めたということをよりどころにして、紛争を解決しようとする方法なのである。<br />
　なぜこのような不正行為まがいの調停法が許されるかといえば、サンガはサンガのリーダーの強いリーダーシップのもとに運営されるべきものであって、したがってもしこのサンガに紛争が起こったら、リーダーのとる立場が常に正義（dharma, dhamma）であるという前提のもとに、サンガのリーダーの考えるところにしたがって調停されなければならないからである。<br />
　本稿はこのような「多人語ヴィナヤ」が実際にどのように行われ、それはどのような理念に基づいていたものであるかを考察したものである。 </p>]]>
        
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    <title>本論文の概要</title>
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    <published>2010-02-09T23:30:14Z</published>
    <updated>2010-05-18T05:26:05Z</updated>

    <summary>　筆者はかねてから「律蔵」は「経蔵」とは異なった、仏教独自の法理念に基づいた法律...</summary>
    <author>
        <name>釈尊伝</name>
        
    </author>
    
        <category term="1-20論文20" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.sakya-muni.jp/">
        <![CDATA[<p>　筆者はかねてから「律蔵」は「経蔵」とは異なった、仏教独自の法理念に基づいた法律文書であると主張してきた。法律であれば公法に分類される行政法、刑法、刑事・民事訴訟法が含まれるともに、私法に分類される民法が含まれなければならない。<br />
　ところで「公法」とは国家機関や行政機関がかかわるもので、刑法が公法に分類されるのは、刑事犯罪が発生すれば、告訴・告発のあるなしにかかわらず、警察などの行政機関が私人に対して法的に優越する意思をもって動き始めなければならない領域を法的に定めたものであるからである。また民事訴訟法や刑事訴訟法が公法に分類されるのは、裁判所などの国家機関が行う裁判の手続き・形式を定めたものだからであり、行政法が公法であるのは説明するを要しないであろう。一方の民法が私法に分類されるのは、財産の所有権やその譲渡・相続などは原則として私人間で処理されるべきであり、これに関する規則を定めたものであるからである。<br />
　しからばもし「律蔵」が法律文書であるとするなら、律蔵のどこが上記の刑法や民法や訴訟法に相当するのであろうか。まず、仏教における行政機関はサンガであって、したがってこのサンガが法的に、私人に対して優先的に係わるべきことが定められた規則が公法であり、比丘・比丘尼が個人的に処理すべき事項について定められた規則が私法であるとすることができる。そして『パーリ律』によって具体的にいえば、サンガのさまざまな運営規則を定めた「犍度分」中に収められる「大犍度（受戒犍度）」「布薩犍度」「入雨安居犍度」「自恣犍度」「チャンパー犍度」「コーサンビー犍度」「別住犍度」「集犍度」「破僧犍度」「遮説戒犍度」などは「行政法」に相当し、「経分別」中の波羅夷罪や僧残罪のように、その処罰にサンガが係わり、もし犯して隠そうとする者があればサンガに告発しなければならない重罪の規定は「刑法」に、この告発や裁判の手続きを定めた「犍度分」中に収められている「羯磨犍度」や「滅諍犍度」などは「刑事訴訟法」「民事訴訟法」に相当し、「経分別」中の原則として個人としての上座比丘などに懺悔すれば許され、サンガに対して告発する道が設けられていない捨堕以下の軽罪や、個人ないしは法人としてのサンガの所有物を規定した「犍度分」中の「皮革犍度」「薬犍度」「衣犍度」「小事犍度」「臥坐具犍度」などは「民法」に相当する。私法にはこの外に商法も含まれるが、出家者には経済行為・生産行為は禁止されているから、「律蔵」にはこれに相当するものはない。<br />
　本稿はこの中の「刑事訴訟法」ないしは「民事訴訟法」に相当する「滅諍犍度」と「羯磨犍度」を中心に、「律蔵」独自の法体系と法理念をも追求しながら、筆者の用語にもとづいていえば諍論諍事・告発諍事・犯罪諍事・羯磨諍事の4種に分類されるサンガの中の紛争・犯罪をどのように調停し、どのように裁判するかを定めた7つの紛争調停法・犯罪裁判法すなわち、「現前ヴィナヤ」「憶念ヴィナヤ」「不癡ヴィナヤ」「自言治ヴィナヤ」「多人語ヴィナヤ」「覓罪相ヴィナヤ」「草覆地ヴィナヤ」が、実際にどのように行われるべきかということを考察したものである。ただしこのうちの「多人語ヴィナヤ」の詳細は次の<a href="http://www.sakya-muni.jp/monograph/84no16/1-2121/">【論文21】</a>に譲られている。<br />
　</p>]]>
        
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    <title>本論文の概要</title>
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    <published>2010-02-09T23:23:26Z</published>
    <updated>2010-05-18T05:24:51Z</updated>

    <summary> 　本稿はかつて研究分担者であった中島克久が担当して、原始仏教聖典やその注釈書、...</summary>
    <author>
        <name>釈尊伝</name>
        
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        <category term="1-22論文22" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.sakya-muni.jp/">
        <![CDATA[ 　本稿はかつて研究分担者であった中島克久が担当して、原始仏教聖典やその注釈書、本縁部経典などの後期原始仏教聖典などから、就学や結婚などのライフステージの年齢記事を収集し整理した3つの「資料集」すなわち&nbsp;<blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">【資料集1-1】原始仏教聖典に見られる年齢記事一覧［Ⅰ］─"Jātaka-aṭṭhakathā"篇─（本「モノグラフ」第１号所収　1997.7）&nbsp;<br />【資料集1-2】原始仏教聖典に見られる年齢記事一覧［Ⅱ］（本「モノグラフ」第６号所収　2002.10）&nbsp;<br />【資料集６】本縁部経典に見られる年齢記事一覧（本「モノグラフ」第10号所収　2005.4）</blockquote>&nbsp;に収められている資料をデータとして、これらを統計的に処理し、加えて同じく中島が担当した&nbsp;<blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">【資料集4】「古典インド法典類の年齢記事資料─幼児期の浄法（<i>saṃskāra</i>）と住期（<i>āśrama</i>）を中心に─」（本「モノグラフ」9号　2004.5）&nbsp;</blockquote><div>を参考にして、釈尊時代のインド人の、階層別・男女別の、目次に掲げたようなライフステージの平均的かつ標準的な年齢を導き出そうとしたものである。</div><div>&nbsp;　そのまとめを以下に掲げ、概要に代える。</div><div><br /></div><div>&nbsp;　以上、就学、学業の修了、遊学、就業、結婚、立太子（副王位）、即位、隠棲、老耄、死没などの各ライフステージの平均年齢ないしは最頻値を、原始仏教聖典（A文献）と後期原始仏教聖典（B文献）を材料にして資料を収集した資料集「原始仏教聖典に見られる年齢記事一覧」「本縁部経典に見られる年齢記事一覧」「古典インド法典類の年齢記事資料」などをもとに、主に統計的な分析を施しながら、若干の考察を加えて、われわれの研究の基準とすべき標準的な年齢を求めてきた。その結果のみを示すと次のようになる。&nbsp;</div><blockquote class="webkit-indent-blockquote" style="margin: 0 0 0 20px; border: none; padding: 0px;">就学年齢　階級に関係なく8歳（男）<br />学業の修了年齢　16歳（男）　※成人年齢に相当する。&nbsp;<br />遊学年齢　16歳（男）　※基礎的な学業の修了が16歳であったことを裏付ける&nbsp;<br />就業年齢　16歳（男）　※基礎的な学業の修了が16歳であったことと、結婚年齢が16歳であるのと対応する。&nbsp;<br />結婚年齢　16歳（男・女）　※ただし女子に関しては初潮以前の幼児婚もひろく行われていた。&nbsp;<br />立太子（副王位）年齢　16歳（男）
即位年齢　16歳（男）　※ただし王位につく資格を有する年齢という意味である。<br />隠棲年齢　16歳（男子）　※仙人への道に入るという意味である。&nbsp;<br />老耄年齢　80歳　※成人に達して以降の平均余命はかなり高かった。&nbsp;<br />死没年齢　120歳　※説話的にモディファイされた年齢であって、幼少年期の死亡も多かった。</blockquote><div>&nbsp;　ただし「はじめに」にも書いたように、原始仏教聖典ならびに後期原始仏教聖典に記載されている年齢記事が絶望的と言いうるほどに乏しいため、必然的に考察の対象とすべき資料数が少なくなった。したがって統計的な処理をするという所期の目的は十全にはたっせられなかったと反省しなければならない。</div><div>&nbsp;　しかしながら学業の修了年齢も、遊学年齢も、就業年齢も、結婚年齢も、立太子年齢も、即位年齢も、隠棲年齢も、すべてが16歳であるということは、当時の社会においては16歳が成人年齢であったことを示し、この年齢がその後の人生の進路を決定する非常に重要なポイントになる、ということはいえるであろう。</div><div><br /></div><div>&nbsp;　なお本稿は、以前に中島が草稿としてまとめていた資料集「ライフステージ年齢資料の整理と平均および最頻値──原始仏典、<i>Jātaka-aṭṭhakathā</i>、本縁部経典より収集された男女別・ライフステージ年齢表──」をもとにして、森が考察部分を加えて論文として編成しなおしたものである。</div>]]>
        
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    <title>まとめ</title>
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    <published>2010-02-09T04:40:36Z</published>
    <updated>2010-05-14T04:21:23Z</updated>

    <summary>　まとめ以上、就学、学業の修了、遊学、就業、結婚、立太子（副王位）、即位、隠棲、...</summary>
    <author>
        <name>釈尊伝</name>
        
    </author>
    
        <category term="1-22論文22" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.sakya-muni.jp/">
        　まとめ以上、就学、学業の修了、遊学、就業、結婚、立太子（副王位）、即位、隠棲、老耄、死没などの各ライフステージの平均年齢ないしは最頻値を、原始仏教聖典（A 文献）と後期原始仏教聖典（B 文献）を材料にして資料を収集した資料集「原始仏教聖典に見られる年齢記事一覧」「本縁部経典に見られる年齢記事一覧」「古典インド法典類の年齢記事資料」などをもとに、主に統計的な分析を施しながら、若干の考察を加えて、われわれの研究の基準とすべき標準的な年齢を求めてきた。その結果のみを示すと次のようになる。就学年齢　階級に関係なく8 歳（男）学業の修了年齢　16 歳（男）　※成人年齢に相当する。遊学年齢　16 歳（男）　※基礎的な学業の修了が16 歳であったことを裏付ける就業年齢　16 歳（男）　※基礎的な学業の修了が16 歳であったことと、結婚年齢16歳であるのと対応する。結婚年齢　16 歳（男・女）　※ただし女子に関しては初潮以前の幼児婚もひろく行われていた。立太子（副王位）年齢　16 歳（男）即位年齢　16 歳（男）　※ただし王位につく資格を有する年齢という意味である。隠棲年齢　16 歳（男子）　※仙人への道に入るという意味である。老耄年齢　80 歳　※成人に達して以降の平均余命はかなり高かった。死没年齢　120 歳　※説話的にモディファイされた年齢であって、幼少年期の死亡も多かった。ただし「はじめに」にも書いたように、原始仏教聖典ならびに後期原始仏教聖典に記載されている年齢記事が絶望的と言いうるほどに乏しいため、必然的に考察の対象とすべき資料数が少なくなった。したがって統計的な処理をするという所期の目的は十全にはたっせられなかったと反省しなければならない。しかしながら学業の修了年齢も、遊学年齢も、就業年齢も、結婚年齢も、立太子年齢も、即位年齢も、隠棲年齢も、すべてが16 歳であるということは、当時の社会においては16 歳が成人年齢であったことを示し、この年齢がその後の人生の進路を決定する非常に重要なポイントになる、ということはいえるであろう。＊本稿は中島が草稿としてまとめてあった資料集「ライフステージ年齢資料の整理と平均および最頻値──原始仏典、JAtaka-aTThakathA、本縁部経典より収集された男女別・ライフステージ年齢表──」をもとにして、森が考察部分を加えて論文として編成しなおしたものである。

        
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    <title>【11】死没年齢</title>
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    <published>2010-02-09T04:40:04Z</published>
    <updated>2010-05-18T05:32:59Z</updated>

    <summary>　【11】死没年齢［0］これも自覚的、意識的になしうるライフステージではないが、...</summary>
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        <name>釈尊伝</name>
        
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        　【11】死没年齢［0］これも自覚的、意識的になしうるライフステージではないが、前項と同様の理由によって調査項目とした。［1］原始仏教聖典において年齢をともなった死亡記事には以下のようなものがある。［1-1］原始仏教聖典（Ａ文献）の死没年齢記事を紹介する。〈1〉イシダーシー（IsidAsI）の過去世/不明（女性でもなく、男性でもなく；nF evamahiLA na puriso ）/シュードラ/30 歳（1）TherIgAthA（pp.166~167）vs.442~443：〔過去世〕それから〔わたし、イシダーシーは〕......婢の家に（dAsiyA ghare）生れ、女性でも男性でもなかった（nF evamahiLA na puriso）。30 歳の時に死に（tiMsativassamhi mato）、車夫の家（sAkaTikakula）に娘として生まれた。（1）本「モノグラフ」6 号、【資料集1-2】に「死没」資料として落ちていたものを補った。〈2〉釈尊❶　/男/クシャトリヤ/79歳白法祖訳「仏般泥　経」（大正01　p.172 下）：年亦自至七十有九。惟斷生死迴流之淵。思惟深觀。從四天王。上至不想入。從不想轉還身中。自惟身中四大惡露。無一可珍。北首枕手猗右脇臥。屈膝累脚。便般泥曰。失訳「般泥　経」（大正01　p.188 中）：......自我爲聖師。年至七十九。......〈3〉釈尊❷　/男/クシャトリヤ/80歳MN.016MahAparinibbAna-s.（vol.Ⅱ　pp.100~156）：〈4〉釈尊❸　/男/クシャトリヤ/80歳『増一阿含』026-009（大正02　p.640 上）：釋迦文佛不久在世年向八十。然今世尊不久當取涅槃。〈5〉（波斯匿王の母）/女/クシャトリヤ/100 歳『増一阿含』026-007（大正02　p.638 上）：時大臣便作是念。此波斯匿王母。年向百歳今日命終。設當聞者王甚愁憂。不能飮食而得重病。我今當設方便。〈6〉（父）/男/バラモン/100 歳『増一阿含』041-002（大正02　744 下）：我頻七日中七男兒死。皆勇猛高才智慧難及。近六日之中。十二作使人無常。能堪作使無有懈怠。近五日已來。四兄弟無常。多諸妓術無事不閑。近四日已來父母命終。年向百歳捨我去世。近三日已來二婦復死。......〈7〉（母）/女/バラモン/100 歳『増一阿含』041-002（大正02　744 下）：同上〈8〉ブラフマーユ（BrahmAyu）/男/バラモン/120 歳MN.091BrahmAyu-s.（vol.Ⅱ　pp.133~146）：その時ミティラー（MithilA）にブラフマーユ婆羅門が住んでいた。年老い（ jiNNa ） 年長け（ vuddha ） 高齢（mahallaka）にして、晩年（addhagata）である老衰に達し（vayo anuppatta）、生れて120 歳（vIsaMvassasatiko jAtiyA）であり、......ブラフマーユ婆羅門は釈尊の三十二相を調べた後、随順説を聞き、......（p.146）釈尊が去られて間もなく亡くなった《老熟/死没》。〈9〉（波斯匿王の祖母）/女/クシャトリヤ/120 歳（1）SN.003-003-002（vol.Ⅰ　p.096）：世尊よ、わが（Pasenadi 王）祖母は年老い、年長け高齢にして、晩年である老衰に達し、生れて120 歳である。ayyakA mebhante kAlakatA jiNNA vuDDhA mahallikA addhagatA vayo anuppattAvIsa-vassa-satikA jAtiyA. ※波斯匿王は祖母が馬宝で死を逃れられるならば馬宝を、善き村または国で死を逃れられるならばこれらを与えるので、祖母を死なせないようにと世尊に頼む。しかし世尊は一切の衆生は死法であり、死を終わりとし、死を越え得ないものであると説く。波斯匿王の祖母は120 歳で死没したとしてとった。（1）中村元訳『ブッダ　神々との対話』（岩波文庫　2001 年〔1986 年〕）の注に、「長寿の人に言及する場合に「百二十歳まで生きた」という表現は古ウパニシャッド以来見られる一種の定型句である。必ずしも実際に百二十歳まで生きたというわけではないらしい」（p.333）とある。〈10〉須跋❶　（Subhadra）/男/バラモン/120歳MahAparinirvANasUtra（pp.366~382）：〈11〉須跋❷　/男/バラモン/120歳『長阿含』002「遊行経」（大正01　p.025 上）：須跋『雑阿含』979（大正02　p.253 下）：須跋陀羅『別訳雑阿含』110（大正02　p.413 上）：須跋陀羅白法祖訳「仏般泥　経」（大正01　pp.164 下~172 下）：須抜失訳「般泥　経」（大正01　pp.180 上~188 下）：須跋法顕訳「大般涅槃経」（大正01　pp.203 中~204 中）：須跋陀羅〈12〉一梵志/男/バラモン/120 歳『長阿含』007「弊宿経」（大正01　p.046 中）：昔者此斯波醯村有一梵志。耆舊長宿年百二十。彼有二妻。一先有子。一始有娠。時彼梵志未久命終《死没》。〈13〉一婆羅門/男/バラモン/120 歳『四分律』「（比丘尼）波逸提070」（大正22　p.737 上）：往昔有一婆羅門。年百二十形體羸痩。此婆羅門婦端政無比多生男女。此婆羅門繋心其婦及諸男女。初不捨離。以此愛着情篤遂至命終。［10-2］後期原始仏教聖典（Ｂ文献）の死没年齢〈1〉一男/男/不明/１歳『衆経撰雑譬喩』37（大正04　p.540 上）：昔有一人兩婦。大婦無兒。小婦生一男。端正可愛。其婿甚喜。大婦心内嫉之。外　愛念劇於親子。兒年一歳許。家中皆知大婦愛重之無復疑心。大婦以針刺兒　上令沒皮肉。兒得病啼呼不復乳哺。家中大小皆不知所以。七日便死。〈2〉一長者子/男/ヴァイシャ（長者児）/４歳『雑譬喩経』道略集10（大正04　p.525 上）：長者兒始年三歳。便持布施爲作弟子。至四歳乳母抱詣師所住寺。寺在山上累石作道。乳母抱兒不堅失手落地。頭側石上腦出而死。〈3〉一長者子/男/ヴァイシャ（長者子）/5.5 歳（５歳・６歳）『雑宝蔵経』47（大正04　p.469 上）：昔佛在世。於一長者子。年五六歳。相師占之。福徳具足。唯有短壽命《死没関連》。將至外道六師所。望求長壽。瞋彼六師都無有能與長壽法。將至佛所。白佛言。此子短壽。唯願世尊。與其長壽。佛言。無有是法能與長壽。重白佛言。願示方便。佛時教言。汝到城門下。見人出者。爲之作禮。入者亦禮。時有一鬼神。化作婆羅門身。欲來入城。小兒向禮。鬼呪願言。使汝長壽。此鬼乃是殺小兒鬼。但鬼神之法。不得二語。以許長壽。更不得殺。以其如是謙忍恭敬。得延壽命。〈4〉一小児/男/不明（牧人）/７歳①　７歳《就業》⇒②　７歳《死没》『六度集経』66（大正03　p.035 中）：有一小兒厥年七歳。城外牧牛。遙聞比丘誦説經聲。即尋音往詣精舍中。禮比丘已却坐一面。聽其經言。時説色本聞之即解。兒大歡喜經句絶已。便問比丘。比丘應答不可兒意。是時小兒反爲解説。其義甚妙。昔所希聞。比丘聞之。歡喜甚悦。怪此小兒。乃有智慧非是凡人。時兒即去。還至牛所。所牧牛犢散走入山。兒尋其迹追逐求索。爾時値虎害此小兒。小兒命終《死没》。魂神即轉。〈5〉一男/男/バラモン/７歳『中本起経』10（大正04　p.159 下）：是時國内。有婆羅門。居富多寶。老無兒子。祷祠盡力。未後生男。其年七歳。得病便亡《死没》。〈6〉一男/男/バラモン/７歳『法句譬喩経』（大正04　p.597 中）：昔有婆羅門。年少出家學道。至年六十不能得道。婆羅門法六十不得道。然後歸家娶婦爲居。生得一男端正可愛。至年七歳書學聰了《就学》。才辯出口有踰人之操。卒得重病一宿命終《死没》。〈7〉一長者子/男/ヴァイシャ（長者子）/７歳『義足経』06（大正04　p.178 下）：佛便入城。城中時有一梵志死。壽年百二十死。復有一長者子。年七歳亦死。兩家倶送喪。皆持五綵幡。諸女弱皆被髮。親屬啼哭悲涙。......〈8〉一長者子/男/ヴァイシャ（長者子）/7.5 歳（７歳・８歳）『雑譬喩経』失訳24（大正04　p.508 中）：昔王舍城中人民多豐饒。九品異居不相雜錯。別有一億里。有一億財者。便入中。時有居士。規欲居中便行治生。苦身節用廣諸方計。數十年中九十萬數未滿一億。得病甚篤自知不濟。有一子年七八歳。囑語其妻曰。吾子小大。付與財物令廣治生。使足滿一億。必居其中。全吾生存之願矣。言竟終亡。喪送事畢。將子入示其寶物。父有遺教。須汝長大具一十萬足滿一億。居億里中。子報母言。何必須大便可付我早共居之。母即付之。於是童子以財物珍寶。供養三尊施與貧乏者。半年之中財物盡了。其母愁惱怪子所作。童子未幾身得重病遂便喪亡。其母既失物子又幼喪。憂愁憶之。......〈9〉一男/男/バラモン/12 歳『大方便仏報恩経』（大正03　p.151 中）：爾時毘舍離國有一婆羅門。執著邪見貪著我慢。舍利弗大目　連往到其家。説法慰喩而不信受。執著邪論。其家大富財寶無量。家無有子。一旦崩亡財賄沒官。思惟是已。奉祠諸山及諸樹神。過九十日其婦便覺有娠。月滿生男。其兒端正人相具足。父母愛念衆人宗敬。至年十二。共諸等侶出外遊觀。道逢醉象馳犇踐踏。即便命終《死没》。〈10〉一梵志女/女/バラモン/14.5 歳（14 歳・15 歳）『法句譬喩経』（大正04　p.576 上）：昔佛在舍衞國祇樹給孤獨園。爲諸弟子説法。時有梵志女。年十四五。端正聰辯。父甚憐愛。卒得重病即便喪亡《死没》。〈11〉（あるバラモンの息子）/男/バラモン/15.5 歳（15 歳・16 歳）JAtaka449MaTTakuNDali-j.（vol.Ⅳ　p.059）：ある婆羅門の子息〔主分〕１人の有力な婆羅門の子が15・16 歳（paJcadasasoLasavassa）で病気に取りつかれて死に天上界に生まれた《死没》。〈12〉（梵志長者の子）/男/バラモン/20 歳『法句譬喩経』（大正04　p.605 下）：有一梵志長者居在路側財富無數。正有一子其年二十。新爲娶婦未滿七日。夫婦相敬言語相順。......有一　樹高大華好。婦欲得華無人與取。夫知婦意欲得　華。即便上樹正取一華。復欲得一展轉上樹乃至細枝。枝折墮地傷中即死《死没》。〈13〉釈尊/男/クシャトリヤ/80 歳（1）『仏本行集経』（大正03　p.671 中）：阿難。我今多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀。住世八十歳。爲利益故。（1）釈尊の80 歳入滅資料はたくさんある。また79 歳とするものなどもあるがすべて省略する。「モノグラフ」第1 号に掲載した【論文3】「釈尊の出家・成道・入滅年齢と誕生・出家・成道・入滅の月・日」p.115 以下を参照されたい。〈14〉一婆羅門/男/バラモン/80 歳『法句譬喩経』（大正04　p.586 上）：昔佛在舍衞國。時城中有婆羅門。年向八十財富無數。爲人頑闇慳貪難化。不識道徳不計無常。更作好舍。......老翁於後自授屋椽。椽墮打頭即時命過《死没》。〈15〉波斯匿の母❶　（大夫人）/女/クシャトリヤ/90歳『法句譬喩経』（大正04　p.575 下）：時國王波斯匿大夫人。年過九十卒得重病。諧藥望差遂便喪亡《死没》。〈16〉喬答彌/女/クシャトリヤ/120 歳（1）『根本有部律』「雑事」（大正24　p.248 下）：大世主喬答彌等壽百二十歳。身無老相如。十六歳童女。......是故　芻若他　時不應言長壽。若故言者得越法罪。（1）MahApajApatI GotamI の死亡記事については、「モノグラフ」第10 号に掲載した【論文10】「MahApajApatI GotamI の生涯と比丘尼サンガの形成」p.068 以下を参照されたい。〈17〉菩薩の母/女/バラモン/120 歳JAtaka061AsAtamanta-j.（vol.Ⅰ　p.285）：菩薩は青年の母親の意図をくみ、120歳（vIsaMvassasatika）になる自身の母親を教材にして、女というものが淫らで卑しいものであることを教えて、出家を促した。この日、菩薩の母親は120 歳で亡くなった《死没》。〈18〉アシタ仙/男/バラモン/120 歳（1）『過去現在因果経』（大正03　p.627 中）：〔阿私陀仙人〕今年壽。已百二十不久命終《死没関連》。（1）『異出菩薩本起経』（大正03　p.618 上）では「年百餘歳」とあり、【資料集6】には収めたが本資料集では計算上、除外した。〈19〉一梵志/男/バラモン/120 歳『義足経』06（大正04　p.178 下）：佛便入城。城中時有一梵志死。壽年百二十死《死没》。復有一長者子。年七歳亦死。兩家倶送喪。皆持五綵幡。諸女弱皆被髮。親屬啼哭悲涙。......〈20〉波斯匿の母❷　/女/クシャトリヤ/120歳『出曜経』（大正04　p.621 上）：時國王波斯匿母年過百二十卒得重病。非醫藥所療神祇不能救。不經日夜遂便命終《死没》（1）。（1）上記の外に次のような資料も存する。ただし同列には扱えないので参考として掲げておく。①　一給使/男/不明（給使）/（11 歳+数年）『法句譬喩経』（大正04　p.606 中）：有一給使其年十一常爲王使。忠信奉法不失威儀。謙卑忍辱精進一心學誦經偈。知時先起已　香火。數年之中精進如是不以爲勞。卒得重病遂致無常。②　一女/女/不明/１~14歳『衆経撰雑譬喩』37（大正04　p.540 上）：昔有一人兩婦。大婦無兒。小婦生一男。端正可愛。其婿甚喜。大婦心内嫉之。外　愛念劇於親子。兒年一歳許。家中皆知大婦愛重之無復疑心。大婦以針刺兒　上令沒皮肉。兒得病啼呼不復乳哺。家中大小皆不知所以。七日便死。大婦亦復啼哭。小婦摧念啼哭晝夜不息。不復飮食垂命。後便知爲大婦所傷。便欲報讐。行詣塔寺問諸比丘。大徳。欲求心中所願。當修何功徳。諸比丘答言。欲求所願者。當受持八關齋。所求如意。即從比丘受八戒齋便去。却後七日便死。轉身來生大婦。爲女端正。大婦愛之。年一歳死《死没》。大婦端坐不食。悲咽摧感劇於小婦。如是七返。或二年《死没》或三年《死没》。或四五年《死没》。或六七年《死没》。後轉端正倍勝於前。最後年十四已許人。垂當出門即夜便卒死《死没》。大婦啼哭憂惱。なお本資料は子を殺された母の復讐劇であり、同じ苦しみを味わわせるためにその婦の子として生れては幾度も死んでみせる。本「モノグラフ」10 号（p.261）では「死没」資料として取り上げ、注を付したように、①　１歳、②　２歳、③　３歳、④　４，５歳、⑤　６，７歳、⑥　14歳の合計６回の死没記事を含むが、「死没」資料というよりは、母子が共依存する、子が成人するまでの世代（1 歳~14 歳）を示す資料として解して、ここではカウントから削除し参考に止めた。［2］上記を統計的に分析してみる。［2-1］死没年齢のA 文献・B 文献資料を度数分布表にしてみると以下のようになる。《死没年齢》年齢Ａ．原　始　仏　典Ｂ．後　期　仏　典総計パーリ漢　訳JAtaka,ApadAna本縁部・根本有部律男女男女男女男女1 1 14 1 15.5 　1(1) 17 4 47.5 　1(2) 112 1 114.5 1 115.5 1 120 1 130 1 179 1 180 1 1 2 490 1 1100 1 2 3120 2 1 3 1 2 2 11平　均最頻値_ 120総　計3 2 6 2 1 1 14 4 33（1）死没年齢を５歳６歳とする〈3〉の資料である。下のヒストグラムでは５歳、６歳のグラフにそれぞれ0.5 度数を加算した。（2）死没年齢を７歳８歳とする〈8〉の資料である。下のヒストグラムでは７歳、８歳のグラフにそれぞれ0.5 度数を加算した。［2-2］上記、（1）（2）の注を考慮して、ヒストグラムで修正を加えると次のようになる。死没年齢0246810121 5 10 15 20 25 30 35 40 45 50 55 60 65 70 75 80 85 90 95 100 105 110 115 120年齢［2-3］A 文献（13 件）、B 文献（20 件）の男女を合わせた死没年齢の最頻値は120 歳（度数11〔相対度数33.33〕）である。文献別ではA 文献は120 歳（度数６〔相対度数46.15〕）、B 文献では120 歳（度数５〔相対度数25.00〕）である。またヒストグラムでは男女を分けて示さなかった。平均を出せば、A 文献は83.8 歳、B 文献は47.9 歳、A 文献・B 文献を合わせた平均は68.0 歳である。［3］上記をもとに若干の考察を加える。少数の資料をもとにした統計であるが、ヒストグラムにおいては、死没年齢の山は20 歳以前の幼年期・若年期の死亡と、80 歳以降の老年期の死亡に分かれ、35 歳から75 歳までの中間期の死亡資料は１つもないというきわめて不自然な形となっている。おそらく幼年期・若年期の死亡記事は当時の医学の未発達による、幼・少年期の死亡が多かった事実を反映したものであろう。これに対する死亡年齢の最頻値が示す120 歳は、説話的にモディファイされたものであって、現実を表したものであったとは考えられない。医学の発達した現代にあっても、このようなことはあり得ないからである。またA 文献の平均値の83.8 歳も、B 文献の平均値の68.0 歳も現実的な数字でないことは明らかである。これは多くの120 歳で死亡したという資料を含めて平均値であるからである。したがってこれらが当時の平均寿命を表すとも読めないわけである。まったくの推測であるが、当時の平均寿命は男女ともに40 歳を上回ることはなかったのではなかろうか。しかしながら前項に書いたように、成人期に達して以降の平均余命は、かなり高かったのではないかと想像される。 
        
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